ハート・ノッカー-10-
「あははははは! 弱いわねぇ! どれだけ力を得ても、所詮は人のレベルなんてその程度よ!」
笑い声に、ブリガンテは我に返った。
白昼夢を見ていたようだ。
時間にすれば、ほんの僅か。
しかし、その一瞬で、彼はかつての自分――弱かった自分の姿を見た。
いや、弱いのは今も変わらない。
そう思うと、自然に笑みがこぼれた。
「何を笑ってるのかしら? 毒でおかしくなったか?」
「いや……そなたのおかげで懐かしい夢を見た。礼を言う」
まさか感謝されるとは思っていなかったガガスグルーが、目を丸くする。
そして、再び殺意のこもった視線を投げかけた。
「余裕ね。それだけボロボロで、助けもなくて、戦う手段もなくて。
一体アナタに何が出来るというんだ?」
「私一人では何も出来ないだろう」
ブリガンテは再び拳を構える。その瞳闘志まだ、折れてはいない。
「私には仲間がいる。共に死線を越える仲間がな」
「仲間ァ? 友情だの愛情だの劣情だの……くだらないくだらないくだらない!
妄念を抱いてそこで死ね!」
激昂したガガスグルーが両腕をブリガンテに向ける。
再び悪意ある魔術を放とうとしている。
もはやブリガンテの肉体は限界に近い。気力だけで立ち上がっている。
仲間を信じ、自らの役割をこなそうとしていた。
だからこそ――
「私の勝ちだ」
空に光が上がる。
釣られてガガスグルーもそちらを見た。
まっすぐ空へと上がっていく光。
それは、信号弾であった。
準備は終わった。反撃の狼煙。
「ここからは反撃の時間だ」
ブリガンテとガガスグルーが戦っている場所から離れた位置に、奏はいた。
森の中、一人立ち尽くす。
携帯端末を立ち上げ、呪式アプリを起動。
「アンフィニ、虚数世界起動、基底現実から代数世界へ」
彼女の言葉に、アプリが反応し、世界と世界を繋ぐ。
アストラル・ネットワークが構築され、彼女の魔術因子と繋がっていくのが分かる。
それはいつも通りの工程。
だが、ここから先は、あらゆる虚数魔術士が挑戦し、夢見て、その結果、果たせなかった世界。
違う世界の理を呼び出す。
それこそが、虚数魔術士の最初にして最後の悲願であった。
本来、虚数魔術によって呼び出せるのは、術者が属している世界の物体だけ、という縛りが存在している。
なぜか。その理由をいかなる高名な学者も答える事は出来なかった。
虚数式があらゆる可能性存在を呼び出せるのであれば、それが異世界の存在であったとしても、呼び出せるのが道理のはずである。
多元連立世界のすべては、アストラル・ネットワークと呼ばれる魔力の回廊で繋がっている。つまり、アストラル・ネットワークを介した魔術であれば、異世界の術式を行使する事が可能である。少なくとも、理論上はそう考えられていた。
だが、現実には異世界の魔術や物体を呼び出す事は出来ず、その術式は虚数術者にとっては最終目標とされていた。
「アストラル・ネットワークを直結させて。直接リンクを行うわ」
『……ネットワークへの直接リンクは術者保護法によって禁止されています』
いつもの人工精霊の声とは違う、システム音声が携帯から聞こえてくる。
虚数式が異世界の理を呼び出せない最大の要因が、ネットワークへの直接接続である。アストラル・ネットワークに直接リンクするという事は、術者の体内に膨大な魔力が流れ込む事を意味する。
その膨大過ぎる魔力は術者の精神を破壊し、一瞬で焼き殺す。
したがって、虚数術者は外部デバイスを用い、ネットワークへの介入にハブを挟む事で、ネットワークの膨大な魔力を抑えているのである。
そして術者の保護という名目の下、虚数端末には直接リンクを行う事をプログラムとして禁止していた。
だが――
「マスター権限を行使。姫宮奏のリンクをネットワークに直接繋いで」
『……マスター権限はユーザー名、姫宮奏にはありません。現在のマスターはジョン・スミオンです』
その名を聞いて、懐かしい思い出が蘇る。
この端末のかつての所有者であり、虚数魔術の権威。
人工精霊アンフィニは、元はと言えば彼が作り出したプログラム。奏はそれの改良を行ったに過ぎない。
もうこの世にはいない、大切な人の名前だ。
「ではマスター権限の承継を行うわ」
『……マスター権限の承継はユーザー名、姫宮奏の権限では行えません』
それも予想通りの回答。
プログラムはシステムマスターによって保護されている。一介のユーザーである奏ではアクセス権限すら与えられない。
だからこそ――奏はあの人にもらった名前を今ここで使う。
もしもの事があれば使いなさいと、与えられたもう一つの名前。
「ならユーザー登録の修正。ユーザー名を、奏・スミオンに変更。マスター権限の承継を」
『……マスター名、カナデ・スミオンと固有魔術因子の確認。
マスター権限の承継を行います。
ご用をお伺いいたします、マスター』
「……ありがとう、お義父さん」
今は亡き義父に黙礼すると、奏は携帯端末に告げる。
「あたしの魔術因子をアストラル・ネットワークに接続。魔力介入を行うわ」
『……リンクを開始するよ』
魔術因子とは、誰もが持つ固有の魔術パターンである。
因子の数やパターンは人によって違う。これは生まれながらの差異であり、決して努力では補えない才能と呼ばれるもの。
常人であれば因子数はおよそ10万から100万程度。
しかし奏の魔術因子は、1000億を超える。
人間では到底辿り着けぬ極地。だからこそ、人は彼女を世界最高の魔女と呼んだ。
――それが、呪われた技術の果てに生まれた結果だとしても。
「くっ……」
アストラル・ネットワークと直結した瞬間、膨大な魔術の知識が彼女の身体に流れ込む。
本来であれば耐えられぬほどの負荷。一瞬で魔力暴走を起こし、欠片も残さず吹き飛ぶほどの魔力。
だが、奏はそれを耐える。
彼女ならば超えられる。
彼女にしか超えられない。
この力は、その為のものなのだから。
その為に、彼女は生み出されたのだから。
「……アン、フィニ。虚数式……200番を展開する、わ」
声はたどたどしいが、その瞳ははっきりと見開かれている。
脳内に駆け巡る魔術は、奏の知るものではない。
そう、異世界の知識。アストラル・ネットワークを通じて得た、違う次元の魔術式。
アストラル・ネットワークとは、即ちスミオン・ゲートである。
彼女は今、多元連立世界の門を開き、異界へと知識を繋いだのだ。
頭上に虚数魔術方陣が浮かび上がる。
思い出せ、思い出せ、思い出せ。
奏は自身の魔術因子にそう告げる。
一度見た魔術だ。ならばたとえ異世界の術式であったとしても、異世界の物質であったとしても、呼び出せるはずだ。
『魔術式、展開したよ』
いつものアンフィニの声が聞こえる。
脳は相変わらずガンガンと鳴り響いている。それはまるで、これ以上は踏み越えてはいけないというエラー音のようだった。
彼女が人間であるという、最後の壁。
関係ないと彼女は一笑。そんなもの、自分の手で壊してやる。
呼び出せるはずだ。たとえそれが――魔神と呼ばれる世界の果ての存在であったとしても。
「来なさい! KM-4!」
彼女の叫び声に呼応するように、虚数陣から砲塔が生まれる。
それは、あまりにも巨大な戦車砲。
しかし見る者が見れば、きっと気付いたに違いない。
かつて、奏たちが戦った、第五の魔神ティストゴーンが生み出した長大な戦車砲と同じ形という事に。
60口径150mm戦車砲。
それが今、彼女の頭上に出現したのだ。
「仰角合わせ……」
さすがに戦車本体を召喚する事は叶わなかったが、そんなものは不要。
砲筒がゆっくりと上がっていく。
狙う先は、今まさにブリガンテとガガスグルーが戦っている森の上空。
信号弾が上がった。そこを狙えと言わんばかりに。
当てる必要はない。そこで炸裂させるだけで十分。
「っ撃てえええええええええ!」
戦車砲から、KM-4砲弾が放たれる。
それは始まりの号砲であった。
魔神ガガスグルーは頭上で、何かが炸裂するのを感じた。
しかし爆風はさほど大きくはなく、下にいた彼女には何の被害もなかった。
一体何の真似だ、彼女はそう警戒した。
遠距離から姫宮奏が砲撃したというのは分かった。むしろ想定の範囲内。
だからこそ、ガガスグルーは戦闘の場所を森の中にした。ここならば、彼女の得意な砲撃も攪乱出来る。
だが――
「え……?」
最初に異変に気付いたのは、周囲を警戒する為に魔力検知を行おうとした時だった。
彼女の手から放たれた魔力光は、しかしすぐさま掻き消えてしまう。
何度やっても、彼女が魔力を放つ事は出来なかった。
そして、彼女が常に張り巡らせていた魔術障壁すら消えていた。
「……まさか、まさかまさかまさかぁ!」
ありえない。ありえるはずがない。
しかしガガスグルーはこれが何なのか知っている。
かつて共に戦った仲間の技、忘れるはずがない。
「ティストゴーンの魔力攪乱砲弾を使ったな貴様らァ!」
今までの余裕のある表情からは一転し、彼女は目を見開いて叫ぶ。
その視線の先には、ブリガンテが立っていた。
「出来るはずがない! 違う世界の魔術を行使するなんて、脳がイカれてもおかしくない!
この私ですら! 私ですら出来ないんだぞ」
「ならば答えは一つだろう」
きっと奏がこの場にいたらこう言うであろう言葉を、ブリガンテが代わりに告げた。
「奏がお前よりも優れた魔術士であった。それだけの事だ」
「ふざけるなぁ!」
ガガスグルーが怒りに我を忘れた。
魔力検知も、魔術障壁も使えない彼女は、最後の砦であった冷静さを失っていた。
だから気付く事は出来なかった。
遥か上空から急降下してくる影に。
「なっ!?」
気付いた時には既に銀閃が煌めき、蜘蛛の脚を断ち切っていた。
空から舞い降りたのは、飛竜ララモラと、その背に乗るアムダであった。
魔神の一瞬の隙をつき、脚を切り落としたアムダは、そこに捕らえられていたコボルトの少年ラルーズを助け出す。
ほんの刹那の時間。
しかし乾坤一擲の作戦は見事に成功した。
気付いた時には、竜は再び羽ばたき、大空へと飛び出している。
「さて、これで人質は無くなったぞ」
「ぐぐぐぐぐぐ……」
奥歯が割れるくらいに歯ぎしりをするガガスグルー。
しかし、少し後、再び狂笑を浮かべる。
「あははは! 凄いじゃない、今回は私の負けね。素直に負けを認めてあげるわ」
「…………」
「でも残念な事に、アナタたちの刃は私には届かないわよ。
この森が私を守ってくれる。
この気色の悪い蜘蛛の肉体も、こんな時には便利なのよねぇ」
にたりと笑った後、彼女は大樹の枝に飛び乗った。
「だからさぁ、私がここから逃げればさぁ……アナタたちは手出しが出来なくなるのよね。
森に逃げ込んじゃったら、アナタたちじゃ、見つけれないもの。
あはははははははは! この魔力攪乱も時間が経てば元通り。
魔力が使えるようになったら、もう一回あの村を襲って、今度こそ全員の首でかまくらでも作ってあげるわ! あははははははははははははははははははは!」
深い森に女の笑い声だけが響き渡る。
ブリガンテは何も言わない。魔神はそれが彼の敗北を認めた姿だと思ったのか、一層笑い声を強くする。
本当は……憐みでしかないのに。
「あはははははははははは――――」
『まあ、逃げられるんなら、逃げてみればいいんじゃねぇかな』
声が聞こえた。
それはあの男――藤間シライの声だ。
哄笑を止めたガガスグルーは周囲を見渡す。
魔力検知が使えない今、その声がどこから発せられたのか分からない。
木々のざわめきに混じった声だ。
「どこだ、どこにいる……」
『俺たちがお前を見つけれないように、お前も俺を見つけれないんだな』
「……ふん、どうせ見ているだけしか出来ない臆病者が。
悪いがキミと遊ぶつもりはない。行かせてもらうよ」
ガガスグルーが跳躍し、森の奥へと逃げようとする。
その背中に向けて、シライが告げた。
『残念ながら、逃げ場は無いぜ』
「あはは! 負け惜しみのセリフも無様ねぇ。もっと気の利いた言葉はないのかしら?」
『じゃあ俺の愛の告白、しっかりと受け止めな』
ざわり、とガガスグルーに悪寒が走る。
所詮はったりだと笑い飛ばす事すら、彼女には出来なかった。
そして――
『ここが地獄の一丁目だ。一緒に仲良く燃え上がろうぜ!』
―― F-4 Phantom II arrival ――
ジェット音が聞こえ、ガガスグルーは空を見上げた。
頭上を戦闘機が飛んでいくのを、木々の合間から見た。
戦闘機は一機や二機ではない。何機もの戦闘機が編隊を組んで飛んでいる。
ありえない光景が頭上で展開していた。
ガガスグルーに知識があれば、その戦闘機がF-4ファントムIIと呼ばれる米軍の戦闘機である事が分かっただろう。
「な、何よこれ……」
F-4は一斉に胴体に取り付けられていた爆弾を切り離す。
次々に投下されていく爆弾が、森林に降り注いだ。
そして――連鎖するように爆発、炎上していく。
それはただの投下爆弾では無かった。
ナパーム弾。それは人類が生み出した禁断の兵器。
燃焼材は粘り気のあるゼリー状になっており、爆裂すると周囲に燃焼材が飛び散ってへばりつく。
一度張り付くと焼き尽くすまで消える事のない炎が、木々に燃え移っていく。
緑で覆われていた森は、一瞬にして炎の海と化した。
「森ごと私を燃やすつもりなの……狂ってるわキミ」
『森一つでお前を殺せるなら、いくらでも燃やしてやるよ』
爆撃はなおも続いている。ナパーム弾の雨が降り注ぐ。
そして、ガガスグルーは爆撃音の中で聞いた。
シライの殺意に満ちたその声を。
『言ったはずだ。逃げ場は無いってな。
コボルト族が受けた傷も、おっさんが受けた痛みも……何倍にもして返してやる。
ここがお前にとっての地獄だ。さあ……決着をつけようぜ』




