ヒトキリ
一言でいえば悪夢。しかしそれは具体性を伴わなかった。
――漠然とした不安が迫り来る感じ。
祥雲にとってその日はいつもと何かが違って見えた。
「どうかなされましたか?」
ソワソワともイライラとも取れる普段の祥雲とは似ても似つかぬ挙動不審さに見兼ねた琴音はタイミングを見計らってそう切り出す。
「……嫌な予感がする。琴音は何も感じないのか?」
「ええ、特には」
祥雲と琴音が一つ屋根の下で暮らすようになってから二週間。
恋人のように四六時中一緒にいるということはなかったが、それでも出会った頃に比べると二人は格段に打ち解けていた。どちらも好んで自分の事を話そうとはしなかったが、それでも共同生活を実践することで信頼関係というものは着実に積み上げられており二人が前向きに歩み寄る姿勢を見せ始めた矢先に不安は降って湧いたように姿を現した。
「今何時だ?」
「えぇーと、六時過ぎです」
「それにしては外が暗いな。冬でもあるまいし……」
それが直感によるものか霊能力者特有の勘によるものなのかはわからない。
前者なら杞憂で済むがもしも後者なら――……。
沈みつつある夕日を見据える祥雲は未だにその答えを出せずにいた。
「――――ッ!?」
そんな中で聞こえてきたガラスが割れる音。
祥雲が慌てて台所に向かうと琴音が割れた皿の破片を拾い集めていた。
「大丈夫か?」
「すいません。手を滑らせてしまって……」
手を滑らせて皿を割っただけならまだよかった。
割れた皿が特別なものでもなければ、琴音がケガをしたという事実もない。
それだけなら単に「気をつけろ」で済む内容だ。
だが祥雲は気付いてしまった。琴音に異変が起こっているということに……。
「おいっ! その顔はどうした?」
「えっ……?」
「病人のように真っ青じゃないか」
破片を拾い集める琴音の手をガッと掴んだ祥雲は顔を近付けた。
――明らかに痩せ我慢している。
誰が見てもそうだとわかるぐらい琴音の顔は青白かった。
「大丈夫ですから……」
「嘘をつけ!」
「本当に大丈夫ですのでッ!」
余計なお世話だと言わんばかりに祥雲の手を払いのける琴音。
直後に琴音は両手で口を塞いだ。
「オエェェェ……」
堤防が決壊するように琴音の両手から溢れた吐瀉物。それは瞬く間に床一面に広がった。
痩せ我慢も限界を迎えたのか観念するように涙をポロポロと零して琴音は泣き崩れる。
「うぅ……ごめんなさい……」
「ここは片付けておいてやるからお前は部屋で休んでろ」
「違うんです。そうじゃないんです……」
「すぐに医者を呼ぶ。こうゆう時ぐらい遠慮するな」
「病気とかじゃなくて……その、激しい悪寒に襲われて……」
琴音の言葉からハッとした祥雲。
自身が感じていた嫌な予感は決して杞憂ではないと確信がもてた。
「祥雲……?」
「大人しくしてろ。悪寒の正体が分かった」
それは霊能者が自力では太刀打ちできない妖魔を感知した時の防衛本能。
琴音の悪寒はまさにそれに起因していた。
原因さえ分かれば対処ができる。祥雲は急いで靴を履き外に出た。
「……まさかとは思ったが、殴り込みとは恐れ入ったぜ」
田舎の神社とはいえ九字護身の本陣の一つ。
強力な結界が張られていることはもちろん、陰陽学や風水においても妖魔の類が近寄れない環境が整っているにもかかわらず〝例外〟が現れた。
当然ながら祥雲にとっては初めての経験。歴代当主でも同じ経験をした者はおそらくいないだろう。祥雲はそんな事を考えつつ見晴らしのいい境内で待ち構えた。
「事前に連絡くれてりゃ茶菓子ぐらいは用意したのに」
祥雲の予想通り現れたのは人ならざる者。
長く急な階段を一歩一歩踏みしめるようにして上ってきた〝そいつ〟は姿を見せるなり睨みを利かせて祥雲を威圧した。
「……こんなのが近づいてくれば並の霊能者なら吐いて当然か」
素顔を隠すかのように編笠を深くかぶった幕末志士を思わせる風貌。
強力な妖魔ほどその姿は《人間》に近付くと言われているが、祥雲が目にする妖魔はまさに人間そのもの。強いてその姿に違和感を挙げるとすれば日本人には珍しい推定二メートルを超えるであろう大柄の男であるということだ。
「こいつぁかなりヤべーな……」
過去に戦った最強の妖魔が霞むほどの強敵。瞬時にそう直感した。
ゆえに様子見はなく最初から全力。
狩人のような鋭い目付きになった祥雲は反撃とばかりに妖魔を威圧し返す。
『かなりの手練れとお見受けする』
「人型だけあって言葉がはっきりしてるな。人間を相手にしている気分だ」
『いざ、尋常に勝負』
問答無用とばかりに抜刀したのは目算五尺にも及ぶであろう赤塗りの太刀。
――知らないわけじゃない。
祥雲は確信をもって己が知ってることを口にした。
「お前が全国で霊能者を殺し回ってるって噂の妖魔か。ここ最近は九字護身の会合でもちらほらその名を聞くぞ」
すでに何人もの著名な霊能者を殺めているだけあってその危険度は最高レベル。
当然ながらその首には多額の懸賞金がかけられ、祥雲と同じ九字護身の当主のうちの何人かはすでに討伐に名乗りを上げているほどの大物。
――噂になるだけのことはある。
それが直に件の妖魔を見た祥雲の率直な感想だった。
『九字護身……。お主もそうか』
「ああ、失敬。申し遅れた。俺は九字護身〝臨〟の字を受け持つ二条家当主の二条祥雲。お前が過去に九字護身の誰と戦ったのかは知らんが、俺のネグラに殴り込んできた以上はタダで帰れると思うなよ」
『フッ……それは楽しみだ』
祥雲の言葉に怯むどころか余裕をもってそう返す妖魔ヒトキリ。
互いの実力を認め睨み合うこと数秒。
先に動いたのはヒトキリの方だった。
「ぬっ……」
巨体に似合わない俊敏な動き。
渾身の一撃をもって祥雲を屠らんとヒトキリは太刀を振り上げる。
瞬時に反応できたが祥雲はその動きをギリギリまで見定めた。
『…………ッ!!』
交差する両雄。時が止まったかのように場が静まり返る。
「チッ……」
手応えなるものはたしかにあった。経験上それだけで勝敗が決していてもおかしくないと思えるほどのものだったが、ヒトキリを倒したという実感は不思議なほどにわかなかった。
「……やるな」
祥雲が振り向くと、肩から黒い瘴気を噴き出すヒトキリ。
ダメージを与えはしたもののそれを致命傷というには程遠い。
自身の強さに絶対的な自信を持つ祥雲にとってその結果は不満でしかなかった。
「今の一撃で仕留めるつもりだったんだがな」
敵ながら天晴と言わざるを得ないほどの反応速度。おかげで首を刎ね損ねた。
事前に可能性の一つとして考えていなければできない反応だ。
そのことから考えてヒトキリが名実ともに最凶の妖魔であることに疑いの余地がない。
想像以上の強敵を前に祥雲の身体は震えた。
「妖魔退治でここまでゾクゾクしたのは生まれて初めてだ」
自分の意思とは関係なくニヤつく口元。
過去に戦った妖魔は本気を出すに値しなかったが、今眼前にいる妖魔は本気で戦ってちょうどいいと思える相手。普段の妖魔退治には怠惰な姿勢が目立つ祥雲だったが、この時ばかりは新しい玩具を買ってもらった子供のように内心はしゃいでいた。
「んじゃ、次はこっちの番だ」
祥雲が身体に纏ったのは甲冑を彷彿とさせる濃い霊気。
攻守一体という言葉を体現した戦闘スタイル。
それは《肉体強化型》と呼ばれる最もポピュラーな《術式》の一つだった。
「さあ始めようか」
破砕する音とともに蹴った地面に生じる小型のクレーター。
その速さは先刻ヒトキリが仕掛けた時とは比べものにならないものだった。
『ぐむっ……』
すぐさま祥雲の動きに反応して太刀を振るうヒトキリだったが、それを容易く見切った祥雲の手刀がヒトキリの身体を斬り裂いた。
黒い瘴気――人間でいう血を放出しながらヒトキリは祥雲から距離を置く。
再びダメージこそ与えはしたものの、それもまた祥雲にとって不本意な結果。
「たいした防御力だな。並の妖魔なら真っ二つにしているところだ」
どれだけ深手を負わせようともそれが致命傷でない限り妖魔は再生する。
倒すなら首を刎ねるか、あるいはその妖魔固有の弱点を突いて倒すかのどちらかだったが、ヒトキリほどの手練れ相手にそれはまず通じないと考えていいだろう。
そう結論付けた祥雲は時間をかけて確実にヒトキリを追い詰めることにした。
「非効率だがお前の妖力が尽きるまで延々と再生を繰り返してもらうぞ」
ヒトキリの妖力を考えれば先の長い話だったが現状はそれが最も確実な手段。
オンラインゲームが得意な祥雲は何時間もかけてようやく倒せる強ボスに挑むつもりで眼前の妖魔を狩ることにした。