3話 お嬢様の心の中はどうなのでしょう
「……別にそなたまで学園に入学する必要はないのだがな」
爽やかな風が吹き抜ける中庭で、婚約者とゆっくりお茶を飲む。それは傍目には仲睦まじい、恋人たちの愛の逢瀬に映るだろう。現状は、不機嫌も露に紅茶を啜る第三王子の姿があった。互いの付き人も、主人たちの邪魔にならぬようにと、少し離れたところに控えている。
「ルシアン様」
「父上から頂けた期間は一年だ。たった一年だけだ。王宮の堅苦しさから抜け出して自由を謳歌出来る最後の機会なのに、そなたが居ては完全に忘れることなど無理だな」
目下の者が目上の者に反論出来ないのをいいことに、ルシアンはいつもアメリライラを責め立てる。婚約者という間柄からも何を言っていい相手、と認識されているようだ。
アメリライラに特に不満はない。ルシアンはただ言っているだけなのだ。聞き流すだけ。心に留めておく必要はない。
それに、いくらルシアンが特別扱いはしなくてもよいと言っても、特別扱いをしないわけにはいかない。第三王位継承者なのだ。何かあってからでは遅すぎる。ルシアンの言葉を耳が素通りしていく中で、アメリライラは人の気配を探った。
ここは王子たち専用の中庭だ。不心得者が容易く侵入出来るような場所ではない。親衛隊や近衛隊が守っている、王国で一番安心出来る場所なのだ。感覚を鋭くしてみると、中庭の中に3人、中庭をぐるりと取り囲むように5人、気配がする。完全に気配を殺している者が居るならば、もっと多いかもしれないが、少なくとも今現在それだけの人数がルシアンを警護している。
「そなたには判らぬだろうな。こうして気の進まないお茶を飲むにしても、こうした機会が唯一の息抜きになるという窮屈さが。いつもいつも侍従や警護の者どもに囲まれて。これが高貴な身分に産まれついてしまった者の悲劇だな」
ルシアンは今独りで居るつもりなのだろうか。アメリライラは内心首を傾げる。ルシアンが言う通り、ルシアンは高貴な産まれだ。だからこそ、完全に独りになる時間というのは僅かにしかない。自分でも気配を察することが出来たのに、当の守られている本人が何も気配も感じないのだろうか。
もしかして──……もしかして、ルシアンは鈍いのだろうか。
その思考を慌てて打ち消す。それは危険な思考だ。ルシアンがそう振る舞っているのなら、ルシアンなりの考えがあってのことだ。ルシアンは第三王子なのだから、アメリライラごときには考えも付かないことを思ってのことに違いない。
「そなたやレイヴンが羨ましいことだ。さぞかし自由に日々を過ごしているのだろうな。私と違って」
ルシアンの言葉に、アメリライラは何と答えればよいか判らなくなる。ルシアンは何を言っている? アメリライラは公爵令嬢だ。ルシアンたちには並ぶことも出来ないが、公爵の家に産まれた者としての役割や仕事はある。それを知らないルシアンではないだろうに……
それに、アメリライラたちに自由な時間という概念はない。手が空いた時は即ち鍛練の時間である。普段からそうして鍛練しておかないと、ルシアンを守ることは出来ない。全部無駄になるべきことでも。
「……風が強くなってきたな。部屋に戻るか」
答えられないアメリライラに痺れを切らしたのか、元々返事など期待してもいないのか、ルシアンが一方的に言ってこのふたりのお茶会を強制終了させる。何も言わずに立ち上がり、アメリライラをエスコートすることもなくさっさと歩き出した。
別にどこへ行くにもエスコートをしてもらいたいわけではないが、仮にも自分に全く気を使わないルシアンに対して多少思うところはある。
第三王子ルシアンと、公爵令嬢アメリライラの婚約は公式に発表されている正式なものだ。その相手を蔑ろにしているとでも噂が立ちでもすれば、ルシアンの評判に関わる。皇太子、第二王子に次いで第三位とはいえ、先はどうなるか判らないのが世の常だ。
皇太子は生来身体が弱く、病がちで王位を継ぐのは無理では、と囁かれている。第二王子は様々な国に留学していて、今は一体どこに居るのか謎である。シャンダルジア王国に戻っているのか居ないのか。居るとしたら、なぜ公の場に出てこないのか。必然的に、取り入る相手は第三王子しか居なくなる。
ドレスの裾を持って少し小走りにルシアンの後を追うと、ルシアンは既に中庭を抜けて王国の廊下を歩いていた。アメリライラに歩みを合わせることはしない。
コツコツと靴音が響く中で、回廊の向こうから人影が見えた。咄嗟に緊張するが、この場所に王族以外の者が居るということは厳重な警備をクリアしてきたということ。無闇に牽制するべきではない。指先だけは、服に仕込んであるダキーレの存在を確かめていた。
「──これは、ルシアン王子殿下」
臣下の礼を取りながらルシアンに声を掛けてきたのは、以前夜会で一度だけ会ったことのある人物だった。
「まさか本日このような場所でお目に掛かることが出来るとは、僥倖でございます! きっと私めの運は急上昇していることでしょう」
名乗ることもせずに、口を忙しく動かす男。その非常識な振る舞いに、ルシアンは眉を顰めた。喋る男を無視してまた歩き出す。
「あ、王子殿下! お待ち下され!」
ルシアンの前に回り込んだ男が床に額突く。仕方なしに、ルシアンは足を止めた。アメリライラはいつでも飛び出せるように身体に力を入れる。ルシアンが不機嫌になっているのが伝わってきた。
「ご挨拶が遅れました。私め、セドリック・ド・パースと申します。子爵の称号を頂いております。以前の夜会ではご挨拶出来ずにおりました」
アメリライラは喉に力を入れた。
「まぁ、私にもご挨拶させて下さいませ」
アメリライラの声に、セドリックは不躾な視線を送る。何だこの小娘は、といった心の声が聞こえてくるようだ。
「私、アメリライラ・ド・オールズヴォールドと申します」
爵位を持つ者で、オールズヴォールドの名前を知らぬ者は居ない。それでも紹介されたわけでもないので、フルネームは名乗らない。セドリックの顔が引き攣り始めた。
「ルシアン様の婚約者でございます」
止めとばかりに言葉を続けた。
「こ、れは、ご丁寧に。私めなどに丁寧なご挨拶、誠にありがとうございます」
王子の傍に居たのは公爵令嬢。少し考えれば判ることである。身分のない者が王族の傍に侍ることなど出来はしない。
「セドリック様にはどうされたのですか? このようにお慌てになってルシアン様にお声掛けするなど……何かあったのですか?」
セドリックの表情が面白いように変わった。アメリライラが言葉に籠めた意味が判っているのだろう。
緊急の場合を除いて、身分の下の者が身分の上の者に声を掛けることは出来ない。これは常識である。本来であれば、パース子爵当主であっても、オールズヴォールド公爵令嬢に声を掛けることさえ出来ないのだ。ましてやこの国頂点の王族には言わずもがなである。
「こ、これは大変失礼を致しました! 麗しい王子殿下のお姿を拝見致しまして、居ても立ってもおられず、思わず失礼な振る舞いをしてしまいました。平にご容赦願います!」
床に額を埋める勢いで下げた。
「私めなどではご尊顔を拝謁することも叶わぬと思っておりましたが、こうして王子殿下との僥倖の巡り合わせにおいて叶い、恐悦至極でございます。私めの最大の幸せとして、この先パース子爵家に語り継いでいく所存でございます!」
「……もうよい。何か用か」
「ルシアン様」
溜め息をつきながらルシアンがセドリックに声を掛けた。アメリライラの僅かに咎める声音にチラリと視線を向ける。その目を真っ直ぐ見つめた。無礼な振る舞いをした男に、声を賜る栄誉を与えてどうするのだ。
「そなたは黙っていろ。女がでしゃばるものではない」
「ルシアン王子殿下! お言葉を掛けて下さるとは、光栄の極みでございます!」
「ルシアン様」
ルシアンは型に嵌めたように歓喜を露にするセドリックと、傍らに立つ自身の婚約者とに視線を送る。面倒臭い、余計なことを言うな、なぜ私に声を掛けてきた、なぜ今来た、どうすればいい、恥をかかせるな──……様々な思いをルシアンは今抱えているだろう。そしてその鬱憤を晴らすには、相手はひとりしか居ない。
「アメリライラ。そなたは下がれ」
「ルシアン様」
「そなたは私に指図するのか。私が声を掛けてもいいと判断したことに不服でもあるのか」
声を荒げてはいないものの、怒りの形相を浮かべている。アメリライラにだけ、見せる表情だ。
「ルシアン様、いけません。王子殿下としての相応しいお振る舞いをなされなければ」
「黙れ!」
臣下の無礼な振る舞いは、同じ臣下が諌める。当たり前のことである。セドリックは子爵であるにも関わらず、自分からルシアンに声を掛けた。それと同様のことが今後もまかり通ることがあっては国が乱れる元にもなりかねない。
「そなたはいつ私に指図出来るほど偉くなった?」
「臣下として進言しております」
「臣下! 臣下としての進言か! 有り難く頂戴するとしよう! そなたは下がれッ!」
こうなっては仕方がない。意固地になってしまったルシアンは酷く頑固で面倒臭くなる。アメリライラは礼を取った。
「それでは失礼致します、ルシアン様」
「そなたは身体が弱いのだからな。家で大人しくしていることだ。それが私のためだ!」
ルシアンは最早アメリライラを見もしない。セドリックはこのやり取りをニヤニヤと笑って見ていた。厭らしい笑顔だ。王子の婚約者が叱責されているのを楽しんでいるのだろう。
「それで? お前は何の用だ」
「は、ありがとうございます! 実は私めには娘が居りまして、これが我が娘ながらなかなかに見目良く育ちまして……」
ルシアンとセドリックの会話が遠去かる。自分の娘をルシアンに送り込んで、あわよくば婚約者の地位を奪おうとする魂胆か。よくある話だ。
子爵から出世するには、戦争で余程の武勲を立てるか、経済面などで目覚ましい発展に貢献するか……それにつけても、何度か国王に叙勲を授けてもらい、五爵の官爵全てに賛同をもらい、初めて上にひとつ上がる。それほどの時間、武力、知力、財力が要るのだ。
それを一足飛びに越えてしまうのが、王族の配偶者の実家である。娘が仮に王子と結婚して、王子が王位を継いで王と成ったとしたら。その娘は王妃だ。王妃の実家を、蔑ろには出来はしない。そのために、娘を持つ家はせっせと王子のベッドに送り込もうとする。
──それを、唯々諾々と受け入れることは絶対にない。
挑まれたのなら、迎え撃つ。決して婚約者の地位を明け渡すことはしない。ルシアンを守るためにここに居るのだから。
ルシアンを守る、ということには第三王子を諌めるということも含まれている。ただ本人だけを守っているだけではない。風評も、この先どうなるか判らない未来も含めて関連する全てのことを守らなければならない。
王宮に居る間はまだいい。第二側妃の暗殺の手もまだ緩いだろう。けれども学園に入学したら、ルシアンは一旦王宮から離れてしまう。親衛隊や近衛隊も警備を強化するだろうが、今まで通りにはいかないと考えておいた方がいいだろう。そのためには、アメリライラがもっと強くあらなければならない。
去って行くルシアンの背中を見つめながら身体に力を入れる。中庭や出入り口に居た警備の気配が動いて行く。いつもああして影から守っているのだ。それをルシアンが気付いていないとは有り得ない。
学園の中では、何が起こるか判らない。兄レイヴンや、侍女シンリーでは対応出来ない場面がきっと出てくる。これからはもっともっと強くいなくては。
入学するまでにはあと3ヶ月ほどしか残されていない。勉学も、武術も、今まで以上に身に付けられるように精進せねば。
父親からの期待に応えたい。兄からも役に立つ妹だと、もっと愛されたい。オールズヴォールド公爵家のためにも。
──そこには、婚約者からの愛情を欲する気持ちはない。気持ちがないことにも、まだ気付いていない。
彼女が覚醒するまで、あとどれくらい──……?