変化する日常
「祥雲様、起きて下さい。もうお昼ですよ」
そんな声とともにシャーっと勢いよく開けられたカーテン。鋭い陽射しが情け容赦なく祥雲の瞼を刺激する。
「うっ……母さん?」
寝惚け眼を擦り気怠そうに上半身を起こす祥雲。
そんな祥雲の視界に入ってきたのは母とは似ても似つかぬ若い女だった。
「うおッ!」
驚いた拍子にヘッドボードに後頭部を強打する。
「痛ッ……」
思わず涙が零れ落ちそうなほどの激痛。おかげで完全に目が覚めた。
――件の少女だ。
寝惚けた頭で状況を整理しつつ祥雲は確かめるように言った。
「なんでまだここにいる……?」
「なんでって何がです?」
「昨日話しただろう。結婚話なんてものは俺の親父が反故にすることを前提とした与太話なんだから忘れてくれて構わないんだって」
「そういえばそんなこと言ってましたね」
「だから俺のことなんて気にせず家に帰ればいい」
祥雲の予想では少女は朝の便で人知れず町を去っているはずだった。
もしも自分が少女の立場ならそうする。ゆえにそれが絶対だと信じて疑わなかった。
よもやエプロン姿で母のように起こしにくるなんて誰が予想できただろうか。
祥雲にとって少女の行動は理解不能なものだった。
「私は物心つく前から祥雲様の理想の妻となるべくあらゆる作法を徹底的に叩き込まれました。今にして思えば厳しい修業でもありました。私はそれを不幸だなんて思ったことはありません」
「……すまん。俺の親父が無責任なことを言ったばかりに」
「祥雲様が謝る必要はございません。それにあまり深く考えないで下さい。私のことはどのように扱って頂いてもけっこうです。祥雲様が望まれないのならば妻や恋人になりたいなどとは言いません。別になんだっていいんです。妹でも友達でも都合のいい女でも祥雲様が望まれるのであれば別になんだっていいんです」
決して冗談なんかで言ってない。その目は本気だった。
さながら危ない宗教にでも洗脳された信者を相手にしているような気分になりつつも祥雲は恐る恐る少女に問い掛ける。
「……一つ教えてくれ。あんたに自分というものはないのか?」
それはある意味で核心を突いた質問。
少女は一瞬きょとんとした表情を浮かべ確認するように返した。
「自分……ですか?」
「おかしいとは思わなかったのか。今まで出会ったこともない人間に自分の人生を捧げることに戸惑いや抵抗はなかったのか?」
祥雲の言ってることの意味がわからないばかりに首を傾げる少女。
逆に祥雲は少女が首を傾げる意味が分からなかったが思ったことは一つ。
――人形のような人間。
それが祥雲が少女に抱いた印象だった。
「あんたの家は? どこに住んでいる?」
「…………」
「庇い立てする気つもりか?」
沈黙が少女の意思によるものなのかは分からない。
祥雲の中で固まったのは少女を普通に戻してやりたいという同情の念。
嬉しいと思えば喜び、悲しいと思えば悲しみ、嫌だと思えば嫌がる。
それは人として持ち合わせて然るべき普通の感情。
祥雲はそんな当たり前が欠けている少女が不憫で仕方がなかった。
「祥雲様が家に帰れと仰るのならばそれに従います」
「さっきまではそのつもりだったが気が変わった。あんたは帰さない」
「それは祥雲様が望まれることですか?」
「そう思ってもらって差し支えない」
祥雲の言葉に少女は微笑む。まるで本当に愛し合った恋人に見せるような屈託のない表情。祥雲がそこから感じ取ったのは少女の心の奥底で燻るいびつな歪みだった。
「まずは名前……教えてもらってもいいか?」
今までは深入りする気がなかったので聞く必要がないという判断から少女の基本的な情報を知ろうとはしなかったが状況は大きく変わった。今この瞬間より少女は祥雲にとってどうでもいい赤の他人から知り合いに昇格を果たした。




