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「楓ちゃん、それこっちに積んどいて」
「はい!」
楓が塔から抜け出して三日が経った。あの後楓は頭を下げた男によって救われた。男は田舎で酪農業を営んでいた。楓と出会った日は町へ牛乳を降ろしに行く日だった。
楓が意識を失った後男は警察へ通報するでもなく、自分の家へ連れ帰り楓を雇う事にしたのだ。
「楓ちゃん今日はもういいよ。お風呂入っといで」
「はい、ありがとうございます」
「ついでに雛実と孝も入れてくれない?」
「良いですよ、じゃあ里奈子さんに言っておきますね」
「ああ、ありがとう」
男から彼の子どもを一緒にお風呂に入れるよう言われた楓は一家が住まう家の方へ向かった。
「里奈子さんお疲れ様です。今日はもう上がらせていただきました。雛実ちゃんと孝君とお風呂に入ってもいいですか?」
「ええ、助かるわ。竜ちゃんに言われたの? ごめんなさいね。家の事まで手伝わせちゃって。楓ちゃん働き者で助かるわ」
「いえ、私はお世話になってる身ですから。何でも言ってください」
楓は子どもを連れて風呂場へと向かった。
男、竜司の一家は何も聞かずに楓の事を快く迎えてくれた。素性の知れない相手をここまで親切に迎えてくれたこの一家に、楓はいくら感謝してもしきれない気持ちだった。
楓はこの家に居心地の良さを感じ始めていた。だがいつまでもここに居るわけにはいかない。迷惑を掛けることは目に見えていた。一家を危険にも晒したくはない。本当の事を言うべきなのか楓は迷っていた。
楓には行く当てなどありもしない。親戚も居なければ家族ももういない。楓はどこにも居場所がないことを分かっていた。それでも生きたいと願ったのだ。それがこの結果をもたらした。最後に居場所を与えてくれたこの一家にだけは、絶対に巻き込むわけにはいかないと楓は誓った。
楓は一家と夕飯を食べ何気ない時間を過ごしていた。
「楓ちゃん、今日ねー、雛ね、牛さんとお話したのよぉ」
「へぇ、牛さんなんて言ってたの?」
「楓ちゃんはねー、優しいって言ってたぁ」
「本当? 今度牛さんにありがとうって言わなくちゃね」
「孝ちゃんも、一緒に居たの。孝ちゃんも、聞いたでしょ」
「うん、牛さん、楓ちゃんの事、好きって言ってた!」
「雛も、楓ちゃん好きー」
「わわっ、ありがとう二人とも」
楓はまだ幼い雛実と孝に抱き付かれた。楓に兄弟は居ない。兄弟が居ればこういう感じだったのかと楓は思い笑みが零れた。
「楓ちゃん、ずっと居るよね? どこかに行ったり、しないよね?」
孝が不安な眼差しで楓を見た。その質問に楓は答えられず、困った顔をした。
「そうだね。ずっとここに居たいけど……」
「こらこら、あんまり楓ちゃんを困らすな。もうお前たちは寝なさい」
竜司にそう言われた雛実と孝はいそいそと立ち上がり寝室へと向かおうとした。そんな二人に楓は腕を引っ張られた。
「楓ちゃん、一緒に、寝よう?」
「いいよ。じゃあ一緒に行こうか」
楓が立ち上がり寝室へ向かうべく、階段へ向かおうとしたとき、玄関を叩く音がした。楓はこんな遅くに誰だろうと思った。
「誰だ。こんな時間に」
竜司も同じことを思ったらしく、愚痴を零しながら階段を降り玄関の戸を開けた。楓は夜の来訪者を雛実と孝と共に覗き見た。突如懐かしい記憶が楓の中を駆け巡り、目を見開いたまま楓はその人物から目が離せなくなった。
そして楓は理解した。ああ、私はどこにも行けないのだと。これが運命なのだと。
「すみません夜分遅くに。警察の者です。お宅に見慣れない女性が出入りしていると聞きまして……」
「ああ、彼女はうちの従業員です。何か問題でも?」
「いえ、その方、猶原 楓さんという名前ではないですか? 少し彼女に用事があるのですが」
竜司は眉を寄せ怪訝な顔でその表情の無い警官に尋ねた。
「彼女に何の用ですか?」
「お話をお伺いしたいだけです!」
後ろに居た若い警官が行き良いよく返した。
「彼女ここに居るんでしょ? 彼女を庇うなら貴方だって……」
「止めてください! この人たちは関係ありません」
楓は黙っていられなくなり自ら姿を現した。
「楓ちゃん……?」
一家の視線が楓に集まった。楓は雛実と孝の頭を撫で二人に言い聞かせた。
「ごめんね。私もう行かないといけないみたい。私が居なくてもいい子で寝れるでしょ? ね?」
雛実は怖かったのか泣きそうになりながらも頷いた。孝は何も理解できていないのかキョトンとした後で楓に笑い掛けた。
「いい子だね。お母さんの言う事ちゃんと聞くんだよ」
楓はそう言い警官の前へ出た。さっきまで無表情だった警官は楓を見て、楓がそうしたように目を見開いた。
「貴方が猶原楓さん? 一緒に来てください」
「はい」
若い警官に腕を引かれた楓はおとなしく付いていった。
「楓ちゃん! また戻ってくるよな?」
竜司は楓の背中にそう呼びかけた。楓は振り向くことはなかった。
「ごめんなさい。竜司さん里奈子さん。短い間でしたけど、ありがとう。私の事は忘れてください」
「楓ちゃん……! 君が一体何をしたっていうんだ?」
「……」
何も答えない楓の背中を竜司と里奈子は見つめた。楓の代わりに警官が答えた。
「彼女は何もしていませんよ。ただ不運だっただけです。すみません夜に騒ぎ立ててしまって。では我々はこれで」
楓は泣きそうな気持ちを抑えて一家の前から姿を消した。