7 days wonder
この小説は、私が以前に某小説出版の新人賞に応募するべく書き起こしたものです。しかし、期限に間に合わず、お蔵行きとなりました。
misaki-46としては、初めてのノンアクション物です。
こういったお話を書くことがあまりないので、駄作極まりないとは思いますが、どうかご容赦くださいませ。
1st…client 透明人間は、日向に憧れる
1
僕は、自分が大嫌いだ。
意気地なしで、見栄っ張りで、臆病で、ユーモアの欠片もない――そんな自分が嫌になる。親譲りの〝あがり症〟のせいで人前だと上手く喋れないところや、クラスメイトの反感を買わないように曖昧な作り笑顔でその場をやり過ごす卑怯なところも嫌い。とにかく、鈴木太一という人間そのものが死ぬほどに嫌いなのだ。
僕は今、高校に通っている。二学年C組。まだ面倒臭い進路決定とは無縁の、本来なら楽しいはずの時期。周りの生徒は、高校生活を全身で味わうように毎日を明るく過ごしている。きっと僕とは違って、将来、大人になって子どもに「青春はいいぞ」なんて言えるような一年を送るのだろう。学校の友達、アルバイト先の知りあい、彼氏や彼女――そんな喜怒哀楽を共有出来る仲間と共に、この先の人生も円滑に無条件な幸福を糧に生きていくに違いない。
(僕とは違って――)
周囲を見回して、声で賑わう教室は陽の光のように輝いていることを再認識する。僕のような日陰者にとって、それは直視出来ない景色だ。だから、僕はこうして読書という行動に逃避している。
僕は目を眇めてから、茶色い皮のブックカバーに覆われたSF小説に視線を落とした。
本は、僕を裏切らない。そこに記された文字の羅列は、僕を非難しない。無限に広がる空想は、お伽噺という形を通して僕を楽しませてくれる。本は、日常を楽しめない僕に用意された唯一の幸福だった。本だけが、僕に疑似的な幸福をくれた。
一日中、休み時間や昼食の時でさえも読書に没頭する僕なんかに、友達が出来るはずもない。僕の高校生活は孤独で、ゆえに他人からの干渉を必須とする青春とは無縁だ。元々、人付き合いは苦手だし、この結果は必然と言える。自主的に友達を作ろうと動かなかった自分に対して、後悔はしていない。そんなことをしたって、誰も僕を見やしないのだ。徒労に終わる行動をしたって意味がない。
(つまらない人間だな、僕は)
心中で溜息をついた。全てに受動的で、尚且つ諦観して生きている間は、一般の幸福を味わえるはずがない。そして、それが分かっていて行動に移さないのだから、本当に僕という存在は退屈な人間だと思う。まるで、湿った日陰を好むカタツムリみたいだ。
「おい、デンデン。ちょっと購買に行って、弁当と飲み物買ってこいよ」
机に落ちた影が、文章を読みにくくさせる。本を閉じて顔を上げると、そこには僕を囲むようにして三人の男子生徒が立っていた。制服はだらしなく、耳にピアスをつけた出で立ちは、いかにも〝不良〟という感じだが、その本質は常に群れで行動しないとパシリ一人こき使えないような弱者である。群れて互いに虎の威を借りて、偽りの力を無様に振りかざす偽物だ。
「コラ、無視してんじゃねぇよ」
ガンッ、と音を立てて、机が動く。一人が蹴ったのだ。その音と様子から、賑やかだった教室は静まり返り、幾対もの双眸がこちらに向けられる。ただし世の条理として、誰も彼らに注意をしようとはしない。ただ、見ているだけだ。厄介事に首を突っ込んで、この不良モドキの連中に目をつけられるのが怖いのだろう。
「日本語通じねぇのかよ。早く購買行ってこい。弁当なくなんだろ」
自分で行けば早いものを、なぜ彼らはわざわざ僕なんかにパシリをさせたがるのか。意味が分からない。こうしている時間が無駄だと、どうして気がつかないのだろう。偽物の力を見せびらかしたところで、誰も彼らを称える人間などいないというのに。
「……おい。マジでシカトしてんじゃねぇよ」
言って、正面の生徒が胸倉を掴んだ。体格の小さい僕は、軽々と椅子からの起立を余儀なくされる。乱暴に立たされた衝撃で眼鏡の位置がずれ、視界が若干不明瞭になった。
眉間に皺を寄せて怒り顔を見上げながらも、僕は無表情だ。恐怖よりも諦観が先立って、心が死んだように一切を感じなくなる。今さらなにを告げたって、彼らが大人しく僕を解放するはずがない。無駄な行動は、疲労を生産するだけだ。
思考を持て余していたら、唐突に頭に強い衝撃が起こった。すぐにそれは全身へと伝播し、視界が回転する。派手な音と埃の臭いから、自分が殴り倒されたのだと理解した。
「調子こいてんじゃねぇよ、虫のくせに」
大声で僕を非難しながら、三人の不良モドキが偽りの力を行使する。各々、拳や足を好きなタイミングで繰り出し、倒れた僕を一方的に痛めつける。僕はただ頭部を両腕で守るように身体を丸めて、それが過ぎるのを待った。
一分くらいしただろうか。やっと三人は満足したようで、「行くぞ」と荒い息遣いのまま教室を去っていった。恐らく、購買に向かったのだろう。しかし、僕に構ったせいで時間を大分浪費したので、もう目ぼしい弁当は残ってはいまい。いい気味だ。
幸い、怪我はしていなかった。痛む全身をゆっくりと起こして、自身を見下ろす。汚い上履きで蹴られたせいで、くっきりと足跡が付着していた。それを無言に手で払いながら、転がっていた椅子を持ち上げて元に戻す。それから、床に落ちた眼鏡を掛け直した。
着席して、読書を再開する。それまで静かだった教室は、なにごともなかったかのような僕の行動に、いつもの活気を戻し始めた。僕が泣いたり、痛みに呻いたり、流血沙汰になったりしなかったので、〝異常なし〟と判断されたのだ。目を向ければ読書をしているという日常に外れない動きをする僕は、彼らにとって景色の一部であり、『そうあるべき姿』から逸脱しない限り、彼らの意識が僕に傾くことはない。
見て見ぬふりをする――。
それはつまり、彼らには僕が見えていないのと同義だ。外見に(視界に映る対象として)変化がなければ、疑問の余地なく〝問題なし〟と判断し、己の約束された日常がもたらす幸福な時間へと回帰する。僕という景色が自らの日常に干渉する存在でないのなら、無関心を決め込む方が楽だからだ。彼らにとって、僕とはその程度の存在でしかない。
僕は、透明人間だ。
存在を物理的に認知されながらも、第三者の視界には人として認識されていない。教室の壁に画鋲で留めてあるカレンダーと同程度の価値しか定義されず、担任の教師さえも僕に関わることに躊躇している。誰だって自分の平穏を乱されたくないのだから、不良モドキと繋がりを持つ僕に関わりたくないのも理解出来る。彼らにとって、僕は災厄をもたらす疫病神でしかないのかもしれない。
「太一っ、大丈夫っ?」
教室の喧騒にも負けぬ女声が、僕の鼓膜に響いた。声の終わりと同時に、忙しない足音がまっすぐに僕の元へと近づいてくる。僕は読書を中断せず、顔も上げない。
「またアイツらね? 複数で集るなんて最っ低!」
女子にしては少し低い声が、僕の代わりに怒りを露わにする。言葉として吐き出すだけでは足りず、声の主は僕の正面をイライラと往復し始める。
「どうして誰も助けないのよっ。見て見ぬふりとかあり得ないし」
やがてその怒りは教室にいて始終を目撃していた生徒に飛び火し、中性的な容貌を怒りで歪めた。振り向いて彼らを一瞥する視線は鋭く、現実から日常に逃避する彼らを睨みつける。
そんな彼女の行動に、僕は心底に黒い感情が湧き上がるのを感じた。言い知れぬそれを秘匿するように、小さく溜息をつく。
「……なにしに来たんだよ、マオ」
彼女――飯塚真緒は、僕の幼馴染みだ。父親同士が大学時代の親友で、昔から家族ぐるみの付き合いがある。家も近所で、小さい頃はなにをするにも一緒だった。
「なにって、心配して来たんじゃない」
呆れ顔にも似た表情で、真緒が言う。腰に両手を当てて仁王立ちする様は、まるで頼りない弟を叱るような仕草だ。実際、僕らの関係を血縁的に表記するなら〝姉弟〟というのが適当な気がする。だが、僕は真緒のそういう保護者目線が苦手だった。
「誰も頼んでないし、余計なお世話だ」
だから、いつも彼女に対する言動は冷たい。そして、それを悪いとも思わない。
「はぁ……可愛くないなぁ、相変わらず」
僕の態度に苦笑し、真緒はしゃがんで僕の机に顎を乗せた。そんな彼女の端正な顔立ちを遮るようにして、僕は本を間に置く。特に今は、彼女の顔を見たくなかった。
SF小説の壁の向こうから、真緒の声のみが亡命を果たす。
「怪我は? 殴られたんでしょ?」
「ない」
即答する。
「眼鏡は? 壊れなかった?」
「大丈夫」
再び、即答。
「なんか、いつもにまして冷たいね。怒ってるの?」
「別に」
「あたし、ご飯まだなんだけどさ。一緒に食べようよ」
「もう食べた」
「あら、残念。じゃあ、今日一緒に帰らない?」
「用事あるから無理」
「ありゃりゃ……。んじゃ、週末に太一の家に行っていい? モンハンやろうよ」
「……いいよ」
「おおっし、元気出てきた! じゃあ、日曜日に。またね」
彼女の無邪気な笑顔が、本越しでも分かった。毎度、短答を繰り返して素っ気ない対応をしているのに、どうしてこうも僕に関わるのか。正直、理解出来ない。
心に蠢いていた黒い感情は、真緒の退室と共に静まっていた。その正体も見当がつかない。それが過ぎ去った後に罪悪感にも酷似する感覚が胸に去来するので、なにか良くない感情なのは推測出来るが、知力を駆使してそれを暴くことは本能的にいけない気がした。
曖昧模糊な感情の追求を無理やり中断して、僕は読書に集中することにした。それが先延ばしでしかなく、安易に逃避していることなのは自覚していたが、結局やめることはしなかった。
その日の昼休みは、珍しく本の内容が頭に入らなかった。
◇
放課後。
僕は一人、夕焼けの射す教室に立っている。手には、箒と塵取り。机と椅子はまとめて室内後方に移動させてあり、僕は開けた黒板前から無人の教室を振り返っていた。
不思議な気分が胸に溢れる。さっきまでの喧騒が嘘のようだ。橙色の陽に当てられた備品の全てが無機質の身体に色の温かさを宿し、去った生徒の代わりに息づく。一日で最も穏やかとも言える空気には、運動部の掛け声と帰宅に就く生徒の話し声が曖昧に溶け込み、音の存在を遠くに感じさせる。
孤独に慣れているせいかもしれない。僕は、この静寂が好きだった。どこか静謐とも表現出来る空気は聖母のような包容力を有し、そこにいる一切を無条件に受け入れてくれる。クラスにあぶれる僕でさえも、この静寂は微笑みを浮かべて抱き止めてくれる――そんな安心感に心が落ち着くのだ。
凪が如く体相の教室が、僕に想起を促す。
一日の終わりを告げるチャイムが鳴り、教室が弛緩した空気に包まれた後。掃除当番の女子生徒たちが僕の席へと来た。普段、話し掛けようともしてこない女子の来訪。自ずと用件は理解出来た。
「鈴木くん。暇だよね?」
開口一番、身長の一番大きい女子がそう言った。ハキハキとした口調で、僕の時間を強制的に手隙へと変える。彼女の声音には、申し訳ない感情が皆無だった。
「私たちさ、ちょっと用事があって。掃除出来ないんだよね」
僕にだって用事ぐらいある――。そう思っても、決して言葉として発さない。いや、発せなかった。嫌われることへの恐怖と、少しの諦観。この時の僕の心情は、それだけだ。
「本当にゴメンね。じゃあ、よろしく」
了承を返す前に、彼女は僕に背を向けた。きっと、僕が浮かべた嘘の笑みを答えと受け取ったのだろう。言葉だけの謝罪を残して、女子生徒たちは通学鞄を肩に提げると、さっさと教室を出ていってしまった。
無論のこと、今の状況に同情して協力を申し出る人間なんていない。誰一人として、だ。自分とは無関係の出来事だと思っているに違いなかった。僕はここにいるというのに、彼らには僕の半径三メートル圏内で起きる事象が外国の出来事にでも見えているのか。馬鹿馬鹿しい。
しかし、そう思う一方で怒りは感じない。怒る段階は疾うに過ぎていた。怒るにも体力がいる。スタミナのない僕は、すぐに怒ることを諦めたのだった。今の僕には、諦観しかない。
「……掃除、しないと」
やるせない気分のまま、僕は現実へと覚醒し、手にした箒で地面を掃く。ビニール張りの床に散乱した細かな砂や埃が、灰色の塊となって集合する。それを塵取りへと乱暴に放り込んで、場所を変更。同じ動作を繰り返す。
機械的な労働に従事していたら、ふと脳裏に疑問が過った。
(いつからだっけ……)
僕は、いつから何事にも諦めて接するようになったのだろう。小さい頃――小学生くらいの頃は、真緒と一緒に楽しき日々を謳歌していたはずだ。他人を疑うようなことはせず、誰かと接する喜びに心を躍らせていたはずだ。無邪気に笑い、無防備にも自分を曝け出していたように思う。周囲に漏れず、鈴木太一の日常は幸福に満ちていた。
そんな無垢だった僕が、今のようになってしまったキッカケ――。
それは、中学時代にある。大したドラマもない、単なるイジメが原因だ。どこにでも溢れている社会問題が、僕の価値観を現在へと導いた。
自己優先の時期から思考が外向きへと変わり始める時期、誰もが己に対する他人の評価に敏感だった。努力して自分を磨くなどという発想は、子どもに浮かぶべくもない。能力向上が手段として考慮されないのであれば、残された手段は一つだけだ。
他人の評価を下げる――。
そうすれば、相対的に自分の評価は他人よりも上位に位置することになる。その最も有効的かつ簡単な方法が、イジメである。『臭い』『キモイ』『汚い』『ブサイク』『頭が悪い』、指摘する点はなんでもいい。それがマイナスであるなら、どんなものでもイジメのキッカケとなる。指摘する欠点が見当たらなければ、近しいものを捏造すればいい。それが虚実かどうかなんて、子どもは気にしないのだから。
そうやって、僕もイジメの的となった。僕の場合、『眼鏡』と『運動音痴』が引き金だった。今振り返れば、どうということはない。しかし、当時の僕にはそれが自分の価値を著しく低下させる要因に思えてならなかった。努力し、克服しようと試みたが、クラス規模という集団での蔑みは、僕の努力を認めなかった。
やがて自我は内向きとなり、深く思考することを挫折した。考え、相対することを放棄した僕の心は感受性に疎くなり、何事にも諦観する精神構造が形成された。
イジメとは、精神的に相手を殺すことだ。物理的に身体を痛めつけても、外傷はいずれ完治する。しかし、精神的な損傷は傷薬では治らない。傷口は時を経て化膿し、腐り果て、全体に菌を蔓延させる。菌の増殖は止まらず、最終的に心を死に至らしめるのだ。
心が死ぬと、目に見える風景の一切に興味がなくなり、身に降り掛かる火の粉に無関心になる。たとえ、それが命に拘わるようなことでも、無頓着に諦観する。まさに、今の僕のように。
(くだらない……。なにを考えてるんだろう、僕は)
自分のルーツを辿ったって、今が変化することはないのに。無駄な思考遊びと言えた。
気がつけば、掃除はあらかた終了していた。時計を見上げる――一六時半。一時間弱、掃除をしていたらしい。一人なので、時間的にも妥当な速度だろう。
夕焼けの濃くなった教室を歩き、掃除用具を掃除ロッカーに仕舞う。埃と湿気の臭いが、鼻腔を衝いた。思わず、鼻に皺を寄せる。扉を叩くように閉めながら、きっと明日も同じようにこの臭いを嗅ぐことになるであろうことを悟った。
真緒との帰宅を断った〝用事〟を済ませて、僕は一人――帰途に就いた。
2
目覚まし時計を叩くように黙らせて、起床。重い瞼を指で擦ってから、ベッド脇の机に手を伸ばす。手探りで眼鏡を掴み、寝癖を撫でつけつつ掛ける。
胡乱な頭と対照的に明瞭となった視界が、質素な自室を映し出した。厚地のカーテンにより日光が遮られ、室内はまだ薄暗い。机、クローゼット、テレビ、ゲーム機、カレンダー、無地のカーペット、本棚――室内にはそれしかない。ベージュ色の壁紙にはポスターの類はないし、全身を映す姿鏡もない。ポスターに関しては好きなアイドルがいないし、姿鏡に至ってはあまり外に出歩かない僕には不要なものだ。
一般的な男子高校生の部屋だと思うが、真緒はそんな僕の部屋に来るといつも首を傾げる。その理由を一度問うたことがあったが、「いっやー、普通はエッチな本とか散乱してると思うんだよね」とか間違ったことを言っていた。男子高校生の全てが、盛りのついた犬というわけではないというのに、どうやら女子からすると見分けがつかないらしい。
掛け布団を追いやり、寝間着のスウェットのまま自室を後にする。階段を下りると、リビングにはワイシャツ姿の父親とエプロン姿の母親が、忙しなさそうにしていた。既に、食卓には朝食が並んでいる。バタートースト、スクランブルエッグ、ベーコン、ヨーグルト、牛乳にコーヒー。代わり映えのしないメニューだ。
暗黙の了解で決まっている席に腰を下ろして、トーストに齧りつく。溶けたバターと塗られたイチゴジャムの甘みが、口内に広がる。斜め向かいに座る父親は、湯気の昇るコーヒーを啜りながら、広げた新聞に目を落としている。一見寛いでいるようにも見えるが、口へと運ばれるコーヒーのインターバルは秒刻みだ。キッチンで動き回る母親は、夕飯の残りと冷凍食品をおかずにした弁当を作っていた。僕は購買で昼食を買うので、父親のものだろう。母親が朝食を摂るのは、もう少し後になりそうだ。
会話もなく、僕はトーストとスクランブルエッグを胃に落とし、ヨーグルトを掻っ込む。甘さだけが目立つ乳製品の味は好きではないのだが、健康に良いという理由で毎朝食べさせられている。正直、うんざりだ。せめて、種類を変えてほしい。
新聞を畳んでトイレへと入る父親の傍らを通り過ぎ、洗面所へ。緑色の歯ブラシを水にぬらしてから歯磨き粉をつける。毒々しい赤・青・緑の三色で色づけされたカラフルなそれは、到底口に入れるものには見えないが、いざ歯磨きを始めると意外に爽快感が味わえる。
五分経って歯磨きを終えた僕と入れ違いで、父親がトイレから出る。腹を下すのだったら、コーヒーなんて飲まなければいいのにと思う。馬鹿みたいだ。
階段を上って自室に。閉じたままの遮光カーテンを窓の両脇に移動させると、眩しい朝日が視界を白く染めた。思わず細めた両目に、晴れ渡った青空と電線に留まった数羽の雀が映る。チュンチュン、という泣き声が、忙しい朝の住宅街に響いていた。
寝間着をベッドに脱ぎ捨て、制服に着替える。ネクタイを締めながら、僕は自分のテンションが下がるのを自覚していた。装いが完成へと近づくに連れて、それは低下していく。学校に行くのが楽しみでないのだから、当然の反応だ。
「……はぁ」
制服を着終えると、溜息が出た。きっと、やりたくない職業に就いてしまった新人サラリーマンはこういった気分なのだろう。なんとなくだが、僕は死ぬまでそういう朝を迎えるような気がする。楽しむ努力を諦めて、一体どんな幸福を味わえようか。分かってはいるけれど、今さら積極的な行動に出ようとは思えなかった。
(どうでもいい……)
それが、本心だ。
今日、僕が死のうが構わない。それが鈴木太一の運命だったと納得できる。両親は哀しむだろうが、同年代の人間は哀しまないのは明白だ。掲示板の暦が新しい月に変わった程度の引っ掛かりしか覚えないだろう。
しかし、僕はそんな彼らを恨めしいだとか薄情だとかは思わない。僕は、僕の境遇を誰かのせいにするつもりはないし、被害者面をするつもりもない。ただ嘆いて周囲のせいにするのは、子どものやることだ。それぐらいの常識は弁えている。
全ては、自分という存在に無頓着な自分が悪いのだ。
「学校……いかないと」
時計を見れば、そろそろ家を出ないと電車に間に合わない時刻となっていた。緩慢な動きで支度を済ませて、僕はローファーを蹴りつけるようにして履いた。
心の憂鬱は、今日も一日晴れそうになかった。
◆
ケータイのディスプレイを見やる。もう何度目か分からない。変化なし。折り畳みのフレームをパカパカと開け閉めして、心に積もったモヤモヤを発散する。
(返信遅いなー)
太一からのメールが来ない。いつものように一緒に通学しようと思ったのだが、寝坊してしまった。遅刻はせずに済んだものの、時間はギリギリ。隣のクラスにいる太一と喋る暇もなく、ホームルームが始まってしまったのだった。だからメールを送ったのだけれど、未だ返信は来ていない。
(先生の話、タイクツー)
頬杖をついて、担任に見つからぬよう注意しながらケータイを開く。表示された画面には、メール着信の知らせはない。思わず、溜息が出た。
元々、太一は返信が早い方ではない。むしろ、遅い方だ。正午に送ったメールが、夜に返信されることもある。なので、別に心配になるようなことはない。しかし、性格的に焦らされるのは苦手だった。暇な時間を浪費すると、尻の辺りがムズムズしてくるのだ。
再度、ケータイを確認する。変化なし。「むー」と唇を尖らせるも、一人空しいだけだった。ホームルームは終わりそうだが、返信が来ないので心が躍るようなことはない。することもないので、ケータイの画像フォルダを操作する。
砂時計のアイコンが出て数秒後、保存された画像がサムネイル形式で表示された。どれも、カメラで撮影した画像である。その半分は友達とのものだが、もう半分は幼馴染みとのものだった。キーを操作して、その内の幾つかを拡大する。
太一は撮影されるのが嫌いなので、正面を向いて撮った写真は少ない。家族揃ってのパーティーだとか、各種行事――入学式や卒業式などの記念撮影でないと目線さえくれないのだ。また、笑顔の写真も同等に少なく、一緒にゲームして遊んでいる時や笑わせたりした時でないとチャンスがない。ゆえに、太一が笑った写真はかなり貴重と言える。
電源キーを押して、フォルダを閉じる。ディスプレイいっぱいに表示されている待ち受け画像は、数少ない幼馴染みの笑った写真だった。しかも、自分とのツーショット。長らく幼馴染みをしてきたが、仲良く並んでの笑顔の写真はこれ一枚だけである。
年齢が、若干幼い時のものだ。おそらく、中学校の卒業式後に撮ったものだろう。まっすぐ家に帰らず、少し遊んで帰った記憶がある。お互い制服の胸元に『卒業おめでとう』と書かれた造花を留め、リボンのついた黒い筒を手にピースしている。筒の中身は、無論のこと卒業証書だ。
この写真を眺める度に、温かい気持ちになる。家に帰った時のような、安心した気分とも言えよう。自分の居場所に落ち着く安堵感が、不思議と湧き起こるのだ。
小さい頃は、常にそういった感覚に満ちていた。毎日は輝き、泣いたり怒ったりすることもあったけれど、哀しむことはなかった。約束された幸福が、確かに存在していた。
しかし、現在の日常は褪せている。楽しいことは楽しいが、以前ほどの輝きは失われているように感じた。仲の良い友達と喋ったり遊んだりしていても、待ち受け画像のような眩さは味わえなかった。決定的になにかが欠けている。しかし、その正体が掴めない。
(ううん、本当は……)
分かっているし、気がついてもいる。ただ、その正体に絶対的な自信がない。
イジメ――。
幼馴染みに対する、クラスメイトのイジメ。それが、色褪せる日常の原因だと思う。あくまでもそれは推測の域を出ないが、イジメ以外に該当する要素が思い浮かばなかった。
だから、自分は大切な幼馴染みを庇っているのだと思う。あの頃の輝きを取り戻したくて、再び太一に笑ってほしくて――飯塚真緒は彼の味方でい続けているのだ。
しかし、それが原因で幼馴染みはクラスメイトに馬鹿にされてしまっていることも事実だった。鈴木太一の渾名――〝デンデン〟とは、カタツムリの形容である。自分という存在がいなければ、貧弱でなにもできないという意味合いが込められているらしい。馬鹿みたいだと思う。太一は弱くなんかないし、自分がいなくたって色々なことができる。運動は駄目でも、勉強はできるし物事を冷静に判断できる。むしろ、自分なんかよりもずっと凄い能力を持っていると言っていい。太一のことをなにも知らないくせに、ふざけた渾名をつけるものだ。
幼馴染みをイジメるクラスメイトは、〝不良〟をファッションと勘違いしているような馬鹿な連中である。群れないと一端に喧嘩も売れないような惰弱な連中だ。だが、格好だけの彼らでも周囲にはしっかりと〝不良〟として映っているらしく、自主的に太一の味方になろうと行動する生徒は皆無だった。諸先生方でさえ、彼らを遠巻きに見ている。正直、不思議で仕方がない。あんなのの、一体どこが怖いのか。クラスメイトはまだしも、教育者が尻込みしていてはなにも解決しないというのに。呆れて物も言えない。
ゆえに、鈴木太一は孤独だ。ここで自分も周りに倣ったら、彼は本当に独りになってしまう。色々なことに見切りをつけて、諦観して、自らの命を絶ってしまうかもしれない。それが怖くて堪らない。太一がそうならないためにも、幼馴染みたる自分がしっかりとせねばならない。
「……よしっ」
恐らく、今日も不良モドキは太一に絡むだろう。気合いを入れて、頑張らねばなるまい。彼の味方は、飯塚真緒だけなのだから。
◇
昼食時、僕は昨日と同じように床に倒れていた。いや、〝倒されていた〟が適確か。不良モドキに難癖をつけられて、殴られたのだ。昨日と違うのは、まだ僕が昼食中であり、埃臭い床に転がされた後、目の前でメロンパンを踏み潰されたことぐらいか。三口ほどしか齧っていない好物が問答無用に潰れゆく光景は、さすがに心にくるものがある。
「おい、コラ。ふざけてんじゃねぇよ」
胸倉を掴まれ、無理やりに起こされる状態となる。体格で劣る僕は、鼻先数センチの距離でニキビ面の相手を見上げる構図を強いられる。はっきり言って、見たくもない景色だ。自分のだって嫌なのに、第三者のニキビ顔なんか見たって不快感しか湧かない。
生理的反応で顔をしかめた僕の表情が気に食わなかったらしい。
「調子こいてんじゃねぇよ、虫」
両手で胸倉を掴まれたまま、前蹴りを食らう。腕力より強い力で、僕の身体は後方へと押しやられ、受け身も取れず備品に直撃した。無機質な感触と席の位置から、それがロッカーだと分かる。ブリキ製のロッカーは思いの外堅く、制服の上からでも充分に痛かった。
叩きつけられた際に生じた大きな物音が、静かだった教室内をさらに沈黙させる。一切の話し声が消え失せ、全員が慈悲のない眼差しをこちらに向ける。それを肌の感覚で感知しながら、僕は諦観の度合いを強めた。
痛みに呻くことさえ、無駄なことだ。最早、立ち上がることも面倒になってきた。
(早く終わってくれないかな)
それだけを思う。否、それだけしか思えない。僕の心は死んだように揺れ動かず、視界の光景は写真のように平面に感じる。俯瞰する視点は状況を客観的に僕に理解させ、全てに対して無関心且つ無感情になる。そうして僕は限りなく無色透明となり、誰にも〝見えなくなる〟。
――僕は、透明人間だ。
僕を見ている生徒は、正確には僕を見ていない。〝誰かが理不尽な暴行を受けている〟という状況を視界に入れているだけだ。彼らの視線は不良モドキと僕の間を行き来し、定まらない。彼らは傍観者に徹し、事の成り行きを見守るだけだ。
見ることは、視認することである。視線の焦点を対象に注ぎ、それがどんな状態にあるのかを認識し、どうすべきかを思考し、自分なりの見解を出す。その過程が滞りなく完了してこそ、初めて〝見る〟ことが成立する。
しかし、今の状況をただ黙認する彼らには、その過程のいずれかが欠けていた。僕や不良モドキに焦点を合わせない、状態を認識しない、思考しない――過程が少しでも崩れれば、結論たる自分の見解は見えてこない。顔はこちらに向けていても、彼らはこの状況から目を逸らしている。つまり、〝見えていない〟のと同義だ。
くだらないと思う。なにもかもが、くだらない。僕なんかに無駄な行動力を発揮する不良モドキも、平穏な日常に保守的になるクラスメイトも、イジメに対して明確な抵抗を示さずにいる自分自身も。全てが、くだらない。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。平穏な日常? 約束された幸福? 今この瞬間のどこに、人間らしい幸福があるというのか。未成年で高校生だとしても、人が多く集う学校は社会だ。社会は人と人の繋がりによって形成されるものである。人の繋がり失くして社会はあり得ないし、人と繋がっているからこそ幸福は生じる。
しかし、現状はどうだ。この教室のどこに〝繋がり〟がある? クラスメイトは不良モドキに絡まれている僕との〝繋がり〟を断絶し、関係を否定しているではないか。つまり、彼らは自分の幸福を優先して、僕という〝繋がり〟を社会から隔離したのだ。自分と自分に幸福を与えてくれる〝繋がり〟以外の第三者の幸福を社会の輪から投げ出すことで、自分が享受する幸福を保障したのである。
要するに、僕は僕を切り捨てた誰かの幸福のために犠牲にされたのだ。『鈴木太一ならば自分の〝繋がり〟に必要ない』と彼らに判断されたと換言してもいい。
ゆえに、誰も助けない。今起きている現象は、自分たちの知る社会の外側で生じていることだと認識しているからだ。きっと、僕が助けを求めたとしても、彼らが動くことはないだろう。
だからこそ、僕は諦観するしかなかった。選択肢など、最初から用意されていない。クラスという社会から放り出された時点で、僕の〝繋がり〟は消失し、それに伴い幸福も消えている。
言葉を発するべき口からは、溜息しか出ない。色彩を失った心には、諦めしかない。網膜には輝く景色など映らないし、鼓膜には弾む音すら届かない。鼻腔は華やかな香りとは程遠い臭いを捉え、触覚は自重の質感しか感知しない。
色で表現するなら、無色。
性質で例えるなら、透明。
総合して、無色透明――透明人間。誰の瞳にも映らず、誰の耳にも聞こえず、誰の鼻にも香ることなく、誰の肌にも触れることのない――存在を認知されない人間。それが、僕だ。
心が死にゆく中、僕は三人の不良モドキに蹴られながら『メロンパン以外になにか買ってたっけな』などと暢気に考えていた。
その時だった。
「ちょっとっ!」
教室の扉をガラリと力強く開け放ち、凛とした女声が響いた。声の主は向けられる幾つもの視線を意に介さず、まっすぐと僕の方へ歩み寄ってくる。そして、床に伏す僕と不良モドキの間に割って入るように立ち、まるで僕を擁護するかのように声を張る。
「複数でとか、恥ずかしくないわけ?」
頭部を守るように丸めていた身体を緩めて、見上げる。眼鏡は殴られた衝撃でどこかへいってしまったが、このぼやけた視界でもその人物が誰なのかが分かった。
テノール声、引き締まった体躯、黒髪のショートボブ、自信に満ちた態度――真緒だ。
「あァ? お前には関係ねぇだろうが」
不良モドキが、虚勢の矛先を真緒に変更する。しかし、彼女は怯む様子もなく言い返す。
「あるわよ。あたし、幼馴染みだもん……っていうか、今時不良とか流行らないから。馬鹿じゃないの」
カッコ悪ぅ、と小馬鹿にした言葉を付け足す。その態度と発言に腹が立ったらしく、不良モドキは顔に怒りを滲ませて真緒に詰め寄った。胸倉を掴みそうな勢いだ。
「喧嘩売ってんのか、おい。クソアマ、殺すぞ」
「なに、図星? マジでないわー。ってか、近寄んないでくれる? キモいから」
しっしっ、と蠅を追い払うジェスチャーをする真緒に、いよいよ不良モドキは乱暴に彼女の肩を掴んだ。胸倉を掴まなかったのは、きっと女子の胸元に触れることに躊躇したからだろう。
「うぜぇ、マジでやんぞ」
「なに、殴るの? いいよ、殴ればいいじゃん。太一にしたみたいにさ」
凄む相手に引くこともせず、真緒は双眸に強い意志を宿して睨み返す。少しの沈黙の後、別の不良モドキが彼に声を掛けた。
「おい、行こうぜ。センコーにチクられても面倒だし、昼休み終わっちまうよ」
不良モドキは、仲間の声に「チッ」と舌打ちをして、真緒の肩を突き放すようにして手を離した。そして、彼女を殴れなかった鬱憤を晴らすためか、僕の机を思いっきり蹴っ飛ばす。豪快な音を立てて転がる机に、教室内にいた生徒数人がビクリと身体を震わせた。不良モドキはそれで取り敢えず怒りを収めたようで、ブツブツと文句をこぼしながらも教室を去っていった。
彼ら三人がいなくなったことで、止まっていた教室の時間が動き出す。数人の話し声をきっかけに、教室はすぐに通常の喧騒を取り戻した。
「太一、大丈夫?」
真緒が、転がっていた眼鏡を手渡しながら訊いてくる。それに首肯のみを返して、僕は痛む身体を見下ろした。上履きの足跡を手で払い、乱れた服装を正す。幸い、蹴られた箇所は大事ないようだ。だが、殴られた際に唇を切ったらしく、口内には血の味が広がっている。その傷周りは痣となっているのか、真緒が大袈裟な反応を示した。
「ちょっ、怪我してんじゃん!」
「大丈夫、かすり傷だから」
保健室に行こうとうるさい彼女を一瞥で黙らせて、僕は通学鞄から小説を取り出した。倒れていた机を起こし、元の位置に戻す。着席して読書を始める僕に、真緒はどこか不満げだ。
「怪我してるのに……」
「大丈夫だって言ったろ。もう教室に戻れよ」
本から視線を離さずに、ぶっきらぼうに言う。心に、例の黒い感情が蛇が如く鎌首をもたげ始めていた。破壊衝動に近い感覚に、身体が内側から焦れる。行き場のない塊を持て余して、僕は小説をひたすらに眺める。そうしていないと、自分を制御できる自信がなかった。
しかし、真緒は自分のクラスへ帰らず、机に両手をつくようにして僕の顔を覗き込んでいた。怪我した僕の唇を見ているらしい。ただそれだけなのに、苛立ちが募る。
「うわー、痛そうだね……」
人差し指で触ろうとする彼女の綺麗な手を払う。
「やめろよ」
冷たく言い放つ。どうしてだろう、今日はいつも以上に自分をコントロールできない。黒い感情のままに動いてしまう。そのモヤモヤが、さらに苛立ちを増加させる。
必死に文章を目で追うも、全くといっていいほど内容が頭に入ってこなかった。僕が享受できる唯一の幸福が、その役割を果たしてくれない。心の安らぎを得られないことがストレスとなり、精神を癌細胞のように蝕んでいく。
そんな僕の心情を知ってか知らずか、真緒は不良モドキの話題を振る。
「アイツらってさぁ……」
しばらくは、彼らの愚痴だった。情けないだとか、人として恥ずかしいだとか、格好悪いだとか、ナルシストっぽくてキモいだとか――。適当に相槌を打つだけで済む会話だったが、最後に言われた一言がいやに引っ掛かった。
「弱い者イジメとか、最低よ」
弱い者。
今、真緒はそう言ったか。弱い者――誰のことだ? 分かっている、僕しかいない。確かに、冷静に顧みずともそれは的を射ている表現だ。納得もできる。しかし、なぜか僕は彼女の何気ないその言葉に我慢ができなかった。
「黙れよ!」
自分でも驚くほどの大声。賑やかだった教室が、唐突の怒声に静まり返る。先ほどのように向けられる視線には、奇異の感情が感じられる。
「ふざけるな……ふざけるなよ! お前、僕に同情してるのか。どうせ、可哀そうだとか思ってんだろ! 自分がいないとなにもできないって思ってんだろ!」
(なにを言ってるんだ、僕は……)
自分でも、自分が分からない。僕の口から飛び出す暴言は、僕の本心ではない。心に潜む黒い蛇が、僕を操って幼馴染みを傷つける。
「保護者面してよ、いい気になるな! お前なんか別にいなくたって、僕は――」
言葉の嵐が、そこで不意に止まった。正確には、止められたのだ。
「馬鹿……、太一の馬鹿っ」
平手――真緒の平手。パシンッ、という音を立てて張られた頬が、僕を冷静にさせる。自分が彼女になにを言ったのか、その事の大きさに気づいた時にはもう、真緒は踵を返して走り去っていた。静寂の中、僕は独り取り残される。
――最低だ。
一瞬だったが、間違いない。いつも気丈な幼馴染みが、泣いていた。僕のために立ち向かってくれた彼女を、僕は感謝もせずに傷つけてしまった。振り向きざまに散った一滴の涙が、瞼に焼きついて離れない。
去来する罪悪感に、僕はただ俯くことしかできなかった。
◇
その日の夜。
暗闇の中、僕はスマートフォンを片手に佇んでいた。視線の先には、真緒の家。真緒の部屋は道路に面した二階にあるので、この位置から窺うことができる。カーテンは既に閉められていて、中の様子は分からない。電気は点いているようだが、彼女の姿はまだ確認できていなかった。
(謝らないと……)
そう思い立って来たものの、家の前まで来て尻込みしてしまった。自分でも情けないと思う。しかし、どういった言葉を以て謝ればいいのかが分からなかったのだ。気心知る相手だからこそ、素直に謝れない――そんなつまらない意地が邪魔をしている。
結局、僕は来た道を戻ることにした。自分の馬鹿さ加減に泣きそうになる。一体、僕はなにをやっているのか。心では謝らねばと分かっているのに、身体は委縮して動かない。初めて見た真緒の涙に、僕はすっかり勇気を奪われていた。顔を合わせれば、また泣かしてしまうかもしれない。嫌われたらどうしようか。いや、そもそも呼び出しにも応じてくれないのではないか。そんな数多の不安が、僕を帰宅へと導いていた。
右手に握ったスマートフォンを、強く握り締める。自分の不甲斐なさを誤魔化すように、強く。いっそのこと、壊すくらいの気持ちで握力を込める。
悪いのは、僕だ。あの後、冷静になってやっと黒い感情の正体が分かった。
――劣等感。
コンプレックスと言い換えてもいい。他人のために必死になれて誰からも好かれる真緒に、僕は劣等感を抱いていたのだ。僕とは違い、みんなから頼られる彼女の人望や評価に、言い知れず醜い感情を感じていた。幸福に満ちた日向に立つ彼女に憧れたのである。真緒にイジメから庇ってもらう度にそのコンプレックスは蓄積され、今日その臨界を迎えた。くだらないプライドを守るために、僕は幼馴染みを泣かせたのだ。
今さら悔いても遅い。しかし、自責の念は止められない。
僕がもっと強ければ、こんなことにはならなかったのではないか。イジメを受けるような性質を持たなければ、真緒を傷つけることはなかった。そもそも、イジメの対象にならなければ、僕も昔のように笑っていられたはずだ。僕がイジメられたばっかりに、僕と真緒の関係はこじれてしまった。
恨んでも仕方ない。現状に対する諦観という答えを出した自分を恨んだところで、問題解決が果たせるわけではない。しかし、望まずにはいられなかった。
――日向に立ちたい。
(そうすれば、僕も真緒も共通した幸福を味わえるのに)
そう思った時である。右手のスマートフォンが、軽やかなメロディを奏でた。音楽と振動のパターンから、それがメールの着信だと分かる。
こんな時間に、メルマガとは考えにくい。不思議に思って受信ボックスを開くと、差出人不明のメールが一通届いていた。
『お困りのあなたに』
題名欄には、そう書かれている。本文をチェックすると、URLが青く表示されているだけで他にはなにも記されていない。
不審にもほどがある。普段ならば、決してそのアドレスを辿るようなことはしない。しかし、なぜか僕はそれをタップしていた。押さなければという義務感に急かされた感じだった。
押した瞬間、ディスプレイに『ダウンロード中』という文字が表記され、スマートフォンがなにかのアプリを自動的にダウンロードし始める。ウイルスかと危惧したが、数秒後、『ダウンロードが完了しました』の文字と共に、画面はホームを映し出した。操作するも、異常は見当たらない。
「なんだ……?」
首を傾げつつ、アプリ一覧の画面を確認すると、そこには見かけないアプリがダウンロードされていた。
――【7 days wonder】
そうタイトルされたアプリを、起動してみる。『読み込み中…』というアイコンが消えた直後、背後から声を掛けられた。
「どうも、こんばんは」
「うわっ」
息を呑んで振り向くと、そこには奇妙な男が胡散臭い笑顔を浮かべて立っていた。
「ああ、いや。驚かせて申し訳ありません」
腰を深く折って謝罪する男に、僕は「はぁ」としか返せなかった。金髪に西欧系の顔立ちだが、流暢な日本語を話している。発音も正確で、日本人と変わらない。そんな違和感に拍車を掛けるのが、男の格好だった。……バーテン服。およそ住宅街に似つかわしくない風体のせいで、どう見てもまともな人間には見えなかった。
「この度は、当アプリをダウンロード頂き有難うございます」
声高く歌うように、男が言う。
「私、特派員のソロモンと申します。お客様の夢を叶えに参上致しました」
大袈裟な身振り手振りで、自分の正体を明かす。だが、僕には彼の正体よりも、その目的の方が気になった。夢を叶えるとは、どういうことだろう。
「言葉の通りです。私が、あなたの夢を叶えます」
「夢……?」
「そうです。あなたの心底に眠る強き願望、それを実現して差し上げましょう。勿論のこと、ロハでとはいきません。これは、正当なビジネスです」
芝居掛かった仕草で告げて、ソロモンは人差し指を立てる。
「あなたに提示する条件は一つ。私が夢を叶える代償として、あなたの人生で最も輝かしい思い出を頂きます」
「それは、つまり……?」
「言葉の通りです、お客様。さあ、どうしますか? 最も幸福な思い出と引き替えに、夢を叶えますか?」
まるで、悪魔の取引きだ。それに、男の素性も分からぬというのに承諾するのは危ないように思える。夢を叶えるという馬鹿馬鹿しい言葉も、到底信じ難い。
思案する僕の沈黙を迷いと受け取ったのか、ソロモンは「それでは、こうしましょう」と手を叩いて譲歩案を述べた。
「お客様に七日間のお試し期間を差し上げます。夢の実現を味わい、答えを決めてください。七日目を過ぎた深夜零時にお客様にお電話を致しますので、その時に応じるか否かをお教えください」
彼の言葉を信じるなら、七日間は無償で夢が実現することになる。金銭的な要求はされていないし、多少興味を引かれていた僕は頷いてそれを了承した。
「それでは、七日間の奇跡をお楽しみください」
笑顔をより深めて、ソロモンは大袈裟なお辞儀をしてから闇へと歩み去った。
3
翌日、僕は目を疑った。
「鈴木くん、おはよー」
教室に入った途端、今まで見向きもしなかった女子が親しげに挨拶をしてきたのである。それだけではない。着席すれば、前の席の男子が振り向き話題を振ってきたかと思えば、今度は授業中に隣の席に座っている生徒が問題の解答を訊いてくる。休み時間には僕の席に人が集まり、他愛ない話に花を咲かせる。
信じられない光景だった。昨日までとは正反対の日常。現実かどうかを確認するために、何度頬をつねったことか。しかし、脳に伝わるその痛覚は紛れもなく本物で、現実だった。
最初は、みんなで僕をからかっているのかと疑ったが、すぐに、これまでにまともなコミュニケーションをしてこなかった相手と自然体で親しくするのは演技でも難しいではないかと重い当たった。彼らの言動の一切を観察しても、そこに偽りの色は窺えない。それに、今さら僕なんかをクラス一丸でからかっても利点などないだろう。
正真正銘、僕は彼らの〝繋がり〟の一部として認識されている。
(これは……昨日の)
ソロモンという男が言っていた〝夢の実現〟というやつなのだろうか。見た目も話の内容も胡散臭いこと極まりなかったが、現実問題、僕は未だ誰にも無視されていない。それどころか、まるで人気者のようにみんなは接している。
『私が、あなたの夢を叶えます』
ソロモンは、訝る僕にそう言った。信用するに値しない、馬鹿げた話。西洋系の顔立ちにバーテン服姿という奇妙な出で立ちをした男の妄言であり、荒唐無稽の絵空事である。譲歩案を了承したのも軽い気持ちが大半だったし、いきなり現れて訳の分からないことを喋る男を追い払う手段としての返答だった。
だが、現実は彼の言う通りに変化した。僕があの時に望んだ願いが、現実として結実している。夢が、叶っている。
――日向に立ちたい。
誰にも相手にされず、誰の目にも映らなかった僕の願い。諦観の内に秘めた思いは、ソロモンによって現実となった。
僕は、透明人間ではなくなったのだ。
久しく感じていなかった充足感が、心に溢れる。僕を見るクラスメイトの瞳にはしっかりと自分の姿が映り込み、僕の声を聞くクラスメイトの表情には色がある。時折、笑い声と共に身体を触られ、クラスメイトは幸福を全身で表現する。釣られて、僕も笑った。
ふと思う。
最後に笑ったのはいつだったか。もう随分と笑っていなかった気がする。真緒との会話で笑むことはあっても、声を上げて笑うことはなかった。笑声に心を弾ませることなど、久しぶりの感覚だ。吊り上げた頬の筋肉が疲労を訴えることからも、自分が今日までどれだけ笑っていなかったのかが分かる。
昼食時になっても、僕の周囲に人だかりが途絶えることはなかった。机を向かい合わせるようにして、男子も女子も集まる。僕を含めて六人ほどではあるが、入学以来独りで昼食を摂っていた身からすれば、それでも充分に大所帯である。
他愛ない会話を交えての昼食が、こんなにも楽しいものだとは知らなかった。過去の昼休みが勿体なく感じる。購買で買ったメロンパンの他に、周りのクラスメイトから貰った弁当のおかずを味わう。単なる冷凍食品であるそれらは、統一化された味以上の美味さに満ちていた。食事とは、誰かと共に摂ることでより一層食材の味を引き出すのかもしれない。クラスメイトが、常に複数で昼食を摂っている理由が理解できる。
そうやって充実した昼休みを送っていると、教室の扉を開けて三人の男子が入ってきた。もう見飽きたニキビ顔、耳のピアス、だらしない格好――不良モドキの連中だ。彼らはいつものように僕の方へと歩いてくる。
その距離が近づくに連れ、僕は言い知れぬ不安感に襲われた。
(今日も、やられるのか)
意味の分からない難癖をつけられて、殴られ、蹴られ、諦観のまま床に転がることになるのか。絶対的優位にあると信じて疑わない不良モドキの笑みに、思わず僕は周囲にいるクラスメイトに視線を巡らせる。彼らは、接近してくる不良モドキを見据え、なにを思っているのだろう。無言でまた僕を切り捨てやしないか。見て見ぬふりを貫き、傍観者に徹するのではないか。さっきまでの時間をなかったことにするのではないか――。
胸中に渦巻くそれらは、恐怖とも呼べる。目の前にある叶えられた夢が、幻想として霧散してしまうのではないかという恐怖。『夢は夢だ』と現実に否定されるのが怖い。
「よぉ、デンデン」
不良モドキの足が、僕の席の前で止まった。見下すように僕を見下ろして、彼らは口角を吊り上げる。今日はなにをしようか――表情が無言にそう告げていた。
「ちょっと行って、パンとか買ってこいよ」
意地の悪い笑みを湛えて、不良モドキが命令する。僕は俯き、彼らと視線を合わせることを頑なに拒む。早く終わってほしい――そう心で願いながら、次第に諦観が精神を呑み込む。
いつもなら、胸倉を掴まれて殴られる。そうやって床に転がった僕を、さらに蹴るなどして痛めつける。彼らの気が済むまで、僕は痛みにひたすら耐え続けねばならない。
だが、今日は違った。
「ハァ? 自分で行けばいいじゃん」
「今時、不良とかないだろ。マジでウケるわ」
「ドラマの見過ぎっしょ。キモいんだけど」
声を上げたのは、僕を囲むようにして座っていたクラスメイトだった。少なくとも見た目と振る舞いだけは不良っぽい彼らに対し、一切物怖じせずにだ。僕の周りにいる声を発した以外のクラスメイトも、軽蔑の眼差しで不良モドキを見上げている。それだけではなかった。今教室内にいる全ての生徒が、不良モドキら三人に対して嘲るような視線を向けていた。時どき、三人を馬鹿にするような発言も聞こえてくる。
今までとは違い、ここにいる全ての生徒が僕の味方だった。見て見ぬふりをする生徒など、どこにもいない。教室内で浮いているのは僕ではなく、不良モドキら三人の方だった。
アウェーの状況に、不良モドキとその取り巻きは気まずそうな顔を浮かべる。
「お、おい……。もう行こうぜ」
一人が仲間を促すように提案すると、呆気なく残る二人はそれに応じた。やや小走り気味に扉へと向かい、振り返ることなく廊下へと姿を消す。
信じられない思いで、胸がいっぱいだった。
孤独に耐えてきた過去が、遠くに感じる。真緒以外の人間に擁護されたことなど、今まで一度たりともなかった。担任の先生に対しても、『どうせ言っても無駄だ』という諦観から助けを求めなかったし、僕を社会の輪から放り出したクラスメイトに助けを請うたこともなかった。
しかし、それら諦観から生じる忍耐の毎日は、見渡す限りどこにも見当たらない。もう、諦めも我慢もする必要がない。ジメジメと鬱屈した日常は片鱗もなく消え失せ、僕の眼前には光で溢れた日常が存在している。
ソロモンという謎の男との取引き――。
それに応じた結果が、この状況なのか。……だとするなら、七日後に控えた決断に良い返事を返すのもやぶさかではない。こんな夢のような生活が保証されるなら、一番輝いていた思い出くらい失ってもいいとさえ思えた。
だが、焦ることもあるまい。期限まで、今日を除いても六日もあるのだ。今はゆっくり現状を満喫し、それから返事を考えても遅くはない。……まあ、半ば答えは固まっているのだが。
僕は、自分が浮かれていることに気がついた。初めて友達と呼べるような相手を得て、嬉しさに弾む心を自制できない。昨日まで日陰に腰を据えていた僕が、夢に望んでまで手に入れたかった日向である。少しくらい浮かれても、罰は当たるまい。
顔を心情のままに緩ませながら、僕はその幸福に全身で浸っていた。
不意に脳裏になにかの映像が過った気がしたが、気にも留めなかった。思考を割くほどのことでないなら、重要なことではないのだろう。
微妙な違和感を頭の片隅に残したまま、楽しい昼は続く。
◆
その日は、朝早くに目が覚めた。目覚まし時計を見れば、時刻はまだ五時半過ぎ。陽が昇ってまだ少ししか経っていない。道理で、肌寒いわけだ。
珍しく早起きした理由は、今日が日曜日だからというだけではない。先日交わした、太一との約束。それが年甲斐もなく、真緒の胸を躍らせていた。たかが遊ぶだけでなにを――と言われそうだが、高校生になってからはお互いに交流する機会が激減しており、こうして家に遊びに行くのは実に小学生以来のことだった。
うーん、と背伸びして全身を弛緩させてから、真緒はカーテンを外側に引っ張った。軽快な音を立てて厚地の遮光カーテンが蛇腹に収納される。露わになった窓の向こう、生まれてから変わることのない平凡な街並みが視界いっぱいに広がる。
「はぁー、いい天気」
鍵を外して窓を開けば、混じり気のない澄んだ朝の香りが風に運ばれてきた。深呼吸するようにその清浄な香りを肺に溜め込んで、昂る心を冷却する。早朝の空気はわずかに冷たく、薄地の寝間着は簡単に鳥肌を生ませた。
両手で双方の上腕を抱き締めるように擦りながら、未だ寝入る街並みを見下ろす。自宅は住宅街の高台にあるので、ちょうど彼女の部屋からは近隣を俯瞰できる。さすがに幼馴染みの家までは見渡せないものの、真緒はこの景色が好きだった。部屋は西向きなので朝日は拝めないが夕暮れは観賞できるし、なにより他の住宅よりも高所にあるおかげで、煩わしい電線や電柱は視界の下部に位置し、その分空が近いように感じるのだ。今日のように晴れ渡る青空だと、それがより一層感じられる。
そうやって数分、慣れ親しんだ街並みと早朝特有の静けさを全身で味わってから、窓を閉めた。鳥のさえずりが、ガラスに遮られて遠く聞こえる。時折、道路を走りゆく車のエンジン音も曖昧で、彼女に眠気を喚起させる。
再び襲い掛かろうとする睡魔を欠伸一つで追い払って、真緒は今日の日程を思案する。
「んー、どうしよっかなぁ……」
本格的に遊ぶのは午後からにして、午前をどう過ごすかが問題だ。せっかく早起きしたのだし、二度寝をして時間を浪費するのは勿体ない気がする。かと言って朝食を作ろうにも、両親は遅くに起き出すので時間的には余裕があり過ぎる。
どうしたものか――と腕組みして数秒、真緒の脳裏に一つの案が浮かんだ。
(あ、仲直りの印にお菓子でも作ろうかな)
我ながら、名案である。
先日の昼休み、太一と口論したせいで互いの間には気まずい空気が流れていた。あんなに彼が声を荒げたのは初めてのことだったし、真緒が涙を流したこともあって、なんだかお互いに接し方を思索している内に週末になってしまったのだった。
元々、彼女はいざこざを長引かせるのが嫌いな性格である。真緒は、今日幼馴染みの家に行ったら素直に謝ろうと考えていた。どちらが悪い悪くないなど、些細なことだ。彼の気も知らず、得意顔でいた自分にも非があると思うし、一方的に感情を爆発させた彼にも非はあると思う。だからこそ、彼女は自分から謝罪をしようと心に決めていた。
気心知れた仲なのだから、謝りさえすれば後はどうにでもなる。幼馴染みとは、そういうものだ。そこに手作り菓子が加われば、仲直りの必至は請け合いである。
そうと決まれば、なにを作るか。真緒の脳が高速で思考を巡らせる。自分が作ることの可能なレシピの中から、幼馴染みが最も好きそうなものを選定していく。
(んー、やっぱりクッキーかなぁ)
確か、彼はチョコなどの甘味が口に残る菓子は嫌いなはずだ。むしろ、甘いものよりも煎餅やスナック菓子などのしょっぱい系を好む。しかし、自宅でそれらは自作できないため、削除法で残るのはクッキーだけだった。
「よっし、甘くないクッキーにしよう」
うん、と頷いて、真緒は張り切った面持ちで部屋を出た。
美味しいものができれば、きっと太一も笑顔になってくれるに違いない。
太一の家の前まで来て、なんだか懐かしさを感じてしまった。つい二、三年前までは見慣れたものだったのに、今は不思議と遠くの故郷に帰ってきたかのような気分だ。生まれも育ちもこの街だから、具体的にその感覚が合致しているかどうかは断言できないが、きっと長い時間を経て帰郷した人の気持ちはこんな感じなのかもしれない。
見上げた視線の先にあるのは、ごく普通の一軒家である。二階建てで小さい庭があり、ブロック塀で隣家と敷地を区切り、シンプルな門戸の右上に『鈴木』と書かれた表札がある。豪奢でも質素でもない、どこにでもあるデザインの家だ。
昔は、よく彼の部屋で遊んでいた。太一が真緒の家に遊びにくることもあったが、シャイな性格のせいか女の子の部屋に入るのが苦手だったらしく、一緒に遊ぶ約束をした際は基本的に彼の家でだった。
真緒は仰いでいた首を左に捻り、物干し竿と縁側のある庭を見やった。芝生の敷かれた地面は瑞々しく、目に優しい緑色を一面に描いていた。幼かった頃はあれほどに広く感じた庭が、高校生になった現在では狭く感じる。しばらく来ていなかったのもあるかもしれない。時間の経過と自身の成長による思い出との差異に、心が寂寥感を帯びた。
そうやって少し懐古の情に浸ってから、表札の下に設けられたチャイムを押し込んだ。直後、現代的な電子音が家内に鳴り響き、「はーい」という女声が玄関越しから聞こえてきた。思い出と変わりない太一の母親の声に、真緒はホっと息を吐く。
ガチャリ、とドアを押し開いて、エプロン姿の幼馴染みの母親が顔を覗かせた。ぺこりとお辞儀をする真緒を見て数秒、彼女は来訪者の正体を記憶から引っ張り出す。
「あっ、真緒ちゃんっ? やだー、おばさんちょっと分かんなかったわ。大きくなったわね」
優しい笑顔を浮かべつつ、門戸を内側から開ける。
「お久しぶりです、おばさん。あたし、そんなに変わりました?」
「大人っぽくなったわよー。昔から可愛かったけど、今はぐっと磨きが掛かって美人っ。若いっていいわねー、ふふふっ。おばさんなんか、お肌皺くちゃのガサガサよ」
おどけた調子で玄関へと誘う太一の母親に従って、真緒は「お邪魔しまーす」と声を発してスニーカーを脱いだ。その間もずっと彼女はお喋りを続けていたが、真緒は律義にその一言一言に相槌を返す。太一の母親が朗らかで明るい性格なのは昔からなので、逆に黙られるよりかは気が楽だった。
家の中は静かで、人の気配が感じられない。日曜の正午だというのに、幼馴染みの家は外の喧騒とは対照的な空気に満ちていた。玄関に革靴がないことから察するに、どうやら太一の父親は休日出勤をしているらしい。
「おばさん、太一は?」
彼の靴もないことに気づいた真緒は、振り返って尋ねた。扉を後ろ手に閉めた太一の母親は、笑顔に申し訳なさを含有させる。
「あぁ……。あの子、朝早くから出掛けてるのよ。なんか、友達とカラオケに行くとか言ってたかしら」
「友達……ですか」
幼馴染みが不在なことよりも、その単語の方が耳に引っ掛かった。
「あの子に用かなとは思ったんだけど、ごめんね。おばさん、久しぶりに真緒ちゃん見たから嬉しくって。……そうだ。この前、旦那が会社の取引き先の人から美味しい和菓子を頂いたの。お茶淹れるから食べてって」
落胆した表情に転じた真緒を見て、太一の母親は彼女の背中を押すようにしてリビングへと誘った。罪滅ぼしということなのだろう。
「え、でも……」
「いいのよ。日持ちしないし、食べられる時に食べましょう」
幼馴染みの母親とは言えど、歳上に気遣いをさせてしまったことに罪悪感を感じる。既知の間柄なのにそうさせてしまうとは、余程がっかりした顔をしていたに違いない。真緒は、胸中で己を叱った。……ただ、反省したのは椅子に座ってからだったが。
和菓子は、水羊羹だった。小豆色の小さな直方体をフォークで小切りし、口に運ぶ。洋菓子に見られる砂糖系の堅い甘味ではなく、和菓子特有の柔らかい甘味が口内に広がる。嚥下した後で太一の母親が淹れてくれた渋いお茶を飲めば、この相性が抜群であることが再認識された。
他愛ない会話を楽しみながら、真緒は頭の隅で幼馴染みについて思考する。
ここ数日、彼の周りには人だかりができるようになっていた。今までの状況から一変した原因は不明だが、それについて深く考えることはしなかった。理由はどうであれ、太一がクラスに馴染めたことに違いはないのだ。わざわざ原因究明するのは、野暮とも言える。
だが、それを嬉しく思う一方で寂しくもあった。高校進学と共に減っていた時間の共有が、さらに減少したからだ。そして、彼が以前のように笑うようになったこともまた、真緒に寂寥感を強いる要因の一つだった。
(やめよう、こんな考え)
真緒は、心の中で首を振った。如何なる理由を以て現在の彼の状況に至ったのかなど、自分には関係のないことだ。失われていた太一の笑顔が戻ったのは事実である。それだけでいいじゃないか。自分は彼に笑ってほしかったのだから、結果は変わらない。
無理やり己を納得させて、真緒は水羊羹を咀嚼する。柔らかな歯応えの和菓子を噛み砕きながら、「でも」「だって」と反論に出ようとする本心を噛み殺す。
家路に就く際、どうしてか美味しいはずの水羊羹の味が思い出せなかった。
◇
腕時計を見下ろす。時刻は午後八時。意外と遅くなってしまった。辺りはすっかり夕闇に覆われ、空は濃厚な紺色に染め上げられている。街灯に照らされた夜道にはどこからか夕食の香りが立ち込め、僕の空腹を刺激して止まない。
右手で胃を慰めるように腹部を撫でながら、僕は先刻までの出来事を思い出した。自然と顔に笑みが浮かぶ。自制していないと、笑声まで上げてしまいそうだった。
今日は、クラスメイトらと一緒にカラオケに出掛けていた。これまでカラオケは真緒としか行ったことがなかったし、それも中学を卒業する前の話だ。他に交流のある同年代は皆無だったし、わざわざ歌を歌うためだけにお金を払う意味が分からなかった。貴重な休日の半日を消費してまで歌を歌うことが理解できなかった。
だが、今日初めてそのことの有意性を知った。カラオケの真髄は、歌を歌うことではない。親しい友人と共通した時間を共有することに意義がある。きっと、歌が好きな人でないと独りでは楽しめないだろう。少なくとも、僕は独りでは楽しめない。
「ただいまー」
玄関扉を開いて、義務的に言葉をリビングへと掛ける。そこへ通ずるドアは閉じられていたが、聞こえていないことはあるまい。
母親の応答を確認せずに、階段を上って自室へ。扉を押し開いて電気を点けると、机の上に置かれた綺麗な包装をされた水色の小袋が目に入った。
「なんだ、コレ」
近づけば、小袋の下に二つ折りにされたルーズリーフが見える。拾い上げると、そこにはオレンジ色のボールペンで『クッキー作ったから食べるように 以上』と大きく書かれていた。この丸っこい字体は、真緒だ。どうやら、僕がいない間に家に来たらしい。
袋の口を結んでいたリボンを解くと、確かに手作りと思われるクッキーがたくさん入っていた。匂いを嗅ぐと、クッキーからは甘い匂いはしなかった。僕が甘味系が苦手なことを覚えてくれていたようだ。
真緒の気遣いに感謝しつつ、一つを摘まみ上げて口へ放り込む。すると、口内に香ばしさとショウガの香りが充満する。美味い。見事なジンジャークッキーだ。
鼻に抜ける嫌味のない仄かな甘味を楽しんでいたら、不思議と真緒の姿が瞼に映った。なんだか、随分と会っていない気がする。実際は一週間も経っていないのだろうが、彼女の作ったジンジャークッキーが体感時間を実質以上に跳ね上げているようだった。
胸中に罪悪感が渦巻く。なぜ良心の呵責を感じるのか、自分でも分からない。彼女に対して悪いことなどしていないというのに。
感情の根源を辿ろうとして、袋に突っ込んでいた指先が空を掴んでいることに気がついた。あれほど大量にあったクッキーが、覗けば残り数個しかない。無意識の内に、相当なペースで食べていたようだ。僕が空腹だからというのもあるだろうが、単純に真緒のクッキーが美味かったことが大きいように思う。
「今度、お礼言わないとな」
残りを一気に口に入れて、僕はふと疑問を覚えた。
――アイツ、どうして僕にクッキーなんて作ったんだろう。
クラスメイトと賑やかな一日を終えた僕は、校門の前で真緒を待っていた。昼休みに彼女からメールがあったのである。『今日一緒に帰らない?』――いつも絵文字やら顔文字やらを多用する真緒にしては珍しく黒一色の文面だった。特に用事もなかったので、こうして彼女が掃除当番を終えるまで待機しているというわけだ。
しばらくすると、昇降口からボーイッシュな容姿の女子が走ってくるのが見えた。女子は一直線に僕の傍まで来ると、「ふぅーっ」と大きく全身で息をついた。
「ごめん、待ったよね」
目の高さで両手を合わせる幼馴染みに、僕は「いや、大丈夫だよ」と返す。暇潰しに弄っていたスマートフォンを制服のポケットに押し込んで、僕らは歩き出した。
「………」
「………」
会話が生じない。常に明るい真緒が、どうしてか今は俯いて口を閉ざしている。気分でも悪いのだろうか。横顔を一瞥しても、顔色に変化はなさそうだった。
沈黙に耐えかねて話題を思索していると、真緒は呟くように声を発した。
「クッキー、どうだった?」
「あ、美味かったよ。やっぱり、真緒は料理とかお菓子作りとか上手いよな。ジンジャークッキーとか、手作りできる女の子少ないんじゃないか」
「そんなことないよ。……ん、美味しかったなら良かった」
にこりともせず、真緒は小さな声音で応答する。一体、どうしたのだろう。不安になって、僕は彼女に理由を尋ねた。
「え? ……あぁ、うん。大したことじゃないんだけど……」
「なんだよ、言えって」
歯切れの良くない彼女を問い質す。しばらくして、真緒はようやく話し始めた。
「太一さ、最近楽しそうだよね……。クラスの友達とかと一緒でさ、よく笑うようになった。あたしと喋ってる時以上にキラキラした目をしてる」
「……そうかな。自覚ないけど」
まさか、ソロモンとの取引きによって得た環境とは言えまい。しかし、そうか――元々日向にいた真緒は、〝夢〟実現の対象範囲外なのか。僕を日陰者たらしめていた側とは正反対にいるわけだから、当然かもしれない。
「怒ってるわけじゃないんだよ? ……うん、っていうかむしろ嬉しいくらい。高校生になってからさ、太一全然笑わなくなったから――」
一旦、言葉を切る。隣で、真緒が言い淀む気配があった。数瞬の間沈黙して、彼女は続ける。
「――でもね。楽しそうな太一を見てると、心臓が痛むんだ。誰かに力いっぱい鷲掴みされるみたいに、締めつけられる。きっと、あたし嫉妬してるんだ……。笑顔にさせられるのが自分じゃないから。メールしても、電話しても、雑談しても、遊んでも、あたしは太一を満足に楽しませてあげられなかったのかなって。あれだけイジメを黙認してた人たちが、あたしと同じことをして太一が笑うのを見て、嫉妬してるの」
心に蓄積した埃を吐き出すように換言して、彼女は自嘲の笑みを僕に向けた。
「……あたし、嫌な女だよね」
その表情は、悲痛そのものだった。心の痛みを必死に押し殺して、彼女は笑っていた。化粧気のない顔をよく観察すれば、目元がやや腫れているようにも見える。人の好い真緒のことだ、他人に対して良くない感情を抱く自分に自己嫌悪して一晩中涙を流したのだろう。
涙こそ不可視だが、今も真緒は哭いていた。
僕はそんな弱々しい幼馴染みを目の当たりにして、昨日の罪悪感と以前に感じた違和感の正体を悟った。
――日向に立ちたい。
それが僕の夢だった。真緒と喧嘩した夜、僕は彼女と同じ立場に立って笑い合えたら――幸福を共有できたらと願った。ソロモンによって結果的に鈴木太一は日向に立てたが、本当の意味で夢は実現していなかったのだ。
真緒を見る。泣き腫らした目をして錆びた笑みを浮かべた幼馴染みが、そこにいる。彼女が心底から楽しそうに笑んでいないのが最たる証拠である。僕が幸福な日常を手にした代わりに、彼女は幸福を失った。
僕が、彼女の笑顔を奪った――。
「あたしさ、太一をイジメから庇ってたのも良心からじゃないんだよ。太一に好かれたいとか、太一に良く思われたいとか、そんな下心があったんだ。笑顔を取り戻せるのは自分しかいないとかって調子に乗ってさ、いい気になってたんだよね」
真緒の独白が僕の鼓膜をすり抜け、それに心が反応した。……違う。真緒はそんなズルイ人間じゃない。たとえ打算的な心情に裏打ちされた行動だとしても、彼女は実際に動いていた。僕にできた新しい友人たちは、夢の実現がなければ今でも見て見ぬふりを決め込んでいたのは想像に難くない。付き合いがあるのは、全てあの奇妙な男との取引きのおかげである。
ズルイのは、僕の方だ――。
現状の打開に努力せず、他人頼みだった僕の方がズルイ人間だ。夢の実現によって得た現在の環境は虚構でしかない。偽りの幸福である。その虚飾に、僕は盲目になっていた。
思い返す。いつだって、僕が辛い時に支えてくれたのは真緒だった。父親でも母親でも先生でもなく、物心ついた頃から一緒の幼馴染みだった。いつも僕と近しい距離にいて、僕が前へ進むのを傍らでサポートしてくれていた。
(僕は最低だ)
それに思い出した。昨日――日曜日、真緒が家に来たのは僕と遊ぶためだった。偽りの友人との交流にかまけて、すっかり忘却していた。あのクッキーは、彼女なりの仲直りの印だったのかもしれない。
「……怒った、よね」
黙っていた僕を見上げてから、真緒は悲しそうに目を伏せた。僕は彼女の言葉に首肯を返す。
「怒ってるよ。……でも、マオにじゃない。僕は――僕は自分が腹立たしくしょうがない」
「え……?」
不思議そうにする幼馴染みに、僕は頭を下げた。
「マオ、ごめんな。最低なのは僕の方だ。……弱い自分を直視しないように、今まで諦観して逃げてたんだ。それだけじゃない。僕は僕を庇ってくれるマオに、コンプレックスを抱いてた。今さら謝って済むことじゃないかもしれないけど――あの時、ひどいこと言ってごめん! 昨日の約束も破ってごめん! 自分を責めさせてごめん! マオから笑顔を奪ってごめん!」
自分が小さくて情けない。あまりの矮小さに、泣けてくる。僕に泣く資格なんてないのは自覚している。でも、気持ちが高ぶって泣かずにいられなかった。見っともなく泣きながら、僕は頭を下げ続けた。
真緒は無言で僕の謝罪が止むのを待ってくれた。鼻を啜る僕の髪を困ったような顔で撫でる。いつもなら子ども扱いするなと言うところだが、とてもそんな台詞を吐く余裕などなかった。
少しの間そうやって僕を慰めてから真緒は、
「――じゃあ、お互い様だね」
と、笑った。
「あたしも太一も、平等に非があった。それで、お互いに〝ごめんなさい〟もした。だから終わり。少しだけ長い喧嘩だったんだって思うことにしよ?」
「喧嘩……とは違うんじゃ」
「いいのっ。これは喧嘩。喧嘩だから、仲直りできたんだよ」
そう言って、真緒はにこりと笑顔の花を咲かせた。その笑顔には、もう痛々しさは含まれていなかった。温かい陽射しの如く明るさのみが満ちていた。
彼女に釣られて、僕も笑った。心の底から、思いっきり。
懐かしい幸福が舞い戻ってくるのを、僕らは笑い合いながら実感していた。
4
契約から七日が過ぎた。自室の時計は、午後十一時五十九分を指している。僕はスマートフォンを片手にベッドに腰掛けていた。秒針が、文字盤を定期的な速度で巡っていく。
そして、秒針が一周した刹那――。
『どうも、七日ぶりでございます。夜分遅くにすいません』
宣言通り、ソロモンから電話が掛かってきた。相変わらずの口調で、取引き内容の効果を問うてくる。
『夢が実現した七日間は如何だったでしょうか。楽しめましたか』
僕は、包み隠さずに全てを彼に話した。夢の実現を体験して自分がなにを思ったのか、その結果として真緒になにをしたのか、そして現在はどうなのか――。ソロモンは丁寧な相槌を打ちながらも、会話を遮ることなく静かに聞いていた。
『なるほど……。そうでしたか』
話を聞き終えて、彼は溜息を落とした。それから、然して落胆した様子もなく確認を取る。
『では、契約には応じないということでしょうか』
「はい。せっかくですけど、遠慮します。僕には必要ないと分かりましたから」
力強く、僕は答えた。契約当初のまま七日を満喫していたら、応じていたことだろう。しかし、自分についてしっかりと自覚した今、契約は僕に不要なものだった。
「僕は、透明人間なんかじゃなかったんです。マオが、ずっと僕を見てくれていたから」
そう、鈴木太一はちゃんと飯塚真緒の瞳に映っていたのだ。たとえそれが独りでも、見えていることに相違ない。そして、これからも僕が透明になることはないと確信している。
『幼馴染みですか。いいですねぇ……。私も欲しいくらいです』
呟いて、ソロモンは『分かりました』と和やかな声音で告げた。
『契約は破棄とさせて頂きます。尚、その際、契約に関する一切の記憶は消失致しますのでご了承ください。……最後に』
「………?」
『再びお会いする機会がないことを、心よりお祈り致します』
◆
ケータイの電源ボタンを押して、通話を終了する。
「契約は叶いませんでしたか。……上々です」
ソロモンは結果と対照的に喜色満面の笑みで、仮契約者だった少年の部屋を電柱の頂上から見下ろしていた。視線の先の部屋は通話終了後すぐに明かりが消えたので、少年は眠りに就いたようだ。電話を切った瞬間に〝夢〟実現の効力は消滅したため、彼が自分のことを思い出すことは今後一切ないだろう。また、対象になった人物の記憶も然りだ。
ただし、夢の実現とは関係のない事象は消失しない。ゆえに、あの少年と幼馴染みの心理的距離感は継続される。彼が話していた幼馴染みとのやり取りの記憶は失われるものの、〝幼馴染みのおかげで自分は透明人間ではない〟という認識自体は残るのである。つまり、〝過程〟が失われ〝結果〟が残るということだ。
〝結果〟さえ残っていれば、〝過程〟を自力で再現することは可能――。
あの少年が二度と幼馴染みを泣かせることはないと、ソロモンは確信していた。
「まぁた失敗したわけ?」
その時、傍らから小馬鹿にするような女声が掛けられた。振り向くと、民家の屋根に一人の少女が腰掛けていた。ソロモンと同じように少女もまた西洋系の顔立ちをしており、ロシアの女性が如く肌が白く美しい。兎の耳をフード部分にあしらった黒いパーカーにフリル満載のスカートを着用し、どこか浮世離れした少女だ。
「おや、キャロット。依頼の方は済んだのですか」
「ふんっ、あんたとは違ってね。人間を騙すなんて楽勝よ」
ゴスロリファッションの少女――キャロットは、被ったフードから覗く金髪を指で弄りつつふんぞり返る。少女の言動は、明らかにソロモンを見下していた。
「おやおや、相も変わらず口が悪いですね、君は。人間は君が言うほど愚かではありませんよ」
苦笑しつつ、ソロモンは芝居掛かった仕草で諭すようにキャロットを振り返った。しかし、少女は彼のそんな態度が気に食わなかったらしく、言葉を遮るようにして胸に抱いていた兎のぬいぐるみを屋根に叩きつけて立ち上がる。
「うっさいっ。全特派員中最低の契約成立率の奴が偉そうに説教垂れてんじゃないわよっ。人間なんてバカばっか。所詮、自分の欲望に支配されるだけの猿じゃない」
声を荒げるキャロットに、ソロモンは首を横に振って彼女の言を否定した。
「そうでしょうか。確かに、人間の心は脆く飽くなき欲望を胸に宿していますが、その欲望を精神力で自制することもできます。欲望を心の奥に押し込めて、感情を優先する――なんて素晴らしく高貴な行いでしょうか。私は、ゆえに人間に失望なんてしていません。契約の不成立は即ち、彼ら契約者が欲望を制した証。だから、私は万年業績最下位で結構です」
「ふんっ、バッカみたいっ。情けなっ」
顔を背けて罵倒する少女を気に留めた風もなく、ソロモンは彼女の驕りを指摘する。
「それに君の言う通り、欲望につき従うことを愚かと定義するのであれば、己の精神飢餓を埋めるために人間を騙して幸福を搾取する我々悪魔は、余程愚かなる存在と言えませんか」
その指摘に、キャロットは論理的な反論ができなかった。歯茎を剥き出しにして「うっさいっ、黙れ。バーカバーカ! あんたなんか大っ嫌い。べーっ、だ」と豪快なあっかんべーを放つだけだった。
言いたいことを言ってスッキリしたソロモンは、再び契約者だった少年の部屋へ視線を落とした。翌日から、少年は笑うようになるだろう。イジメに対する抜本的解決はなんら為されていないが、それでも彼は挫けずに笑顔を取り戻していくに違いない。
と、背後で人の気配が消えた。
「……行ってしまいましたか。やれやれ、君にも人間の素晴らしさを理解してほしかったのですが――まぁ、また今度にするとしましょう」
どうやら、キャロットは別の契約に向かったらしい。夜も遅いというのに、仕事熱心なことだ。悪魔の持つ精神的飢餓は、抑えられぬほど深くはない。人間の空腹から生ずる飢餓とは異なり、例えるなら性欲に近い感覚と言える。つまり、無理して埋めるほど重要なものではないというわけだ。
そんな取るに足りない欲望のために人間を騙す悪魔など、自身で欲望を制することのできる人間に比べれば優れる点などない。強いてあげれば、寿命がないことくらいだろう。
「さて、次はどんなドラマが見られるのでしょうか。楽しみです」
夜風の中、そっと言葉を呟いて。ソロモンは宵闇へと姿を消した。
満天の星空には、雄大な満月が浮かんでいる――。
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