風呂場でのいたずら
「ふう……」
湯船で大きく息を吐く祥雲。それは不満によるものではなかった。
「母さんよりうまいメシを作れるなんて反則だろう」
インスタントなどでは決して味わえない充足感。一人暮らしを始めて不満だった事の一つが解消されたとあって祥雲は湯船で鼻歌を歌うぐらい上機嫌になった。
「失礼します」
そんな桃源郷に横槍を入れんとばかりに開かれた扉。
「うおっ!?」
予期せぬ状況に慌てふためき祥雲は湯船で溺れそうになった。
「ゴホッゴホッ、ゲホッ」
「大丈夫ですか?」
そこにいたのはタオル姿の琴音。あまりにも突然のことに祥雲は狼狽しながら言った。
「一体なんのつもりだ?」
祥雲とは視線を合わせようとはせず、恥じらうようにソワソワする琴音。
「あの、お背中……お流しします」
ぎこちなく琴音は自分の目的を口にするも、凍てつく場の空気。
祥雲はすぐにでも浴室から飛び出したかったが、その退路を塞ぐように琴音が立っていたので視線を泳がせながら答えるしかなかった。
「それはちょっと……」
「さすがに困りますよね……アハハ」
「そりゃまあ、いろいろとな……」
作法の一環として仕込まれたのだと想像できるだけに琴音を怒れなかった。
悪いのはいい加減な約束を交わした父と琴音の両親。
――琴音は何も悪くない。
場の空気を和ませようと考えたところで何も思い浮かばなかった。
「気持ちはすごくありがたいんだが……」
「ごめんなさい。すぐに出ていきますね」
のぼせたように顔を紅潮させた琴音はそそくさと浴室から立ち去ろうとする。
「ちょい待ち」
湯船から身を乗り出した祥雲が琴音の腕を掴む。
それは咄嗟の事だったが、女に恥をかかせたくないという一心からだった。
「せっかくだし背中を流してもらってもいいか?」
「いいのですか……?」
「人の好意を無駄にするのは俺の流儀に反するからな」
ここで追い返せば尾を引き気まずい関係に戻るだろう。
買い出しや食事を通じて少しは琴音と打ち解けられるようになった祥雲にとって振り出しに戻るという展開は絶対に避けたかった。
「とりあえず洗面所にあるタオルをとってもらってもいいか?」
「わかりました。これでいいですか?」
「サンキュー」
琴音から手渡されたタオルを腰に巻きつけた祥雲は湯船から出て椅子に腰かける。
平静を装いつつも爆音轟く心臓。学生時代は彼女なんて不要だと公言して憚らなかった祥雲にとって現状は異常事態そのものだった。
「では失礼します。嫌ならすぐに言ってくださいね」
手際よくスポンジを泡立てた琴音は祥雲の背中を撫でるように洗い始める。
背中に掛かる吐息と時々当たる胸。祥雲の心臓は今にも張り裂けそうだった。
「やっぱり男の人の背中は大きいですね」
不意にコツンと額を祥雲の背中に押し付ける琴音。それと同時にスポンジの動きが止まった。
「……私を置いてくださりありがとうございます」
消え入るような声で感謝の言葉を口にする琴音。
振り向くわけにもいかず、かと言ってどういう言葉を返したらいいのか分からない祥雲は聞こえなかった振りをしてその場をやり過ごす他なかった。
「えぇーと、前の方は……?」
「さすがにそれは勘弁してくれ……」
「ですよね~」
スポンジを祥雲に手渡しシャワーヘッドを手に蛇口をひねろうとした時だった。
「ヒャッ!? なにを……?」
「なにって俺だけが背中を洗ってもらうのは不公平だろ?」
「そ、そんなことありませんよ!」
「遠慮するな。お礼に俺も背中洗ってやるから大人しくしろよ」
強引にタオルを剥ぎ取った祥雲はゴシゴシと琴音の背中を擦り始める。
若干の抵抗を見せた琴音だったが、すぐに無駄だと悟ったのか琴音は前屈みの姿勢で大人しくなった。
「なんだか……ドキドキします」
「奇遇だな。俺もだ」
「あの、ちょっと……」
「すまん。見てるとつい……」
男の肌とは根本的に異なるきめ細かい女の柔肌。それに魅入られた祥雲は自分でも気付かぬうちに琴音の背中を指先でなぞってしまった。
極限の状況下で祥雲を突き動かしたのは好奇心。赤ん坊のようにきめ細かい肌に触れてみたいという思いが一時的に祥雲の下心を上回った。
「やっ……くすぐったいです」
「悪い悪い。じゃあ流すぞ」
いつの間にか琴音からシャワーヘッドを奪い取っていた祥雲が蛇口をひねる。
――最初の数秒は冷水。
いたずら心に火がついた祥雲は琴音の芸術的な太ももに狙いを定めた。
「ひゃっ……!?」
ビクッと身体を震わせる琴音。
横目で抗議するように祥雲を睨むその目は捨て犬のように潤んでいた。
「ははははは、そんな顔もできるんだな」
「イジワルしないで下さい」
「悪い悪い。調子に乗り過ぎた」
「もう!」
プイッとそっぽを向く琴音を見て祥雲は久々に心の底から笑った。
高校を卒業してからというもの人付き合いが希薄になっていた祥雲にとってそれは懐かしくもあり尚且つ新鮮でもあったので口元のニヤつきは余韻のようにいつまでも残った。