空色の弾丸-8-
その男が現れたのは、俺が射撃姿勢に移って、一時間ほど経ってからだった。
教会の屋上に人影が揺れる。
最初は空気の揺らぎかと思ったが、どうも違う。
黒い人影が、ゆらりと屋上に立っていた。
来たか。
言葉には出さず、ただライフルのスコープの中に人影を捉える。
顔かたちは分からない。
フードを目深にかぶっており、男か女かもはっきりしない。いや、体格的にはおそらく男だろうが。
引き金に指をかける。
発砲はまだだ。相手が本当に襲撃犯かどうか、はっきりさせる必要がある。
もしかすれば、ただ教会の屋上でラジオ体操でも踊ってるだけかもしれない。まあそんな不審者は撃ち抜いてしまっても問題は無いだろうが。
ゆっくりと息を吐く。
既に太陽は沈みかけており、赤い夕陽に変わっている。
しかしこちらは太陽を背に背負っているので、少なくとも逆行に困るという事は無い。
両目を見開き、相手の一挙一動を見詰める。
フード姿の男は、手に何かを持っている。細い筒のようなもの。
それが銃なのだと気付いたのは、男がそれを構えてからだった。
銃と呼ぶにはあまりにも簡素めいている。単なる鉄の筒にしか見えない。
まあ、魔法の力でライフル弾を撃ち出すのであれば、狙撃銃のような機構は不要か。エネルギーを伝える射筒で十分。
さて、どうするか。状況証拠は十分だ。
あとは引き金を引くだけ。
そう思っていた時だった。
「なっ!?」
思わず声が漏れてしまうほど驚愕。
屋上に、もう一つ人影が見えたのだ。
遠目からでも分かるほど背の小さな人物。
いや、少女だ。金色の長い髪が、夕日を受けてきらきらと輝いている。
間違いない。
あれは……エルフの王女ディアネイラだ。
何でこんなところにいるんだ。
射線に入っている訳ではないが、しかし万が一という事もある。この状態では狙撃は難しいかもしれない。
「くそったれ……」
誰に言うでもなく、俺の呟きは空へと消えていった。
エルフの王女ディアネイラが教会の屋上に踏み入れたのは、決して偶然ではなかった。
昨日、ディアネイラがシライたちと別れた後、彼女は結局、護衛たちを振り切り、シライたちの後をつけていたのだった。
そして、彼らが教会に入るのを目撃したところで、クロフェルたちに見つかってしまったのである。
「あれは何なの?」
ディアネイラは道中、クロフェルに尋ねる。
彼女には、教会の建物がなんなのか、分からなかったのである。
クロフェルは少しだけ顔をしかめると、彼女に告げる。
「あれは、中央教会の聖堂です。人間の愚かな象徴と言えるでしょう」
「ふーん」
知識としては知っていたものの、中央教会関係のものを見たのはこれが初めてだった。
そもそも、エルフの領域から出たのすら、今回が初めてなのである。
まだ年若いエルフの少女にとっては、伝え聞いていた人間の王国は、とても新鮮に映った。
そして同時に、あれが母親を襲ったのだという明確な標的へと変わっていった。
人間は悪。中央教会は悪。
そう教わってて育てられたのだ、
彼女がそう思ってしまったのは、無理からぬ事だったのかもしれない。
翌日、言葉巧みに護衛を出し抜くと、彼女は単身、教会へと向かった。
きっとこの中に、母を襲った犯人がいるのだという確信。
小さなエルフの子供じみた幻想は、きっと本来ならば笑い話で終わるはずだったのだろう。
しかし、そこに本当に襲撃犯がいたのであれば。
それは……笑い話になどならなかったに違いない。
ディアネイラが教会に入ると、中はしんと静まり返っていた。
人の気配が無く、霊験な雰囲気だけが漂っている。
どこにいるのだろうか。そう考えた時、奥の通路に階段が見えた。
どうやら上に上がれるようだ。
足音を押し殺して階段を上がっていく。
階段を上りきった先は、屋上に続く扉があり、開かれていた。
恐る恐る屋上に踏み入れると、一人の人間がそこにいた。
屋上から街の通りを見詰めているようだ。
「あなた、何をしてるの……?」
「……これはこれは、妙なところを見られてしまいましたな」
ゆらり、と人影が動く。
振り返った男の姿が露わになる。フードを深く被っているので人相までは把握出来ない。
「誰かと思えば……まさかエルフの王女様ではありませんか。
いやまったく、私はついている」
くくく、と男は笑いをもらす。
「まさか標的の一人が、わざわざこうして出向いてくれるのですから」
「あなたが……お母様を狙ったのね!」
その言葉に、弾かれるようにディアネイラは術式を編む。
構成は一瞬。力ある言葉と共に魔術が完成する。
「風の精霊、魂の導きと共に、私に力を貸して!」
彼女の扱う精霊魔術は、自らの魔力を触媒に魔術を基底現実に具現化させる原始魔術の一種だ。
ディアネイラの魔術の才は、かつて天才魔術士と呼ばれていた母の血を色濃く受け継ぎ、並の人間では太刀打ち出来ないレベルである。
だからこそ、彼女は単身この場に乗り込んできたのである。
だからこそ――慢心。
彼女には確かに才能はあった。
しかし、実戦経験の欠如は、決して埋める事の出来ない溝でもあった。
「遅いですよ」
彼女の放った魔術は、しかし男の眼前で掻き消された。
対抗魔術で消滅させられた、と彼女が気付いた時には遅かった。
男の右腕が、エルフの少女の喉に掛かる。
「こんなカビの生えたような魔術でよくもまあ挑んできたものです。
魔術の才に溺れ、研究されつくした古典魔術に縋るしかない哀れな種族ですかね」
「ぐっ……」
「叫ばれては困りますので、このまま絞め殺すとしましょう」
喉を圧迫され、呼吸が出来ない。
魔術を行使しようにも、声が出せない以上、魔術式の構成が出来ない。
「女王を殺すつもりでしたが、まあ王女でも構わないでしょう。
なぁに、すぐにお仲間も同じ場所に送り届けてあげます」
意識が遠くなる。
必死に男の腕を解こうと抵抗するが、少女の力ではどうする事も出来ない。
なんて弱さだ。
なんて甘さだ。
あなたは何も知らないと、いつも母が言っていたのを、今になって思い出す。
涙が出てくる。それは痛みの為か、屈辱か。
男の顔に嗜虐の色が浮かぶ。
「それではおやすみなさい。エルフのお姫様――」
男が力を入れた瞬間だった。
どこか遠くで、雷鳴が轟いた。
まずい事になっていた。
屋上に現れたディアネイラが、突如、人影と戦闘を始めた。
いや、戦闘なんて呼べるようなものではなく、一方的なものだった。
そして今、ディアネイラの首に手を掛けている。
その姿が、狙撃銃のスコープ越しにはっきりと見えた。
「…………」
どうするか。助けを呼ぶべきか。
躊躇いは一瞬。
そんな時間は無い。
今彼女を助けられるのはここにいる俺だけだと認識する。
意識を整える。
微調整を開始。
チャンスは恐らく一度きりだ。
外せば相手はそのまま少女を縊り殺すだろう。
だからこそのワンショット・ワンキル。
それこそが、スナイパーの正道。
「軽風……距離600m……目標は男……」
状況を言葉に出して整理していく。
その間に殺意は消していく。
こんなものは余計な雑念でしかない。
スナイパーに必要なのは、ただ事務的に相手を殺すという意識、それだけだ。
引き金を引くのに殺意はいらない。
五百円硬貨大のスコープの中に映る男の生殺与奪は俺が今、握っている。
ゆっくりと引き金に掛けた指に力を入れていく。
「…………」
寒夜に霜が降る如く。
射撃における心得の一つだ。
引き金を引く時は、霜が降る音が聞こえるほど、心を平穏を保つ必要がある。
そして余計な力は要らない。
少しずつ指に力を加えていくだけだ。
ゆっくりと、確実に。
スコープの先に、少女の表情が見える。
苦悶の顔。
だがそれすらも、心から追い出していく。
息を止める。
スコープのレティクルは男の頭部を捉えている。
そして――
「おやすみ……」
引き金を引いた。
少女が一番最初に感じたのは、熱さだった。
それは今まで味わった事にない、不思議な熱さ。
そして、むせ返るような錆びた鉄の匂いが彼女を覆った。
「え……?」
締め付けられていた喉の拘束がたわみ、声が出せる。
だが、それよりも何よりも、不可解な光景が少女に目に飛び込んできたのである。
「……なに、これ……」
少女の視界が赤く染まっている。
夕日の赤だろうか。
いや違う。もっと根源的な赤色。
それは――血の色だった。
目の前を覆う赤は、確かに血によって生み出されたものだ。
だがどうして。
そう疑問に思うのと同時に、その理由もまた判明した。
「あ……」
目の前の男が、死んでいた。
頭部に黒々とした穴が空き、そこから大量の出血をしている。
その血は、ディアネイラ自身も赤く染め上げている。
何が起きたのか、少女には理解出来ない。
しかし、確実に、男は息絶えている。
「ディアネイラ!」
声が屋上に響いた。
見ると、屋上の扉から、一人の女性が入ってきた。
確か……奏と名乗った女性だ。
彼女は走ってくるなり、ディアネイラの体を抱きしめる。
「大丈夫? 怪我は無い?」
「……うん」
「そう、よかった……」
先ほどまでとは違う、暖かさに、ディアネイラの瞳から涙が流れる。
「わた、し……ごめん、なさい……」
「いいのよ、もう」
静かにそう抱きしめて、奏は告げた。
何が起きたのか、少女には分からなかったけれど。
全部終わったのだと、彼女は理解した。
『今、ディアネイラを保護したわ。エルフたちに連絡を取るわ』
「そうか、後は任せる」
『そっちもお疲れ様』
奏とトランシーバーでの通信を終え、俺は射撃姿勢を解く。
ふぅ、と息を吐いて肩をほぐす。
標的を撃ち抜いた後も、狙撃手は射撃姿勢のままでいる。
狙撃においては、撃つ時と離れる時、そのどちらも重要なのだそうだ。
だからこそ、今回も標的を撃ち抜いた後、そのままの姿勢で待機し続けていた。
まあ、ディアネイラが助かった以上、俺の役目も終わりだろう。
「やれやれ……」
奏の報告によると、撃ち抜いた相手は死亡したらしい。
まあ確実に脳天を撃ち抜いたんだ。これで生きてられても困るというものだ。
そして――男の正体は、教会長のグレンだったらしい。
まさか、という思いと、やはりな、という思い。
その両方がまじりあって複雑な心境だ。
ただ、少なくともこれで教会にとっては、傷が残る形になっただろう。
後はどうなるのか、そういう政治的な判断は俺には分からないが。
グラシエルたちが上手くやってくれる事を祈ろう。
「さて、帰るとするか」
民家の屋上から出ようとした時、不意に何かを感じた。
はっと振り返る。
もちろん、そこには何もない。
もう日も暮れて、夜になりつつあった。
空には一番星が輝いている。
「……気のせいか」
何を感じた訳でもないが。
何となく、違和感だけがそこに残った。
「へぇ……いい勘してるじゃん」
シライから遠く離れた家屋に、一人の男が立っていた。
その男の手には、巨大な弓が握られている。
男が白銀に輝く弓を下ろす。
シライとの距離はおよそ1,000m。並の弓では届きようのない距離である。
にも関わらず、弓兵の瞳は、シライの姿を捉えていた。
「ま、お楽しみはこれからってところですかね」
「しくじったにしては、軽薄過ぎるのではなくて?」
もう一人、声が聞こえた。
男が振り返ると、その空間に、一人の女性が現れる。
転移呪文であった。
その呪文式から察するに、少なくともその女性が高位の魔術士である事が窺い知れる。
女の服装は魔術士のローブを着ており、冒険者然としていた。
美しい女性であったが、同時に恐怖を感じるほどの美しさを持ち合わせている。
そして何より、彼女はエルフであった。
「あー、まあそうかもね。でも別にここで殺す必要は無いんだろ?」
「殺せる時に殺しておくべきと私は言っているのです」
「殺そうと思えばいつでも殺せるさ。僕を誰だと思ってるのさ」
「ふん……所詮は劣等か」
弓兵の言葉に、エルフの女は見下すような視線を見せる。
だが、彼女の悪態にも、男はへらへらと笑うだけだ。
その様子が気に障ったのか、女性が男へと向き直る。
「私の邪魔をするならば、ここで消えてもらっても構わないのよ」
「邪魔? それはこっちのセリフだと思うんだけどね」
「ふぅん、口だけは達者じゃない、坊や」
「オバサンには負けるけどね」
一触触発の空気が流れる。
だが、それを遮ったのは、また別の声であった。
「――そこまでだ」
男の声に、二人の視線がそちらに向けられる。
こつこつこつ、と階段を上ってくる足音と共に、男が姿を現す。
黒い髪に逞しい肉体。
見る者が見れば、彼をこう呼んだだろう。
《黒獅子》カリオン、と。
「ああ、チャンピオンじゃないか。あなたもここに来てたんだね」
「気に食わなくても今は仲間だ。つまらん争いは止めろ」
「仲間、ねえ。私から見れば、あなたたちのような劣等種を仲間と呼ぶのは滑稽なのだけれど?」
「…………」
エルフの言葉を視線で流すと、カリオンは二人に告げる。
「列王会議の日時が決まった。お前たちにはそれぞれ別の任務についてもらう」
「ようやくお仕事か。お金を稼ぐのも大変だねぇ」
弓兵はそう言うと、軽く伸びをする。
そして――
「では、勇者としてのお仕事でも、果たすとしますか」




