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●
甲高く小鳥の声で、おぼろげながら目が覚める。
窓の向こうに見える景色は、まだ明時には時間がありそうな、暁の色。
「朝か」
夜でも、湿り気の無い、気持ちの良い爽やかな気候のお陰か、すこぶる調子も良く。
毛布一枚敷いただけの、堅い床板と言えど、熟睡出来た様で、徐々に頭もはっきりしてくる。
仰向けから気にせず寝返りをうてば、眼前にヘムの寝顔が見え。
「っ!」
思わず、驚きの声を上げそうになるが、堪える。
そっと、身を滑らせ背後に引き、少し距離をとり、上半身を起き上がらせ、胡座をかいて座る。
心なし心拍数が上がり、落ち着かせるように頬を指先で掻きながら。
其処には、長椅子の上で寝ていたはずの、ヘムのあられもない寝姿。
一つ考えられることは。
…ヘムは、寝相悪いのか?
低いとは言え、長椅子から落ちてもそのまま寝るのもそうだが。
毛布は蹴飛ばされており、薄いブラウスの釦は首元から5段目程まで外れてはだけ、淡い褐色の肌がちらり程度では済まない状態で見えている。
…胸の膨らみは、いや辞めておこう。
見た目年齢と、身長に比例した慎ましやかな大きさだと、此処に記しておく。
欠伸と共に、溜息も一つ。
「ふぅ、なんだかなぁ」
一応、年上で27だろう。
起きている時との、大きなズレと言った物を感じる。
俺の使った毛布だけでも畳んでおこうと、手に取ろうとするが。
寝ているヘムが、いつの間にか掴んでいて。
「…」
何か、ヘムは寝言で言った気もするが…、まぁ、毛布もこのままで良いか。
起こすのも、何だしな。
なるべく音を立てないように起き上がり、ヘムの足下。
ヘムの蹴飛ばした毛布を、拾い上げてヘムの上に軽く掛けておく。
さて。
外では、不寝の番をしていた村人達が、皆を起こさぬ様に。静かに、動き始めている気配も有り。
昨日は宴会前に、身体を布きれで拭いただけで多少汗臭くも有り。
井戸で水浴びでも、出来れば良いか。
タオルとか、そう…着替えとか、無いかなぁ。
そうだ、村長代理や誰かにに聞いてみようと、考え。
「んじゃ、出てくる」
誰にも聞こえぬ小声で、呟いて。
玄関へ音を立てぬ様に摺り足で、薄暗がりの中、向かった。
●
村長宅の玄関を出て直ぐ、
「おう、ガンドの兄ちゃん!よく眠れたかい!!」
そう、声をかけて来たのは昨日、麦酒樽を抱えていた村長代理。
夜で、余り見えなかったが。
茶の刈り込まれた頭髪に、仕事で日に焼けた肌。ごつい顔に、人好きそうな青い両眼。恰幅が良いが腕周りが丸太のように太く、筋肉質なのに目が行く。
衣服は、濃茶の鞣し革の上着を羽織っており、粗い布で出来た上下の服は洗い晒しの無垢の様な色合い。
作業に使えて、気楽な格好と言った所か。
昨日、作業を手伝った時に見かけた男性の大半は、大小様々だが同じような衣服を着ていたのだが。
しっかり眼前の、村長代理の腹回りを見れば、見事な麦酒腹。きっと、この服は特注か、お手製だろう。
「村長代理、おはようございます」
村長代理は片手を上げ、
「ヘムさんは、まだ寝てるのかい?」
「ええ、まだ寝てますよ…、あまりに気持ちよさそうなので起こすのが忍びなく」
そりゃ、ヘムさんらしいと笑いながら。
「そういや、こんなに早くどうしたんだ」
「ええ、実は…」
昨日から、この服を着っぱなしなので洗濯したいついでに、水浴びでもしたいので、何処か場所が無いかと聞けば。
「ああ、水浴びなら。ほら、あそこだ」
指を差す方向を見れば、他の住居に隠れるように、他とは趣の異なる屋根の様な物が見え。
「あそこに、共同の洗い場があるんだ」
昨日積み込み作業中には気がつかなかったが。その小屋の前に、村の横を流れる小川から水を引き込んだ円形の洗い場があるらしく。
「あそこなら、この時間誰も使わないし…まぁ覗かれても平気だろ。俺も皆も、暑かったら浸かるしなぁ!おっ、そうだ、着替えなら俺のお古をやるぜ?」
村長代理の現在着ている服を見て、大きすぎやしないかと、不安しか無いが。
そんな俺の不安そうな顔を見てか、
「がっはははっ!!安心しな、4年前に、この村に戻ってきてから、料理と麦酒がやっぱり美味くて太ってなぁ。その時は、ガンドの兄ちゃんほどじゃないが痩せてたんだぜ?」
昨日と変わらず、豪快に笑う御仁だと、より一層思う。
それに、どうせ着られないし、疎開するついでに捨てていくつもりだったそうで。
「捨てるなら、持って行ってくれた方が気分が良いぜ?」
「ありがとうございます」
村長代理は、構わんよと言いながら。
「それじゃ、水場に行ってな。着替えと、そうだタオルと、まだ使えそうな。そう昔使ってた腰巻き鞄があったな、それも持ってってやっからよ!」
重ね重ねの好意に、礼を言いつつ。
俺は、その水場のあるらしい住宅の方へむかう。
途中、すれ違った村人や、見張りの番の交代の引き継ぎをしている帝国兵に、声を掛けられ挨拶したりして、まだ星と、二つの月が健在の。夜明けの空を仰ぎつつ歩いて行けば。
村の周りに元々張り巡らされたの石壁の下部に同様の材質で造られた水路が設けられており。
その水路を目で追えば。
「木枠と、屋根だけの…物置…か?」
まさに<掘っ立て小屋>という名称が相応しいが、小屋の前には、
「こりゃ、また。思っていたよりも…」
水場と言えば、神社にあるような正方形の小さな洗い場で、身体を拭うくらい出来るかな…、だったが。
立派な、人工の池。
俺が泳げる程度、洗い場と言うより銭湯の浴槽をイメージさせる造りで。
水の流れに沿って石を積み上げて造られた、サイズの違う円形の水場が3つと、一番大きな水場には、木製の半円状の足場が備え付けられている。
近づいて、しゃがみ込み。
一番大きな水場を覗き込めば、意外に底深く、俺の首位までは十分に浸かりそうな深さがあるが。
「もう少し深かったら、思いっきり飛び込むんだけどなぁ」
と、残念に思う。
一部石段が階段状に積み上げられているのが見て取れる。石の隙間、銀の鱗片が光り…小魚が泳いでいて。
水底には、細かい川砂利が流れ込んでおり、踏むと足裏は痛そうだが。
「へぇ…、綺麗だな」
汚染された都市部の河川しか知らない俺は好奇心を持って、透明度の高い、清らかな水に指先浸せば。
「冷たい…」
見た目金属製のはずの指先から、ひんやりとした水の冷たさと、ゆっくりと川下に流れる水の動きが伝わってくる。
「これが風呂だったらなぁ」
乾燥している気候だからか、汗を掻いても直ぐ乾くとしても。
やはり、汗の臭いが気になる。
薄く血の匂いも混ざり、あまり良い物では無い筈だ。
昨日身体を拭いたとは言え、寝込んでいた期間を含めれば一週間以上で。
水で洗えばある程度臭いも落ちるとは言え、臭いをごまかす香水等も無く。
更に言えば、銭湯で熱風呂に毎日入っていた俺としては、
「魔法で、臭いとかごまかせるのかねぇ…、デオドラント系魔法とか」
と、考えるのを辞める。
今は、そんな事より、水浴びでさっぱりしたい。
「ほいっとっ!」
しゃがんだ状態から、立ち上がると。
「どうせ、後で洗濯するから畳まなくていいかっ!」
俺は、スモックの襟部分を持ち、一気に上方へ引き抜く形で脱ぎ去ると。
東の空が徐々に明るくなるのを感じつつ、朝風が吹き抜け、肌に触れ過ぎ去ると、少し肌寒く感じる。
サンダルを脱ぎ。ズボンも、下着も脱いで。
脱いだ衣服を横着にも足先で引っかけて、手に取ると。スモックと一緒に木の足場の杭になっている当に適当に放り投げ。
ついでに、腹に巻かれていた赤い水玉が染み付いた包帯をはずし、手でぐるぐると巻いて衣服と同じように軽い手首の動きで投げる。
「ふむ…」
傷のあった、腹部に手を触る。
夜中の休憩時に聞いたが、腹部の傷はジャーが治療したらしい、
「おーし、腹の傷口は治った感じだな…、後で礼言っとかないとなぁ、殴ったのも」
呟きつつ。幾つか傷を確認するとそのまま、石段に一度腰を掛け、ゆっくりと水の中へ。
お伽噺で有るような状況だが、
「…美少女だったら、絵になるんだろうが…なぁ」
一瞬、思い浮かべるのは先ほど見たヘムの…、いかん煩悩よ去れっ!
良くあるハーレム物の読み物ほど、甘い状況じゃ無いのは判ってるはずだ。
「でもなぁ」
男だと、なんの面白みもねぇな…、これは。
煩悩というか、汚れを消し去るため…、俺は一度頭の先まで浸かるように沈み込んだ。
●
夜明け。
東の空が、紫紺から、陽の色に少しずつ変化する。同じく東側に平原の石灰岩群が徐々に影を作るのを眺めながら。
「不寝の番も、引き受けたは良い物の…」
手元に置いていた、革袋の水筒の栓と指で抜く。
中身は、芳醇な香りのするこの土地特産の果実酒だ。
それを、くいっと呷り。
「はぁ…」
昨晩から夜明けに掛けて、不寝の番を引き受けておりましたがぁ…、夜半過ぎ、村長宅でヘムお嬢さんと、あのガンドと言う怪我人が…窓際で仲睦まじくイチャコラ会話をしている様に見えまして、
「ファンファーレと共に、術式一発”貴公の首は柱に吊されるのがお似合いだ”的な事をぶちかましてやろうかと、何度、何度思った事かっ!!」
いやいや、我々<高潔なる豚人>がいきなり宣戦布告など…、ここは、一発後ろから”あ・ん・さ・つ”など可愛らしく。
いやいや、首を振り、
「やはり、真っ正面から行って…、病み上がりの怪我人に思わずカウンターで空中浮遊3回転してしまうとは、情けない…兄上達にどう報告したものか」
ありのまま報告すれば、ホゥ兄と、スゥ兄に肉弾系訓練の再実施されるのは確実。
それだけは、避けたいですな。
足腰が二、三日立たなくなるであります。
報告と言えば。
「平原の方から、ずっと気配はあったのですが…動きませんな」
夜の間、此方の様子を伺っている”何か”がいる。
目をこらし、逆光になっている方向を見れば、岩の影に隠れるように。
「小ずるい羊ですなぁ…、なまじ頭が良いだけに厄介窮まりない」
近年見かけるようになった、大柄な羊に似た魔物。
暗闇で光る目を持た無い為に、夜間では視認しずらく。
それを自らの特質として、知っている様子。
倒せば溶けて消える為、召喚関係の禁術的な要素を感じるでありますが。
村長代理や、現在このエルベに派遣されている帝国兵の隊長。我らが同志には報告するのは勿論のこと。
「ゴブリ爺さんが、帰ってきませんな」
一番に報告したかったのは、冒険者経歴が殊更長い、ゴブリ爺さん。
昨日、朝にはこの村の周囲を見回ってくると行って出かけたと、積み込み作業中のガンドに聞きましたが。
「あの、ゴブリ爺さんの事です。早々くたばらないでしょうな」
現役時代は知りませんが、あの”帝国最強”の当時の”身内”と言うだけで、身震いしますな…。
そんな方が、この辺りの魔物程度に遅れを取るはずが無いのです。
「”身内”と言えば…」
村長宅を見れば、玄関の奥に動く影。
目を擦りながら、村長宅の玄関から出てきたのは、いつもの白いローブを羽織らず、白いブラウスと、ショートパンツの…、ヘムお嬢さんっ!
更に言えば、普段余り見せない生足ですぞ、コレはっ!!
「ふおおおっ!」
これは、目に焼き付けねばいけませんなっ!
はっ、これは同志達にも見せるべきですな。
腰に巻いた鞄から、一つ秘石を取り出そうとして、その秘石があるべき場所は空白。
「しまったでありますっ!」
帝都から、ソテツまで来るまでの街道沿いの生態記録依頼を受けて、使い切ってしまっていましたっ!!
なんたる、不覚っ!
くっ、こんな事なら、安価な秘石でなく。高価ですが、繰り返し映像記録可能な<巻物>を帝都で買いだめしておけばっ!
手持ちの秘石が、無い…、しかし、撮影したいっ!
ここはです、息をすってー、はいてー…、さんはいっ!
「どなたか、ラレ…違う、記録用の秘石などお持ちの将兵の方おられませんかっ!」
耳を澄ませて返答を待ちますが、
「うるせぇぞ、ジャーっ!こっちは、不寝番明けだ、ごらぁっ!てめぇも、阿呆な事言ってないで、さっさと降りてきて寝るか、飯食うかしとけっ!」
同志以外の方の返答がこざいまして。
残念でありますが…、これは、私めが直に。両の眼にしっかりと焼き付けて、同志に自慢…、いやはや語るしかありませんなっ!
急ぎ村長代理宅の屋根から、飛び降りまして。
ヘムお嬢さんの側まで行かねばと、使命が燃えたぎるであります。
…っと、何か話しておりますな。
おおっと、ヘムお嬢さんと、村長代理は手に男物物の着替え…ですかな。革の半長靴に、…腰に巻く形の鞄は、私めの愛用しておりますが、緊急時手を突っ込むだけで物が取り出せるのは便利かと。
そういえば、先ほど。
ガンドと、村長代理の話し声で…、ガンドは水浴びに、村長代理は着替えの用意に…。
それを手渡したと言う事はっ!
二人の直ぐ側まで、短距離を詰めるように走りっ!
「とうっ!」
一度無意味に飛び上がってから着地。
訝しげなヘムお嬢さんの目が、びくんびくん私めの感性に訴えかけますぞ。
村長代理は、まぁ…最近慣れたのか反応が甘くなって来ましたが…、それもよしっ!
「ヘムお嬢さん、村長代理おはようございますですぞっ!」
挨拶は大事です、忘れたら我らが主神<戦女神>の戒律違反となりますなっ!奇襲や、強襲、暗殺時は省いても宜しいと、ガバガバでございますがっ!!
「ん、…おはよう。ジャー…で、何かな?」
ヘムお嬢さんの冷たい一言が、心に染みますなぁ。
「ガンドに、着替えを持って行くみたいですがっ!上から見ておりましたが、彼の者は、現在全裸メンですぞ?」
村長代理も、
「確かになぁ、一番慣れてるヘムさんなら良いかと思ったんだが。ガンドの兄ちゃん裸だもんなぁ」
おお、皆まで言わず、私めの意図に気がつくとは。流石、村長代理。
「…大丈夫…だよ?」
それを声で制するようにして、ヘムお嬢さんは村長から着替えを受け取り。
「錬金術…台の上で、治療と…接続するとき、ジャーにも…手伝って貰ったけど…、全部見ちゃった…し、大丈夫」
「そ、そうで有りましたなっ!」
5日前に、術式で腹部の傷の治療を施した時、確かに全裸でしたなっ!!あと、ベットに運ぶときも全裸でしたなっ!!
お姫様だっこで、運びましたともっ!!
腕を接続し終えた後、強制的に時間止める秘石を解除、<神聖方術>第六階梯魔法の上位に位置する<偉大なる癒手>で一気に治療しましたが。
十三階梯魔法以上でも無い限り、つまり<神の奇跡>でも無い限り。完全に千切れたり失われた部位は、取り戻せませんからなぁ。
一応、腹部の内臓は潰れてはいたものの、全て揃っていたのが奇跡ですな。
千切れてしまった腕は、錬金術や魔法具の複合技術で、仮の四肢を形作り。
血肉として接合するしか、方法が無いのも…。
はぁ…。
私めは、方術士として力不足ですなぁ。
力不足と言えば、ガンドの傷口が思いの外、深く抉れていて血を止めるのが遅れた為。
簡易の錬金術台が血塗れで使用不能になった事ですが、命に比べれば安い。
それに、結構な量の血も出ましたしなぁ。
今までの経験的に、回復はかなり遅れるとそう、考えていたのですが。
錬金術的には、生命を司る流れと言いますが。身体に薄く染みつく程、流れましたからな。
血の匂いは、この職について慣れましたが…、人やそれに類する存在のモツぐちゃぁは、未だに慣れませんな。
しっかし、回復早いですなぁ…。
治療を施してから、目が覚めるのにも二週間くらい掛かると見越して、安定したらソテツに馬車で運ぼうかと考えておりましたが。
「って、ヘムお嬢さんっ!ガンドは、大丈夫なのでありますかっ!!昨日あまりにも、自然に力仕事をしていて失念しておりましたがっ!」
方術士としては、あそこまで怪我を負った人物が早速水浴びとは、狂気の沙汰でございますぞっ!!
…、ヘムお嬢さんと手を繋いだ憎き相手ですが、
「ヘムお嬢さん、よくよく考えてみれば、ガンドは絶対安静の筈ですぞっ!」
冒険者として、方術士として。
ここは、言うべき事を言うべきですっ!
「ヘムお嬢さ…」
言おうとして。
言わずとも、判っていると、そんな雰囲気で。
ヘムお嬢さんは、頷いて。
「大丈夫…だよ?ガンド…、腕の…、龍眼の力もあるけど…ね。違う…力も、あるかも…だから、それが、何か変わらないけど…、身体の様子…、気になるなら、見に行く?」
「多々、気になることはありますが…はぁ」
ヘムお嬢さんは、私めの言葉を聞くとガンドの着替えの服を持って洗い場へ。
「じゃ、頼むわ」
と、村長代理に渡されたのは、半長靴と腰巻き鞄。
腕の事など、色々様々と気になることは、多くありますが。
小声で、
「はぁ、ヘムお嬢さんも彼の人の”身内”だけありますなぁ、規格外でございます」
「ん、何か…言った?」
立ち止まらず、進みながらヘムお嬢さんが言う。
「いえいえ、何もいってませんよっ!はっはっは!!」
さてさて、と。
男の裸を見る趣味はございませんが。
ガンドの身体に異常があれば…、また治療しなければなりませんなぁ。
●
村長代理に手渡された着替えを手に、ジャーを不本意ながら連れて、私は洗い場へ向かう。
慣れた道。
この村の洗い場や、石壁は。この村が、この場所に出来る前にあったエルフ族の集落の名残を再利用していて、それを修復しながら使っていて。
「…」
疎開。
村が無くなるに等しい意味を持つ言葉。
この村が無くなるのは寂しく思う。
「なんで…だろうね」
開戦すれば、暫定国境から1日程度のこの村は、即座に襲われて無くなる。
叔父さんも、小父さんも。
現時点では、戦争は避けられないと言い。
今年、この村に来る事を止めに、出立前わざわざ忙しいのに家まで来た。
そう。この村に来たのは、実は冒険者協会の依頼では無く、自分の用事。偶々、ゴブリさんやジャーがやって来たのは驚いたけれど、ガンドの件は助かったと思うし。
「ゴブリ…さんの料理は、絶品、だった」
そう、初めて訪れた日もゴブリさんの料理を食べた。
それは、10年ほど前、この時期に工房長と、ゴブリさんに連れられた訪れて。
工房長と、私が食材や、素材を採取し。ゴブリさんが、間引きついでに討伐して、それを料理する。
それが毎年恒例になっていて。
今年は、ゴブリさんは別件で…、この村に詳しいからと疎開誘導の依頼を受けて。
工房長は、帝都の工房で不測の事態に備えている…、多分。
このエルベの森に生える虫茸や、生薬の材料である樹木の皮は錬金術や魔法具の触媒としても、地味に効果が高い。
それの採取も、理由の一つ。
けど、それだけじゃない…よ。
思い出の場所を、憶えておく為。
10年通ったこの村、エルベ村を少しでも記録に残したい、工房から長時間記録できる巻物を二つ購入して。
村人が疎開し始める前に、村の人全員の顔や声。それに、この村の周りの風景を写し取り。
もう一枚に、転写して。
腰を悪くした村長に、村長が疎開する時に一つ手渡して。
そうしたら、村長…、泣いてた。
少しでも、エルベの村の記憶が、思い出が残るって泣いていて。
慣れた道が開けて、洗い場に着く。
「ガンドが居ませんな…、脱ぎ散らかした服はありますが」
確かに、足場の上には昨日渡した衣服が散乱していて。
ジャーの言葉は、事実で。
「そう…だね…」
立ち止まり、もう直ぐそこに洗い場があると言うのに。
居ない…の?
ふと、不安に駆られる。
服を抱きしめて、一歩前へ進み。
ジャーは、何かに気がついたらしく、
「ヘムお嬢さんっ!居ましたよっ!そこですっ!」
声を上げる。
私より背の高い、ジャーが”そこ”と言うと、
「えっ…と」
何処だろう。
判らず、辺りを見渡せば。
「彼は、水精か、何かですか?」
ジャーの声が、笑いを含んだ意を持つ事と捕らえ。
まさかと、水面を注視すれば。
洗い場の一番大きい水溜から、勢いよく赤銅色の両腕が水面を突き破るように現れ。
続いてガンドの顔が、盛り上がるように水面を割って現れる。
「ぷはっ!よんひゃく、にじゅうななっ!」
水中から現れたのはガンド。
「ヘムおはようって、ジャーも一緒か?昨日は治療してくれた事を知らずに、吹っ飛ばしてすまん」
水中から出ず、そのままで。
「おはようございますですぞ、ガンド氏。この様な朝方に、水中で屈伸運動とは、これは心配する必要も無いくらい元気ですな…。あと、その件は内密にですぞ」
「おは…よう、ガンド」
腕からは、気がついていないだろうけど紅い光が漏れていて。
<工芸神の直感>のまま、あの両腕を作ったけど、相性がやっぱり良いのかな?
自分で作った物が、喜んでいるのは嬉しく感じる。
「着替え、持って…きたけど。身体の調子は、どう?」
●
水の中は、意外に流れが有り。
入ってしまえば、身体が慣れて行き、汚れも取れて気持ちよく。
村長代理が、なかなか着替えを持ってきてくれないので、暇を持て余していたのも一つあるが。
非常に身体の調子が良いので、水中で鈍った身体に効果があると言われていた、水中屈伸を400回程度こなした時、水中から顔をを出すとヘムとジャーが居て。
着替えを持ってきたと言う事だが、
「ヘム、非常に恥ずかしいから。後ろ向いていて欲しいんだが?」
ヘムが、俺の方を注視してなかなか水から上がれない状況が発生している。
「大丈夫…、私は…気にしない…から。それに、腕の接続部分の確認…したい…から」
と、ヘムは言い。
「ならせめて、ズボンだけでも履かせてくれっ!」
仕方ないので、目でジャーに助けを求めるも、
「はっはっは、こんちくしょうっ!さぁ、ヘムお嬢さん。私めの肌なら見たい放題ですぞっ!」
駄目だ、役に立たねぇ…。
上半身の、鎖帷子の裾に手を掛けて持ち上げる動作から、脱ぎ去り。
「さぁっ!どうです、この鍛え上げられた肉体をっ!」
ポージングを取って、肉体を、筋肉を誇示するも。
それを、ヘムは一瞥して、
「…、それは、要ら…ない」
「ふおお、その蔑みが私めの心臓をハートブレイクですぞっ!!」
地面に崩れ落ちる様にして、膝を付く自称<高潔なる豚人>一名。
駄目だ、本気で役に立たねぇな。
「まぁ、私めは。方術士として、傷の、正しくは内蔵の癒着具合を確認する為、嫌でも触診しなきゃいけないのですがねっ!」
即座に立ち上がり、宣言するが。
俺の本心が、
「ジャーは、ヘムが絡まなければ良い奴だな…、絡まなければっ!」
即座に口から飛び出し。
「ふっ、ヘムお嬢さんが絡まない人生など、不要ですぞっ!!」
「私…は、絡みたく…ないよ?」
クリティカルですぞーっと、本気で倒れ込むジャーが撃墜され、ヘムに星が一つ付いた気がするが。
ああ、もう。
仕方ないか、このままだと風邪でも引きかねない。
「ヘム、俺の見てもつまらないぞ?」
「ん、…わかった」
はぁ、外道共にも女性は居たが、『キャー、象さんよっ!ぱおーん、ぱおーんよっ!!』と叫びつつ両手で顔を隠しつつ、隙間から見ていた気もする。
対してヘムは、無言でガン見である。
短いが水を含んだ、顔を手で拭い、髪の毛を掻き上げて、水中から、陸へ上がる階段を目指し歩く。
「それにしても、黒い頭髪に、黒い瞳…、見る角度によっては灰色ですか。それに、彫りの浅い顔は珍しいですな」
撃墜され、倒れ込んだジャーが。階段を上り、水を滴らせた上半身を大気に晒す俺を見上げ、
「俺の生まれた場所では、普通なんだけどな」
ジャーの瞳が、何か気がついたよう光りを得て、
「ほほう。記憶が戻りましたか?」
こいつ、本気でヘムが絡まなければ優秀だな、おい。
この場合は、
「ああ、俺は”記憶喪失”って事にしといてくれ、ヘムも。ゴブリさんも了承済みだから」
ストレートに言った方が、勘ぐられずに済む。
その考えは、正しかったようで。
暫く考えたジャーは、
「わかりましたですぞ、ガンド氏は”記憶喪失”ですなっ!」
理由は問わず。
俺で無く、ヘムと、ゴブリさんを信用して問わない訳で。
腰辺りまで、水面まで上がれば、
「…はい」
ヘムは、俺に柔らかな麻の布地を手渡してくれて。
「ありがとう」
言いつつも、水中から下半身は出さずまず上半身を布で擦り、水気を拭う。
「ガンド…、鍛えて…る?」
まじまじと、俺の身体を具に観察するヘムの疑問は、
「確かに、身長もそこそこ。筋肉は、脂肪が上にうっすらと乗る程度で。私めの様に、腹筋は八つに割れ てはいませぬがっ!それでも、六つに割れているのは中々ですなっ!」
ジャーは、撃墜から立ち直り。
「ふんっ!」
腹筋に力を入れて、その八つに割れた腹直筋をヘムにアピール。
「…、無駄…に、気持ち…悪い」
ぐほぁっ!と、叫び声を上げてまたも崩れ落ちるが、ヘムが言う分には喜んでるんじゃ無いか?
その隙に、俺は水から上がり、ヘムから前が見えぬ様に上手く立ち回る。
そうすると、背中の金属で覆われた肩甲骨の部分や、背中が見えるわけで。
「背中も…、うっすら…。筋肉、付いてる…ね?」
「ですなぁ。特に、脊柱起立筋と称される部分が確りと、背筋がピンと整っているのが判りますな」
足の水気を拭き取りつつ、
「詳しいな、ジャー」
「勿論ですとも、我々<高潔なる豚人>は。<戦女神>の信奉者として、弛みない努力の結果、この姿を手に入れ。<貪欲なる豚人>の主にして、薄暗がりの悪神の高位眷属。魔王オルクスの支配を撥ね除けた一族なのですっ!そして、その偉大なる<戦女神>に捧げられるのはっ!」
ぐっと、全身の筋肉をアピールするようなポージング。
「そして、筋肉っ!」
またも、ポージングを変え、今度は胸と肩の筋肉を強調して、
「2年に一度行われる、絢爛豪華な戦士達が集う武闘祭なのですっ!」
決まった、言わんばかりの表情だが、
「予選…落ち」
ヘムの一言に、またもや無言で崩れ落ち、なかった。
耐えた。
苦悶と恍惚の相反する表情を浮かべながら耐えたジャーは、
「っと、我らの一族と<戦女神>の信奉者は、このような形ですぞっ!」
ジャーの一族が総じて筋肉質らしいのは、そう言う信仰があることが理由か。
「まぁ、俺の理由は…」
足の裏まで、拭き終えて。
あの人の蹴り技を、ミットで受け続けるのに、身体を鍛えざるを得なくなり。
あの事故が起きた後も、日々積み重ねのお陰か、身体を動かさないと勉強に集中できなくなった。
つまり、受験勉強のために、
「必要に、駆られて…かな」
ジャーは、納得したように、
「なるほど、必要でしたか」
大変でしたなぁ、うんうんと、何を納得したのだろうか。
ヘムは、下着を俺の後ろに立ちながら手渡し。
「…、腕の可動範囲も…、背中側…緩衝も…問題ない…ね」
どうやら、背中側からの腕の動きを観察していた様子。
昨日と同じような、腰紐でサイズを調整する薄い布地の半ズボンを履いて人心地付く。
ヘムに見られるのだけは、死守した気がする。
安堵の溜息一つ。
「はい…、村長代理から。上着…、かなり…良い物」
次に上着を手渡されるが、それは黒の、
「インナースーツか?」
手触りは、つるりと滑らかな風変わりな生地。
小さいと思ったけれど、着れば良く伸びて身体の線に沿うように、張り付くように動きを阻害しない。
首の中程まで覆われて、苦しいかと思えばそうでも無く。
袖が無く背中側の肩甲骨辺りまでは、覆われていないのでこの腕を中心とした金属部は、ほとんど剥き出しの状態だ。
「良く伸びて、動きやすい…」
上半身を捻らせて、その伸びを実感する。
ここまで伸びて伸縮自由度の高い素材は見たことが無く。
「ラーダの…山岳地帯…。生息の、蝙蝠の一種…で、洞窟蝙蝠の皮膜を…、何枚も貼り合せた服で…えっと、その」
途中まで説明するのはヘム。
続きは、説明を急遽乗っ取った、
「ヘムお嬢さん、お任せをっ!通気性が良く、通常は胸当て等の部分鎧の下に着る衣服ですな!弱点としては、鎖帷子の様な頑丈さは無いので、斬られたりすれば勿論破けますし。魔術的な防御もございません、あくまで動きを阻害しないだけの物だと言えましょうっ!」
確かに、判りやすいが説明だけどな、ジャー。
「ジャー…、台詞…、取っ…た」
そう、説明途中で台詞取っちゃいけないよなぁ。せめて、許可取るべきだろう?
少し、涙目のヘムは、震える声で。
ヘムの指先に。
小さな、極小の刻唱陣が浮かび上がり、
「そのような事はっ!うわぁ、涙目可愛いですっ!昨日は、第四階梯魔法だったのに次は、第五階梯上位の<氷剣円舞>ですかっ!って、流石ヘムお嬢さん、普通に詠唱するより早いっ!!」
指先から放たれた冷気は、一本の透き通る氷の曲剣を形取り。
ジャーに向かって振り下ろされ、冷気と氷片を撒き散らす。
昨日も手加減していたから、今回も氷漬けに成る程度で済むだろうが…。
砕ける氷剣の堅い音に中に。
何かが弾けて破れる音が響く。
その音が身代わりになったのか、氷に塗れているが、ジャーは無傷。
「抵抗と、自前の耐性が抜かれましたが、不寝の番が余りに暇なので、何枚も氷結完全耐性の<護符>をちまちま内職しておいて正解でしたぞっ!」
あ、ネタばらししたな。
<台詞を取られた>側は、その言葉を聞いて、
「…、全部割る…」
その宣言通り、ヘムの刻唱陣は消えてはおらず、続いて生成されたのは、9本の冷気の霧を纏う短剣。
それが操られるかの如く、軌道を変えながら。連続で<台詞横取り犯>に叩き付けられ砕ける度、同時に弾け破れる音と、ジャーの耐える声が鳴り響く。
「ジャーも、鳴かずば斬られまい…か」
うーん、出来が悪い。座布団持って行かれるなぁと、思いつつ。
護符が8枚目で品切れて、最後の一本の刃でなく、柄部分がジャーのエイトバックの腹筋にジャストミート。
素肌に触れた柄が砕けて、割れると同じくして、前のめりで倒れ込む。と、同時にジャーの持っていた靴と、鞄が宙を舞う。
「…、っと」
それを、ヘムがタイミング良くキャッチして。
「フギュっ!」
次に、重い物が地面に倒れ込む、いや、地面に質量を持った肉が倒れ込む音が一度して。
ヘムは、それを一瞥し、
「ん、…渡しとく…ね」
堅く荒い手触りズボンと、長い革の腰帯。つまり革ベルトを渡してくれる。
このズボン、実にファンタジーぽく無い。デザイン的にはジーンズに近い形状で。色は、洗い晒しの白い作業ズボン。破れやすかったり、千切れやすい部分は金属製の鋲で補強してあるが。
履いた時の感じが、どうもデニムより堅い…。
これは。
夏休みの美術室で、換気せず油絵を描いてた同級生を救出した時に見た、無地のキャンバスと同じような手触りで。
しかし、好意により頂いた物。文句を言わずに足下から一気に引き上げ履いてみれば、お腹周りも、良い感じ。ベルトを巻けば、ずれる事もないだろう。
…、村長代理、本当に痩せてたんだなぁ。
と、心の底で感想を漏らしつつ。
「ヘム、どうした?」
なにやら不満顔のヘムの横顔。
本日数度目のダウンを奪ったヘムは、
「<護符>の…耐性…一撃で、…幾つか…抜く、練…習しない…と。ジャー…どんどん…しぶ…とく、なって…る」
ジャーは、魔法での試割りの肉壁…、的だなぁ。
そう言えば魔法は、誰でも生活魔法くらいなら使えるらしいが、<転移者>は使えるのか?
と、魔法的文明を持たない俺は気になって仕方が無く。
後で、聞いてみるか。
そして本日、数度目のダウンをした、ジャーはと言うと、
「ヘムお嬢さんは、氷結魔法中心ですので、傾向と対策を練れば…ぐふぅ」
やはり耐えたが痛いのか地面に座り込み、何かの単語を二言三言唱え、手の平が淡く白の優しい光りを放ち、自分の腹に押し当てている。
回復の…方術だっけか。
便利そうだが、細胞の過剰再生で癌細胞など発生しないのだろうか。
疑問は尽きないが。
そんな二人を見ていて、
「客観的に見て、二人とも仲が良いな、どつき漫才って言うか。っと、ジャー、靴と、その鞄順に投げてくれ」
何気なく、言葉を口にすると。
二人は一斉に、顔を上げて、お互いに指を差し合い、
「そんな…に、仲良く…ない…よ?」
「そうですとも、仲良しですぞっ!」
相反する言葉を投げかけ合っている、のだけども。
この二人、やはり仲が良い。
嫌いなら、ヘムの全力。どれだけの威力があるのか、本気を出せばジャーの生命的な意味合いでの息の根を止める事も可能だろう。
それをしないのは、何かしら認めているからと、思いたい。
ジャーは、なにか歌手の追っかけ的な何かを感じるが。危険があれば、物理的に止めれば良いだろう。
総合すれば、
「現状だけを見れば、平和だな」
空を見上げれば、既に夜が明けて、星も月も、空の青に紛れて見えなくなっていた。
●
夜明けにもほど遠い時刻。
風精により、突如もたらされた魔獣出現の凶報に、我が軍の優秀な作戦司令部員達は、
「エルベ村方面に出せる兵員数を纏めろ直ぐにだっ!」
「斥候は出したかっ!指示はっ!目標確認後、直ぐ逃げろと伝えておけっ!眷属多数の為、最低でも隊を組ませろともなっ!」
「前線偵察隊からの連絡、黄金の三角州および、バルザル側にも、イデル王国軍動き無しです」
「魔獣と王国軍、同時進行だと完全に押し止められません、9割方ソテツを放棄となります」
「団長どこですのーっ!だんちょーっ!!もう、また逃げられましたわっ!!だんちょーっ!!おーしーごとーっ!!」
現在国境の城壁都市ソテツに設置された前線司令部は、混乱の渦中に有り。
そんな中をこっそりと抜けだし司令部の入る建物。領主館の最上階に向かう。
薄暗い石の螺旋階段を上りきれば、広い晩餐会場。
柔らかな赤い絨毯の上を、進みながら。
手に握り込んだ、自分宛の秘石をもう一度、最初から再生し。
「ゴブリの事だ、逃げ切るとは思うが」
内容を聞きつつ、旧来の戦友”老斥候”の無事を祈りながら。
”団長”。
つまり自分宛に届けられた報せは、急を要するものであり。
記録内容を知れば、歴戦の上級将校さえも動揺する言葉が、力強い言葉で記録されていた。
「出現地域が壊滅する可能性のある”第四級脅威”。世界規模の災厄”第七級脅威”に比べれば、一国で対応出来る警報。この状況で、完全装備騎士と魔法士の混成一個師団を出撃させるとなると厳しいな」
平時であれば混成師団を編成し、即出撃させるのだが。
現在の状況では、前線に僅かながらだが穴が開く。
「誰か、帝都から来れば良いのだが」
この前線司令を任せられる人物が、それは望み薄だが。
「都合良く戻ってきそうなのは…」
最前線で睨みを効かせている我らが副団長か。
晩餐会場から、大きく開かれた窓を抜けて、バルコニーへ。
この場所からは、南の地平がよく見える。
この国境都市<ソテツ>の一番高く、広く見渡せる場所。領主館から見る風景。
本来は、この時期なら収穫前の黄金の麦穂が頭を下げ、地平一杯に広がる風景が広がる美しい光景が広がるはずだったが。
今は見えるのは、城壁外に集まるバル王国側からの避難民や、帝国北部開拓団への申込者達の天幕が、所狭しと並んでいる。
暫く、朝の冷たい風と共にその風景を眺め。自分の長い耳の先を掠めるように、下から階段を上がる複数の足音。
大体、反響を考えて3名程度が上ってくる。
うち、1名の足音は階段を一段一段踏みしめる様な、特徴ある重く響く音。
最前線で指揮を執っている筈の、
「一番戻って来ちゃ駄目なのが来たか、何かあったか?」
その3名が窓側へ来たのを見計らってから、バルコニーの縁に手をつき、
「このまま、何も言わずに一人で斬り込みに行ってやろうか」
聞こえるように、言葉を放つ。
この周り。晩餐会場にある気配は三つ。
二つは、俺を探しに来た部下だろうが、動揺する気配があり。
残り一つは、悠々と移動し。
窓の上枠に手をついてから、潜るように様にして身体を屋外。ゆっくりと、バルコニーに姿を表す巨躯のもの。
「それは困る、前線司令部の責任者が、仕事を放棄して単身討伐に赴くなどな」
目の前の巨躯から発せられる声は、低くそれでいて響く。
振り向いて見上げれば、腕を組み仁王立ち。
迫力、気迫、存在感溢れる常人なら気後れしそうな巨躯に、
「よく、あの階段通れたな”旦那”。頭とか打たなかったか、ギリギリだっただろ?」
軽口を叩いてみても。
「なに、幾分か余裕はあったぞ。それこそ、拳一つ分程はな」
握った拳を見せて、笑みを浮かべる巨躯。
「は、良い冗談だ。少し気が紛れたよ、”旦那”」
いつも通りの、見慣れた厳つい傷だらけの顔に浅黒い南方出身と思われる肌の色。頭髪は全体に捻り編み込んで、後ろ髪で止めている。
しかし、見慣れた鎧姿でなく、将校用の赤の真新しい軍服を着込んでいて。
「珍しい。あの低位竜が全力で突撃しても壊れない、お手製の頑丈な鎧はどうした?」
旦那は、やれやれと言った風情で、
「はっ、どうしたも何も。単騎で王国側から現れた力試しをしたいと言う女武芸者。いや武士に、黒牛鋼鎧の肩装甲を砕かれてな、今は修復の為に帝都から材料を取り寄せている。お陰で似合わぬ服を着ることになった」
言い終えると笑う、豪快に笑う。
夜明けの空に、響き渡る声は、歓喜を含んだそれであり。
武人として、喜びのある楽しい物だったと窺える。
旦那の鎧は、特注の鋼材を使い、使用者である”旦那”を始め、名工達が手掛けた。今を生きる人の手で作り上げられた現代の<神遺物>。
魔法具の最上位品にのみ与えられる<魔導器>の称号を持つ名品。
それを、得物が何か知らないが罅でも、傷でも無く、割ると言う状況まで持って行くとは。
「そりゃ、お眼鏡に適う相手で楽しかろうよ、旦那?」
しかしな、と前置きして、
「ラーダ・ク・ウェル帝国軍の総軍司令であるウ・シュウ様が単騎でカチコミに来た奴と野試合やってんじゃねぇよ…くっははははははっ!」
バルコニーの縁に背をもたれて自分も、ウもお互い暫く笑い合う。
あー、笑った笑った。
この旦那に一太刀馳走出来る女武芸者が居るとは、
「でもな、元傭兵の俺は兎も角。生粋の帝国軍人がやっちゃいけないだろう」
俺。そんな一人称が、俺の口から飛び出すのは、戦友達と話している時のみで。
その戦友として、戦場を共に駆け抜けたウが、横に並び立ち。
「そうか、武人ならば老若男女受けて立つのが筋だろう。そう思わないか、ラーダ・ク・ウェル帝国皇帝直属の近衛騎士団”ラムダラの十騎士”筆頭団長。ティルフィング・ファスト・エルダ殿?」
20年来の戦友に、正式な肩書きとフルネームを呼ばれるのは、こそばゆい物で。
「はん、昔通り、”団長”のが気が楽だぜ。思えば遠くへ来たもんだ」
まったくだ。と、南の空を見上げながら言う巨躯は、語調を変え。
「そこに控えてる貴公の部下二人から、ある程度話は聞いた。あの”斥候”殿が、慌てて風霊を飛ばしてきたのであろう?」
ちらりと”旦那”が見た、窓の内側から此方を伺うのは、男女二人。
一人は、青の軍服を着込んだ、亜麻色の長い髪。前髪を揃え、錬金術士の間で最近流行の伊達眼鏡を掛けた女性士官は、同じくラムダラの十騎士の第十席の壱、最年少のペリネア・クロッセル。
もう一人は、同じく青の軍服を着崩した、女性士官よりも背の低い、若いが白髪交じりの男性。彼もまた、ラムダラの十騎士の第十席の弐、ジーン・タラスク。
二人合わせての一席を登用は、前例が無く。しかも、若い。
現在19歳のペリネア、21歳のジーンの前例無き登用は揉めに揉めて。
最終的には、陛下の意思が尊重された結果だが。
ペリネアも、ジーンも若いながら慣れぬ前線で、良くやってくれている。
出来の良い部下で、自分も楽が出来て万々歳だ。
まぁ彼らには、期待をしているのだけども、まずは、手に持った秘石をウに差し出し、
「ウ・シュウ司令、お聞きになられますか?」
丁寧ぶって話すのも処世術として憶えたが、慣れはしない。
ウは、俺から秘石を受け取り。なにか考えた後。
「いや、現状把握は後だ、火急速やかに対処せなばな。一応聞くが、ティルフィング出られるか?現在偶然にも鎧を修復中で、どうも後方で事務方作業でも行わなければ、国民から給料泥棒と言われかねないのでな」
お互い、目が合い笑う。
事後処理は万全。さっさと行けって事か。流石戦友、話が分かる。
「ああ、出られる。準備は、制式の大剣一振りと、この身一つあれば十分だ」
ほう、と、相づちを打つウは、
「過剰火力の<神遺物>の大剣はどうした?」
先史文明の残骸。ラムダラ山脈の古代遺跡から発掘された、神々の至宝の一つ。
周囲と、剣そのものを全壊させる覚悟で振り回せば、長い時を経て成熟した竜であろうと、悪神の上位眷属だろうと斬り潰せる代物だが、
「は、あるだけで抑止力となる…、そんな武装を開戦前に持ち込む奴が居るか?」
第二段階を起動させた状態で地面を打ち穿てば、そこを起点として大穴が開き、自分も反動で全身ボロ切れになる様な武器なんて、危険すぎて多用したくも無い。
だからこそ、帝国で最も安全な、
「管理するのも面倒なんで、山の神殿に納めてある」
「そうか、それもそうだな」
だが、とウは前置きし。
「王国も、同時代の武装を併合地域の遺跡から発掘し、少数ながら所持していると聞く、いざとなれば…」
帝国と王国の所有する全ての武装を持ち出して、泥沼の<神遺物>乱打戦。
最悪、この大陸東側が全て焦土になるやもしれない。
その指示を出すのは、自分では無く、
「そうなったら、陛下の勅命次第だ。俺が勝手にやって良いことじゃないさ」
さて、そろそろ行かないと。
窓の向こうに控えていた二人に向かって、
「ペリネアっ!ジーンっ!!」
声を掛ければ。素早く二人が、バルコニーに現れ、
「「はっ!」」
二人同時に、膝を付き頭を垂れる。
「現在より魔獣出現の報に対応する為、自分が単騎で出る。ペリネアは、引き続き避難民の誘導統括」
金髪の髪が、揺れて、
「畏まりましたわ、団長」
「続いて、ジーン。避難民に混じっている王国側間諜の監視を頼む」
白髪交じりの頭が、一段下がり、
「承知しました、筆頭」
そして、隣に立ち見守る、同等の権限を持つ戦友に、
「現時刻を持って自分の全決裁権を、ウ・シュウ総司令にお預けします」
「任された」
力強く頷き、右手を握ったまま出すウに。
同じく右手の拳を軽く付き合わせる。
端から見ている、二人には意味の解らない物だろうが、俺達には意味があり。
これで、
「引き継ぎ終了っ!旦那、結構判子付き書類の積み上げてるから、よく読んで判子押してくれっ!」
「な、まて”団長”っ!」
皆まで、言わせないさ。なぁ旦那。
仕事から解き放たれて、気分良く、勢いに任せ。
そのまま、バルコニーの縁に手を掛けて、
「ほっ!」
跳馬のように、腕の力だけで身体を支え、外へ身を乗り出し飛び降りた。
●
私、ペリネア・クロッセルは突然団長が、”魔法補助無し”で明けの空へ消えるのを見ました。
より、正確に伝えるならば。
目の前を、筆頭たる緋色の軍服と、対照的なエメラルドグリーンの鮮やかな髪を棚引かせて、身を翻し飛び降りる。
飛ぶ瞬間、私とジーンに小さく手を振って。
印象的な濃い緑色の瞳。その片目を瞬きさせて合図する。
もぉ、あったま痛いですわっ!
ここ、4階ですわよ?
バルコニーの縁に手をついて下を見ながら、
「団長っ!下に人が居ないか確認してから、飛び降りて下さいましっ!」
下には数名、南部方面に所属する兵達が見えるが、落ちてくる団長を見て慌てて蜘蛛の子に散開する。
危うく貴重な兵員に怪我をさせる所でしたわっ!
しかし、着地は見事なもの、膝の屈伸運動を利用して落下の衝撃を本能的に逃がしてますわね?
同じく私の隣に立ち、縁に手を付いて下を見る同僚のジーンは、
「ぺーさん、自由行動中の筆頭に何言っても無駄です、ここ半年の経験則で悟りました」
隣の合法ショタが遠い目で何か言ってますけれど、
「どうにかなりませんか、ウ総軍団長」
助けを求めるようにウ総軍司令を見上げても、
「……無理だな」
腕を組み、笑っているような、困ったような微妙な顔で、
「一応、あ奴の生まれはエルフ氏族の中でも、とびきりの希少な始祖直系の出身の筈なのだが。20年ほど前に出会った時からああであった…、既に400歳を越える身だ。性格矯正は結婚でもして尻に敷かれない限り不可能だと”身内”での結論が出ている」
もしも結婚したら<砂塵>の一人勝ちか。と、真面目くさって語るウ総軍司令ですけれど。
自由行動終了後の後始末って、結構大変ですのよ。
「結婚と言えば。筆頭は人気ありますよ。帝都では諸侯を始め、一般臣民のお嬢様からは”碧玉の君”とか言われ、人気を博しておられますが」
ジーンは、仕事柄”帝国の噂話”に詳しく。社交界にも頻繁に顔を出している為か、その方面の情報なら。
帝国の諜報機関に頼るよりも早く、正確。
その正確無比な情報源が、
「そういえば、ペーさんと筆頭。最近噂になってましたよ、結婚秒読みとか」
は?
誰と、誰がですの?
理解した瞬間、そんな噂を流すなんて、心外ですわ。
「補佐官として団長の業務に同行しただけで、そんな噂が流れるなんて暇ですのね」
団長と結婚なんて。
帝国貴族として、由緒正しい重責ある近衛の末席に付く前は、確かに憧れました…、けれどっ!
「素の団長みてしまいますと、恋愛対象としては少し遠慮したいですわねぇ」
「ですよね。普段作戦指揮などの仕事をしている時は、格好良いのに。自由行動になると…途端に」
私とジーンは、同時に溜息を吐く。
視界からは、既に団長の姿は無く街中に消えていて。
おそらくですけれど、臨時の兵士舎に、討伐用の武装を取りに行ったと思われ。
次に向かうのは、
「緊急事態…、ですので。厩舎には、騎士用の駿馬を団長に貸し出すよう伝えませんと」
「じゃ、その役は僕がやるよ、ぺーさん」
言うと踵を返して、屋内に音も微かに滑るようにして消える。
普段からあの足音ですから、いきなり横に立たれると困りますわね…、私に対して意識して行っている気もしますけれど。
では、これからお仕事ですけれども。
隣に立ち、遠くを見つめる巨躯に、
「では、ウ総軍司令。団長の残したお仕事ですが…」
とびっきりの笑顔で見上げれば。
やや引きつった顔の、総軍司令は、
「どれほど残してるのかね?」
「しばしお待ちを。<魔法の眼>」
魔法で擬似的な視覚を飛ばし、団長のどちらかと言えば散らかした執務机の上を見る。
机の上に積み上げられた団長権限で無いと決済出来ない書類の山の数を指折り数えれば。
あら、思ったより少ないですわね?
昨日の段階では、7つほど山が出来ていた筈。
そのうち三つが急ぎの書類として積まれていて、その姿が無い。
<魔法の眼>を解除し、
「急ぎではありませんが。権限が無いと決済出来ない書類の山が4つほど」
団長も、急ぎの決済だけは全て済ませて行きましたのね。
その辺りは、万事抜かりは無いのが、団長と言った所。
総軍団長は頭を掻き、
「今度、この戦が終わったら”黄金の獅子”亭で飲み放題食い放題で奢らせるか、それぐらいしても許されよう?」
私を見て、隊の資金では無く、団長の自腹ならと答える。
”黄金の獅子”亭は、帝都でも屈指の美酒美食を出す名店。これは、一つ楽しみが増えましたわね。
「ペリネア殿、行こうか」
巨躯を小さく揺らして、振り返り室内へ向かう総軍団長に向かって。
二重の意味を含めて、
「お供しますわ、総軍団長」
では、与えられた任を全ういたしましょうか。
●