ハート・ノッカー-9-
森の中に二つの人影があった。
一つは女。
紫色の長い髪を垂らし、木にもたれかかっている。
魔神ガガスグルーであった。
その近くに、コボルトの少年ラルーズがいる。
「…………」
ラルーズの体は拘束はされていなかったが、しかし恐怖で動く事は出来なかった。
今は人間の姿をとっているガガスグルーではあるが、魔神の姿になれば、自分の肉体など一瞬で消し飛ばせる。
「そう怯えるなよ」
「!?」
いきなり話し掛けられて戸惑うラルーズに、ガガスグルーはふっと笑いを見せる。
それは、戦闘中に見せた狂気に満ちたそれとは違っていて、年相応の優しい笑みだった。
「別に殺しはしないさ。私にも分別というものがある。殺すべき者は弁えている」
「…………」
彼女は独り言のように、続ける。
「異世界に飛ばされて色々あって、今じゃ魔神なんて呼ばれてさ。
ほんと、嫌になるわよ。
名前も姿も奪われて……人間という事すら失って、おかしくならない方がどうかしてるわよね」
それは彼女の独白であった。誰かに言うのではなく、ただ淡々と紡いでいく。
「でもようやく見つけたんだ、私の未来も夢もすべてを取り戻す方法を。
邪魔をするやつは殺す。全員殺す。殺して晒して塵になるまで、ずっと殺し続ける、あははは!」
ひとしきり笑った後、彼女はいきなり素に戻る。
「いやぁ、ごめんごめん。もうね、感情が元に戻らないのよ。
あはは、心まで化け物に近づいてるわね、これじゃあ。
これでも昔は虫も殺せぬお嬢様だったのよ、ほんとに。
今じゃ、自分が虫けらですけどっておい……あははははは!」
さて、と言って彼女は立ち上がる。
いきなりの動作に、ラルーズがびくりと反応するが、彼女は気にも留めない。
そして、森の奥に視線を向けた。
「お客さんが来たみたいね」
魔神の声に、ラルーズも視線をそちらに移す。
ゆっくりと木々をかき分け、現れたのは、一人の男――ブリガンテであった。
「あら、またアナタなのね。体の調子はいかが? あはは」
「悪くない。すこぶるな」
「ふぅん……つまんないギャグだけど、そういう事も言えるのね。意外だわ」
そして視線をブリガンテの周囲に向ける。
「一人で来たって訳でもないでしょ。どこかに隠れてるの?」
「さて、な」
「……あれだけ負けたのに、えらい余裕ね」
そう言いつつ、彼女は周囲に気配を配る。
周辺の魔力を探知。
少なくとも、ブリガンテ以外の大型の生命体は感知出来なかった。
しかし彼女は警戒を緩めない。
彼女にとってこれはゲームと同じ。攻略情報の明示された、出来の悪いゲーム。
「まあいいわ。それで、匣を持って来たのかしら?」
「シライ……我が友からの伝言だ」
「何かしら、愛の告白なら間に合ってるわよ」
「お前の首は、柱に吊るされるのがお似合いだ、とな」
「……中々情熱的な殺し文句じゃない。思わず殺してあげたくなるくらいに」
魔神の殺気が膨れ上がっていく。
その刹那、ブリガンテが走る。
向かう先は魔神ではなく、その横にいるラルーズへ。
だが――
「残念! あとうもう一歩だったけどねぇ!」
それよりも早く、ガガスグルーの姿が変貌し、巨大な蜘蛛の体になる。
そして、ラルーズへと迫るブリガンテへ強烈な一撃を浴びせる。
物理攻撃で傷つく事はないが、しかしその一撃によってラルーズと距離が離される。
コボルトの少年を背にし、静かにとガガスグルーがブリガンテを見下ろす。
「あははは! アナタ一人じゃ、勝負にもならないわよ?
大方、人質を奪って総攻撃でも仕掛けるつもりだったんでしょうけど。
さて、お次はどうするのかしら?」
「…………」
ブリガンテは答えず、拳を構える。
その姿に、ガガスグルーは面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「……つまらん男だなキミは。面白味も何もない。あるのは下らない虚勢だけか。
もういい、お前を殺した後、ガキも殺す。
そのまま村に行って全員殺す。キミたちの首を柱に晒して慰み者にしてあげるわ」
「出来るものならば、やってみろ」
「言われなくてもォ!」
魔神が一気に跳躍する。
器用に蜘蛛の脚を使い、ラルーズを抱きかかえている。
木々に飛び移り、片手をブリガンテに向ける。
「腐って果てろ! 黒術・アシッドブーケ!」
魔神の腕から、魔術が放たれる。
触れれば腐り落ちる瘴気の呪術。
ブリガンテは回避。しかしガガスグルーは執拗に魔術を放つ。
「あはははは! 逃げてばかりじゃどうしようもないわよ! 戦わなきゃ、現実と!」
魔神の哄笑が森に響き渡る。
ブリガンテはそれを無視し、ただ避け続ける。
何度も、何度も。
「なら、これはどうかしら!」
左手で別の毒を作り出し、ブリガンテへと撃ち出した。
二種類の魔術を同時に扱う。
無論これはブリガンテにとって想定内。
相手は同時に三種類の魔術を使う事が出来る魔神だ。
魔術障壁は何があっても解除しないだろう。つまり、使える魔術は二種類。
指向性のある呪毒を使ってくるという事は、広範囲に無差別の毒を使うつもりはないらしい。
向こうとしても、ラルーズという人質をそう簡単に失うつもりはないらしい。
「あは、あははは! 必死になっちゃってさぁ!」
「…………」
「はっ、口ほどにもない!」
しばらく回避を続けた後、ガガスグルーが魔術を停止する。
「何を狙ってるのか知らないけどさ。終わりにしてあげる」
そう言って彼女は両手を胸の前で合わせる。
魔力が高まっていくのを、ブリガンテも感じる。
「ここは暗い闇の底、芳しい死の匂いが見えるでしょう。
さあ、骸となっても愛しいアナタ。
私はここにいるわ。いつでもアナタを待ってるもの」
それは魔術の詠唱。無詠唱で魔術を放てるガガスグルーが詠唱を唱えるという事。
つまり――本気の魔術が放たれようとしていた。
「闇術スワンプマンズ・カルニヴァル!」
回避しようとしたブリガンテは、足に異変を感じた。
先ほどまで放たれていた魔術によって、ブリガンテの足場が腐食していた。
飛び退くのが一瞬遅れる。だがその一瞬が命取りとなる。
ブリガンテの体を、極悪な魔術が襲った。
そして彼の意識は、闇に沈んだ。
夢を見ているようだった。幼き日の夢を。
ブリガンテ・ファボック・ハイムベルスは祝福されて生まれてきた。
彼はとある戦士の一族の村に生を受けた。
彼の父ギルバルトは一族の長であり、彼もまた、やがては一族の者を率いる定めを生まれながらにして受けていた。
腕白な少年であったが、思慮深い面も見せており、父親は親馬鹿と言われようが、いずれは名のある戦士になると、酒の席では漏らしていた。
そんな日が、十年ほど続いたある日の事だった。
「族長、王都からルッツ殿が来ております」
「ルッツが? 急だな」
ルッツは、一族と親交のある王国の騎士隊長であり、ギルバルトの友人でもあった。
お堅い性格のルッツは、いつも来訪前には文を寄越すのだが、今回は突然の事である。
ギルバルトが表に出る。
そこには騎馬姿のルッツがいた。
さらに彼の騎士団が、背後には控えている。
装備は整えられ、その雰囲気はただ事ではないのが、一目見て分かった。
「久しぶりだな、新年の祝い以来か」
「ルッツ……どういう事だ。どこかに戦でも仕掛けるつもりか?」
「…………」
ギルバルトの言葉を、しかしルッツは答えない。
静かに下馬すると、同じ目線で語り出す。
「先日、王宮の予言者が告げた。この世を滅ぼす忌子がいるという事を」
「……それがどうした」
その噂ならばギルバルトも知っていた。
代々王宮に仕える予言者が死に、その死の際に伝えた言葉。世界を滅ぼす存在がこの世に生まれたのだと。
それは単なる噂話でしかなかったが、しかしじわりじわりと少しずつ、世に広まっていた。
「まさか、そんな与太話を信じ、兵を率いているのか?」
「……」
「それで、その世界を滅ぼす化け物とやらは、一体どこにいるのだ」
「――だ」
「うん?」
「ここだ、ギルバルト。お前の息子、ブリガンテこそ、世界を滅ぼす存在なのだ」
ギルバルトの目が大きく開かれる。何を馬鹿な、と問い返そうとしたが、その言葉を発する事は出来なかった。
ルッツの瞳は、何ら嘘偽りを申していない。
つまり、真実を告げているのだと、付き合いの深いギルバルトには分かってしまった。
「私の息子が世界を滅ぼす、だと? おかしな事を言う。あれはまだ十を迎えたばかりだぞ」
「私とて信じられん。だが、王はその予言を信じておられるのだ」
「ふ、ふふ……気でも狂うたか」
「止めろ。それ以上申せば、立場上、お前と斬り合わなければならん」
脅しとも取れるルッツの言葉に、ギルバルトは目を見開いた。
「……それで、何をするつもりだ」
「ブリガンテを渡せ。それで終わりだ」
「息子をどうするつもりだ」
「…………」
ルッツは答えない。それが返答であった。
「我が子を……殺せと言うのか!」
「こちらで終わらせる。お前には――」
「同じ事だ!」
怒声に、周囲で作業していた一族の者たちも異変に気付いたようだ。
その中には、幼い戦士――ブリガンテの姿もあった。
「……ギルバルトよ、よく考えろ。王は本気だ」
「ならば帰って王に伝えよ。下らぬ予言などに惑わされるなと」
「一族の命とどちらが大事だ」
「比べられるはずもない」
二人の視線が交差する。先に視線を外したのはルッツの方であった。
振り返り、再び馬に騎乗する。
「今は引こう。だが、友として最後の忠告だ。大人しく渡す事だ」
「……では、お前を友と呼ぶのは今日で終わりだ」
「……後悔するなよ」
そう言い残すと、ルッツは騎士たちを率いて去っていった。
不穏な空気だけを残して。
心配そうな顔で見つめてくる息子ブリガンテに、ギルバルトは笑みを浮かべる。
「大丈夫だ。私が何とかするさ」
そう言うギルバルトの笑い顔を、ブリガンテは生涯忘れる事はなかった。
王都の軍がギルバルトの村を襲ったのは、それから三日後の事であった。
百数十人ほど住まう彼らの村を、一万を超える軍勢が蹂躙していく。
それは一方的な虐殺であった。
少なくとも、たった一人生き残ったブリガンテの目には、そう映った。
逃げ惑う村人たちを、兵士たちが射殺していく。
戦士たちも応戦したが、圧倒的な兵士の前に、為すすべなく殺されていく。
「逃げろ」
ギルバルトはブリガンテにそう告げた。
自分も戦うと、彼は言ったが、父の厳しい眼差しがそれを許さなかった。
母は彼を抱きしめると、手を引いて走り出した。
村が燃えている。赤い炎が舐め尽くすように。
悲鳴と剣戟の音が断続的に聞こえる中、ブリガンテは走った。
「いたぞ! あのガキだ!」
「呪われた忌子だ、殺せ!」
風を切る音が聞こえる。兵士たちが矢を放っている。
足を止めればすぐに殺される。
ブリガンテは闇雲に走る。どこに逃げ場があるのか。分からないけれど。
「くぅっ!」
母の小さな悲鳴が聞こえ、繋いでいたはずの手から力が抜ける。
見ると、母の足に矢が刺さっていた。炎に照らされ、赤い血が光った。
「母さんっ!」
「いきなさい!」
「で、でも……」
足を止めたブリガンテを叱責するように、母が叫ぶ。
お前だけでもいきなさい、と。
それは慈愛に満ちた母が残した、最期の言葉だった。
だから――ブリガンテは走った。
脇目も振らず、ただがむしゃらに、走った。
肩に痛みが走る。いつの間にか矢が刺さっている。
涙が溢れた。
それは決して、痛みだけではなかった。
少年の姿は、森の奥へと消えて行った。
「終わりだ友よ……」
ルッツは刃を振るい、ギルバルトの心臓を貫いた。
血潮が顔にかかる。
そして、偉大なる戦士ギルバルト・ファボック・ハイムベルスはその生涯を終えたのだった。
「お見事です、総長」
「なにが見事なものか」
ギルバルト一人討ち取るのに、騎士を二十人以上失った。
さらに傷つき疲弊したギルバルトに対し、ルッツは紙一重の勝利を収めたに過ぎない。
勝ったルッツの顔に喜びはない。
あるのは友を我が手に掛けた痛みだけだ。
「……ブリガンテの方は捕らえたか?」
「それが……」
騎士の一人が申し訳なさそうに報告する。
「目的の少年は魔の森へと逃げ込んだようです」
「なんだと……?」
殺意を含んだ瞳を、ルッツは部下に向ける。
「これだけの手勢を動かして、逃がしたと言うのか貴公らは」
「そ、それは……」
「すぐさま魔の森とやらに追手を差し向けろ。
子供の首を持って帰れねば、貴公らの首が晒される事になるぞ」
「ですが、あの森は一度入れば二度と出て来れぬと言われてまして……」
騎士が言い終わるよりも早く、ルッツの剣が閃いた。
放たれた刃は、騎士の首元に添えられていた。
「二度と言わせるな。必ず俺のところに首を持ってこい」
「は、はい!」
騎士たちは逃げるように走っていく。
ルッツは刃を鞘に戻しながら、一人吐き捨てた。
「これでは、何の為に友を殺し、無辜なる民を殺したのか、分からぬではないか……」
自分が間違っていたと言うのか。
王に派兵は止めるよう、再三進言したが聞き入れてもらえなかった。
だからせめて自分の手で、全てを終わらせようとしたのに。
「ギルバルト……教えてくれ」
悲痛な声は、ただ闇夜に響いただけであった。
「ここ、は……」
ブリガンテが目を覚ますと、彼は真っ白なシーツに横たわっていた。
体を起こすと、全身に痛みが走る。
見ると体には手当が施されており、全身に包帯が巻かれていた。
傷の無い箇所の方が少ないくらいの大怪我だ。
「おや、気付いたかい」
ガチャリとドアを開けて、室内に誰かが入ってくる。
声の主は女であった。
年は二十代であろうか。幼いブリガンテには、女性の年齢は今一つ分かりかねた。
燃えるような真紅の髪を後ろで束ねており、黒尽くめの衣装が特徴的な女だ。
「あなたは……」
「ふむ、レディに名を尋ねる時は自分から名乗るのが良い男というものだよ少年。
まあそれは今後に期待しておこうか。
私はマリア・ルード・ビスタ。口さがない者は私の事を《時果ての魔女》なんて呼ぶがね」
女の言葉に、ブリガンテは目を見開いた。
その名は伝説とも言える魔女の名だ。
伝承によれば、かつて神が天地を創造した時に共に闇を払った偉大なる魔女。
おとぎ話を越え、もはや神話の域に到達した人物である。
「じゃあここは……」
「ああ、私の住まいさ。お前たちは帰らずの森なんて呼んでいるけどね。
まあ間違いじゃない。認識阻害の魔術がかかってるから、常人だと一生ここには辿り着けんだろうけどね」
そう言うと、マリアは傍らに置いてあった木の椅子に腰掛ける。
裾の長いスカートを履いていたが、太ももの部分にまで大きなスリットが入っている。
彼女は器用に足を組むと、少年に問いかけた。
「本来ならば君のような子供が入り込める場所ではないんだよ。
だが、君は傷だらけになりながらも、私の家の前で倒れていたからね。
見捨てるのも夢見が悪いだろう? 何かあったのかい?」
その言葉に、ブリガンテは全てを話した。
話を聞き終えたマリアは、ふむ、と小さく呟いた。
「世界を滅ぼす呪われた子か、相変わらず人の業は深いようだ」
「…………」
話し終え、ブリガンテは立ち上がろうとした。
全身に強烈な痛みが走ったが、それを無視しようとする。
「こらこら、何をしている。手当をしたとはいえ、大怪我には変わりはないんだぞ」
「……あいつらを殺す」
少年の瞳には殺意があった。
燃えるような殺意の瞳に、魔女は笑みを漏らす。
「復讐でもするつもりか? そんな体で?」
「……関係ない」
「あるさ、大有りだ。考えてもみろ、少年の力で一体何人の兵士を殺せる?
十人か? 百人か?
残念ながら、答えはゼロだよ。それが現実だ」
「分かっているよ、それくらい!」
そんな事は痛いくらいに。
どれだけ才能があろうと、ブリガンテはまだ子供でしかない。
訓練した兵士一人にすら勝てない。
涙が溢れてくる。
それは自分の弱さゆえの失望であった。
もしも自分に力があれば、父や母、故郷を滅ぼしたあいつらに復讐が出来るのに。
「――なるほど、天は私にその役割を望むのか。
ならば私は、君の輝きに賭けてみる事にしようか」
マリアはそう言うと立ち上がり、ブリガンテの顎に手を掛ける。
細いしなやかな指。爪の先まで真っ赤に染められている。
「君が力を望むのであれば……私はそれを与えよう」
「……力?」
「ただし、力には代償が必要になる。
祝福には呪い。これはコインの表裏のように同じものなのさ」
「代償って……何?」
「それは残念ながら教えられないね。悪魔の取引はいつだって一方的なのさ。
君が魔女の呪いを望むのであれば――私は君に祝福を与えてあげる」
その言葉に、ブリガンテは何と答えたのだったか。
今ではもう覚えていない。
ただ記憶の残滓に残るのは。
静かにほの甘い、魔女の口づけだけ。
それが、魔女との契約の印。
そうして、ブリガンテ・ファボック・ハイムベルスは、魔女の呪いを手に入れた。
そんな――懐かしい、夢を見た。




