1話 始まり、始まり
楽しんで頂けると幸いです。よろしくお願い致します。
「──……アメリライラ。我がオールズヴォールド家は、いつ如何なる時も王家の御為に在る」
それは、物心ついた時から繰り返し繰り返し父親に聞かされた言葉。
その言葉を胸に──アメリライラは、今日も何度目になるか判らない毒見をして、焼け尽くような喉の痛みを覚えた。
テーブルの上に広げられた、繊細なレースに周りを彩られたクッキーを端へ追いやる。これが間違っても、アメリライラの婚約者であるルシアンの口に入ろうものなら大騒動である。
ルシアン・フェルディ・ド・シャンダルジア。シャンダルジア王国の第三王子である。王位継承権は皇太子、第二王子に次いで第三位。王国にとって重要人物だ。
「──どうされた? アメリライラ嬢」
その一声に、笑い騒めいていた声がピタリと潜む。お茶会に出席していた夫人や令嬢たちは一様に口を噤んだ。希少な鳥の羽をふんだんに使った扇を扇ぎながらアメリライラにそう声を掛けてきたのは、このお茶会の主催者、イザベラ第二側妃。第二側妃が主催したものに毒見係りは置かれていない。失礼に当たるためだ。親衛隊や近衛隊が入れない、又は毒見が叶わない場面は多々ある。そのために役に立つのがアメリライラである。
アメリライラが産まれたオールズヴォールド公爵家は昔から王家に絶対の忠誠を誓っている名家だった。常に王家のために、王家へ仇なす害がないように影になり助けている。
オールズヴォールド家に産まれた子は、息子でも娘でも厳しく教育を施された。貴族にとっては常識である社交界のマナー、領地を治める手腕、一般的には子女には必要とされていない領地収支の計算式。武術に関しても同様だ。オールズヴォールドに生を受けた者は、必ず武術の手解きを受ける。同時に、毒見も出来るように毒物の知識も与えられる。
それが今回、役に立った。クッキーに使われる材料は、小麦粉、卵、砂糖などだ。酒類などが使われることはあっても、喉を刺す刺激などあるはずもない。
「……申し訳ございません。少し、気分が」
ハンカチで口元を押えつつ、気付かれないように口の中のものを吐き出す。第二側妃主催のお茶会。普段は必ずなされる毒見が唯一不在の飲食。側妃が用意したクッキーに不審を持っても、それを今糾弾するのは得策ではない。それを入れた犯人が、如何にあからさまであっても。
「アメリライラ嬢はなかなか強いお身体になれないと見える」
「申し訳ございません……」
「ルシアン様。どうぞ介抱してあげるが宜しかろう」
「そうですね。アメリライラ、こちらへ」
「ありがとうございます、ルシアン様」
第二側妃からの嫌味にも特に反応せず、側妃に言われるまでアメリライラを介抱しようともしなかったルシアンの手を取り、フラリと立ち上がる。その時、不自然に見えないように毒入りクッキーをテーブルから落とすことも忘れない。夫人たちから小さな悲鳴が上がった。
「申し訳ございません……無作法を致しました」
落としたクッキーは、控えていたアメリライラの侍女が手早く処理した。お茶会から退室する際には、お茶会を警備していたアメリライラの兄、レイヴンが側妃に挨拶をしてから一緒に退室してきた。その後ろから侍女も連いてくる。後ろからはまた囁くような声が少しずつ沸き起こった。
ルシアンに手を引かれて連れて行かれたのは、宮殿の中でも余り日当たりの良いとはいえない部屋だった。
「レイヴン。お前の妹はまた気分が悪くなったらしい」
「申し訳ございません、ルシアン王子」
兄妹に向けているのは不機嫌さを隠そうともしない苛立ちだ。自身の婚約者を気遣う空気は微塵もない。
「お手を貸して頂き、ありがとうございました。ルシアン様」
冷たい手を離し、淑女の礼を取る。
「構わないよ、我が婚約者殿。しかしいい加減身体を強くしてもらわねば、この先結婚したとしても到底子などは望めないであろうな」
「……申し訳ございません」
暗に匂わすのは、アメリライラは婚約者に相応しくないという思い。まず最初に求められるのは跡継ぎであるということは、ルシアンもよく理解している。
「妹は少しこちらで休ませようと思います。それからお暇させようと思いますが、よろしいでしょうか?」
「好きにするがよい。休めば良くなる体調であればどれだけでも休んでいればいいぞ」
仮にも婚約者だ。その相手に掛ける言葉ではない。が、兄妹は何も気にすることはなく、頭を下げた。
「そなたが抜けた穴を埋めてくるとしよう」
何のダメージも与えられない言葉を残して、ルシアンは部屋から出て行った。出て行ってきっかり10秒、室内の3人は頭を下げ続ける。そのあとパッと身を翻し、レイヴンはアメリライラに駆け寄った。
「ライラ」
侍女のシンリーが懐から何枚も紙を出す。
「吐け」
シンリーから受け取った紙を口元に当て、アメリライラは躊躇いなく口に指を突っ込んだ。未だ焼け尽く喉を刺激して、胃の中の物を吐き出す。レイヴンも手慣れたもので、アメリライラの背中を擦る。部屋の中には、アメリライラが吐く音がしばらく響いた。
「……ありがとうございます、お兄様。シンリーも、いつもありがとう」
ようやく全てを吐き終えたアメリライラが口元を拭う。顔色は青白かったが、焼け尽く喉の痛みは和らいでいた。アメリライラが吐いた物を、シンリーが追加した紙で処理している間、ソファで横になる。兄レイヴンは、妹の髪を撫でていた。
「今回は何だった」
レイヴンの声に、シンリーがレースに包まれた先程のクッキーを渡した。見た目は普通の、色彩りのクッキーだ。プレーン、チョコレート、オレンジ、茶葉。香りにも異変はない。1枚食べてしばらくしたら、喉を焦がす痛みが襲ってきた。
「恐らく、ネリの葉だと思います。細かく粉砕して生地に練り込んだものと」
「ネリの葉か」
ネリの葉には、可憐な白の花を咲かすが、根に近い葉には人体にとって有害な成分が含まれる。だからこそ、焼き上がりに葉の緑が出ても怪しまれないように色彩りなクッキーにしたのだろう。たった1枚食しただけでこの痛みだ。余程大量に入れたに違いない。
「ルシアン様がお召しになる前で良かった」
「えぇ、お兄様。本当に」
その気持ちに偽りはない。オールズヴォールド公爵家は、全てを王家のために。知力、財力、武力──人間の、命までも。王家のために磨き抜かれた知も力も技も。全てを捧げる。
「どうする。もうしばらく休んでいくか」
「いいえ、これ以上ここに居て心痛をお与えするつもりはございません。屋敷へ帰ります」
「そうか。では馬車の用意をしておく。気を付けて帰るんだぞ」
「ありがとうございます。でも大丈夫です、シンリーも居てくれますから。お兄様もどうぞお気を付けて」
レイヴンはアメリライラの額にキスをひとつすると、静かに部屋を出て行った。またお茶会の会場に戻り、ルシアンを守るだろう。アメリライラは兄になら安心して護衛を任せられると思い、安堵の息をついた。
第二側妃のイザベラの執拗な攻撃に、文字通り身を盾にしてルシアンを守ってきた。今までも──これからも。そのための婚約者の立場。
ルシアンは第三王子。それなのに第二側妃……第二王子の母であるイザベラがルシアンの命を狙うには、我が息子を玉座に据えたいという野望に他ならない。
それに気付いていないのが、当の第三王子。それもこれも、アメリライラやレイヴンが身を削って暗躍しているからだった。
──全く気付かない、というのもどうかと思うが。
* *
馬車に揺られて帰ったオールズヴォールド家は何時もと変わらない顔を見せた。
「お帰りなさいませ、アメリライラお嬢様」
「ただいま、サエラス」
老執事が玄関ホールで出迎える。青白い顔色のアメリライラを見ても、特に動揺はない。
「今日は、お父様は?」
「本日は夕食時にはお戻りになられる予定でございます」
「そう」
ならば今日の報告はその時でいい。それまでにきっと体調も回復するだろう。自室に戻り着替えようと思ったが、気も紛れると思い、ナイフを手にする。体内に僅かばかり吸収してしまった毒素は汗として排出されるだろう。
「ライラお嬢様?」
「シンリー。どうせだから一汗かくわ。動けば体調も良くなるだろうし」
体調不良だからベッドで休む、という発想はない。体調不良だからこそ、普段と違う状態の時にも鍛練は必要なのだ。動けるうちは、体調不良には当て嵌まらない。
「シンリー、頼める?」
「畏まりました、少々お待ちを。準備して参ります」
頭を下げてシンリーが部屋から出ていく。シンリーが扉を閉めてから深呼吸をひとつ、ふたつ……しっかりゆっくり10秒数えてから、ドレスを翻し、バッと扉を開く。開いた扉から勢い良く飛び出して、廊下を走る。走りながらシンリーの気配を探る。今日はどこから来る?
長い廊下を半分ほど走ったところで、後ろから微かに風切り音がした。勢いを殺さないように身を躱して、反動をつけて床を蹴る。飛来したダガーよりも小さなナイフ、ダキーレを顔を僅かに傾けることで避けて、そこからグッと今走ってきた廊下を加速して戻る。
ドレスのウエストより下の部分に仕込んであるナイフを取り出し、躊躇うことなく前方に放つ。放った直後に胸元にも仕込んであったナイフを手に尚も駆ける。小さく音がして放ったナイフが相手に弾かれたことを悟り、ナイフを手にしたまま跳躍した。キィンッ! と鋭く高い音がして、刃を受け止められる。跳躍して渾身の力を込めたダガーは受け手ともどもに折れた。
折れたナイフの柄が直ぐ様アメリライラの頭を狙う。背中を思い切り仰け反って斬撃を躱した。二度、三度と襲うその斬撃を横に倒れて回転して避ける。その時。
「アメリライラお嬢様。旦那様のお帰りでございます」
一枚の板が入っているかのように背筋を伸ばした老執事が父親の帰りを告げた。全く力を入れていないように見えるが、廊下の端まで転がっていったアメリライラの耳に朗々と響いてくる。腹筋や背筋、声帯筋を鍛えている証拠だ。
声を掛けられた時、アメリライラは廊下の絨毯の上を転がり、シンリーは折れたナイフの柄を振るっていた。
公爵令嬢を侍女が襲う。それは一般的に決して許されない行為だ。事と次第によっては本人は処刑、実家は断絶、その責は親類縁者にまで及ぶ。それほどの罪深い行為だ。けれど──オールズヴォールド公爵家では、それは当て嵌まらない。
この公爵家に居る人間は全て、執事や侍女に至るまで武術に通じている者ばかり。部屋や廊下で突然始まる肉体鍛錬や対人的な技術を磨くための模擬戦は常のことであった。
「判りました。身嗜みを整えてから参ります。お父様には少し遅れると伝えてもらえるかしら」
「畏まりました」
「ライラお嬢様。では私も仕事に戻ります」
「えぇ、ありがとう、シンリー。またよろしくね」
息のひとつも上がっていないシンリーがアメリライラを立たせ、乱れた髪を撫で、腰を折って礼を取る。本来の侍女の仕事をするべく、主人の衣装部屋に向かった。その姿を見送って小さく息を吐くと、老執事と目が合った。
「ご気分は晴れましたか?」
「えぇ、そうね。身体を動かせば気分も体調もすっきりするわ」
「それは良うございました。旦那様には連敗記録更新をお伝えいたしましょうか」
サエラスの言葉に、アメリライラは渋面になる。
「負けたわけではないわ。今日は時間切れなだけです」
「左様でございますか。では今日の決着はまたの機会に」
老執事の柔和な笑顔に騙されてはいけない。優しい風貌に似合わず、幼いころからアメリライラやレイヴンを鍛えてきたのはこのサエラスだ。そのサエラスが育て上げたシンリーには、未だ圧勝出来ないでいる。
「では、食堂でお待ちしております」
「えぇ、判りました」
言い終えるか否かのタイミングで、アメリライラは後方へ飛び退く。立っていた場所にはナイフが3本突き刺さっていた。油断も隙もない執事である。
アメリライラが育ったオールズヴォールド公爵家は、こんな家だった。
1話目からヒロインが吐く流れになってすみません。よろしくお願い致します。