12歳のマリッジ・ブルー
それは、朝から雪の舞い降る、二月の初めのことだった。
その日は日曜日だったが、家には誰もいなかった。父親も、メイドさんも、執事さんも、みんなである。サチコは暖房の効いたリビングの、座るとお尻が埋まってしまいそうなフカフカのソファーに寝っ転がり、頬杖をつきながら、何も映していないテレビ画面の、その真っ暗な光沢をぼんやりと眺めていた。
人の気配がない屋敷の中は、暖房が効いているにもかかわらず、どことなく寒々とした雰囲気があった。以前、急性中耳炎にかかって、朝一番に病院へ行き、一時間目が始まったくらいのタイミングで登校したことがある。生徒も先生も残らずどこかの教室に収容されていて、誰もいない廊下には、怖いくらいの静けさが漂っていた。ひょっとしたらこの学校にいるのは私一人なんじゃないだろうか。本当は今日、学校はお休みで、自分だけ勘違いして登校してしまったのではないだろうか――そんな恐怖にかられ、急いで自分の教室に行き、あせってドアを開けたものだ。もちろんその中にはクラスメートたちと先生の見知った顔が揃っており、サチコは恐怖心から解放されて、ほっと表情を崩したのを覚えている。
広いリビングに一人でいるのは、そのときの感覚に似ていた。正体不明の、何かを失ってしまいそうな恐怖心。寒々とした寂しさだ。
サチコは寝返りを打って仰向けになった。天井からぶら下がるシャンデリアが、まるで剣山のような切っ先を自分に向けている。そこから自分のつま先まで視線を傾けると、その先には大きな窓があって、窓の向こうには白くて大きな雪の粒が、風に流されながら斜め下方向に降り落ちていく様子が見て取れた。
「なんで、私、なんだろ」
つま先のほうを見つめながら、サチコは声に出して呟いてみた。だがつま先は返事をしなかったし、その向こうにある雪景色も、なにも応えてくれなかった。
サチコの心は、ぽっかりと穴が空いたように空白の部分が出来ていた。なんとなく、急いでそれを埋めなきゃならない気がしていたが、その方法がサチコには分からなかった。
わからないまま、今日、サチコのために用意されていた催し物を無断で抜け出して、コッソリと家に帰り、こうして一人、広いリビングの中で寝っ転がっている。だがサチコのボイコットは問題の解決に何も貢献しなかったらしく、心の空白が埋まる気配は全くなかった。今頃むこうは大混乱になっているだろう。世話になったメイドさんや、勉強を教えてくれた執事さんの困った顔が頭に浮かび、ちくりと胸が痛んだ。
サチコは近々、この屋敷を出て行かねばならない運命にあった。
この家を出て、いままで家族ではなかった人と一緒に暮らすのだ。
今日の、サチコのために計画されていたイベントは、その下準備というか、先方との顔合わせといったようなものである。メイドさんたちが用意してくれたシックな黒いワンピースを着て、相手の家族と面会するのだ。黒いワンピースは、シルクのように艶のあるサチコの黒髪に合わせて、メイドさんが用意してくれたものだった。黒髪に黒服で、まっくろくろじゃない。と、以前見たアニメを真似て文句を言ったものだが、「それがエレガントなんですよ、お嬢様」と、メイドさんは静かにほほえんだだけだった。
今朝着せられたそのワンピースは、いまも身につけたままである。このままソファーに寝っ転がったらシワになっちゃうかな、とも思ったが、結局、気にせずに寝っ転がることにした。実際シワになり、スカート部分はしわくちゃになったが、それはそれで構わなかった。服がしわくちゃになり、ついでに縁談話もしわくちゃになってしまえ、と、サチコは思った。
サチコは天井を見上げ、もう一度、深いため息をついた。
明日、サチコは一二歳の誕生日を迎える。
そして来月、サチコは農家へ嫁に出される予定になっていた。
サチコの父親は伊丹健三といって、よく知らないが会社の社長をやっていた。執事さんが言うには社長ではなく、伊丹グループの会長だというのだが、会社経営にはさほど興味がないサチコにとって、その違いはイマイチよく解らなかった。とにかく会社の偉い人で、トップに立つ人だ。会社――というかグループは、色々と世の中の役に立つものを開発していて、その技術でお金儲けをしているらしかった。
グループの経営を司っているのはサチコの父親だったが、お仕事の核となる技術開発の部門を統括しているのは、青柳藤治という人だった。サチコも何度か会ったことがある。バーコード頭を綺麗に撫でつけた、恰幅の良いオジサンで、細身でスラリとしたサチコの父親よりも、よっぽども経営者っぽい顔をしていた。そのオジサンはサチコのことが気に入っているらしく、会うたびに「わっはっは」と豪快な笑い声をあげながら、サチコを抱き上げてくれた。六年生になってさすがに恥ずかしくなり、「レディを抱き上げるなんて失礼です!」とたしなめると、青柳のオジサンは枠の太い黒縁メガネの奥から、子供のように無邪気な瞳をサチコに向けて、「そうかそうか、それは失礼」と楽しそうに謝罪し、またわっはっはと豪快に笑った。
話を聞くと、どうやら伊丹家と青柳家が、二大巨頭として君臨しているというのが、このグループの構図らしかった。青柳のオジサンはグループ会社である「イタミマテリアル社」の社長で、同時にグループの副会長という地位にあるそうだが、名刺には、『イタミマテリアル社代表取締役社長 兼 研究所員』となっていて、いまも時間を作っては自分の研究に没頭しているらしかった。
「技術畑を歩いてきた、開発一筋の技術屋じゃ。生涯、いち研究員。それが儂じゃよ」
そう言うと、青柳のオジサンは、またわっはっはと笑った。
そんな青柳のオジサンには一人息子がいて、名前を総一郎と言った。たしか、今年で二四歳になるはずだ。干支が同じで、いつだったか、おそろいのお守りを買って貰ったことがある。家内安全の字が刻まれた蛇のお守りで、綺麗な鈴がついているやつだった。
青柳のオジサンと区別するために、サチコはその人のことを「イチ兄さん」と呼んでいた。本当はイチオジサンと呼びたかったのだが、執事さんやメイドさんに諫められたので断念した。いわく、イチ兄さんはまだ若いので、オジサン呼ばわりは失礼だということらしい。だが、まだ小学校に通っているサチコにとって、二四歳は充分オジサンだった。
青柳のイチ兄さんは背が高く、痩せていて、おおらかにゆっくりと笑う人だった。あらゆる意味で父親の青柳藤治氏とは違うタイプだったが、その太い黒縁メガネの奥から覗く瞳は、父親と同じ、子供のように無邪気な輝きがあった。二四歳の若さにして「イタミ・サイエンス・アグリ・コーポレイト」の社長で、名刺に代表取締役社長、兼、研究員となっているのも父親と同じだった。
サイエンス・アグリ社はイチ兄さんが三年前に作った会社で、食物のバイオ研究や、人工交配の研究をしているらしい。事業を立ち上げてまだ間もないため、まともに収益も上げていないような小さな会社なのだが、だがそれでもグループ内では密かに期待の目で見られているらしく、その動向は外部の研究機関からも注目されつつあるという話だった。
イタミグループは、東オーストラリアに建設中の宇宙軌道エレベータに多大な出資をしていて、建設に必要な特殊技術に関しても大きく貢献していた。宇宙エレベータとはその名の通り、宇宙まで伸びる巨大なエレベータを建設しようという計画である。これにより物資や人間の大量輸送が可能になり、宇宙開発が容易になるのだという。
軌道エレベータが完成して人や物資の大量輸送が可能になれば、当然のことながら宇宙で生活する人の数も増え、彼らの食糧問題も切実な課題として持ち上がってくるであろう。もちろん当面は、地球から食料を送り届けるしか方法はない。だが人が宇宙に住み着く限り、いつかは必ず地球外のどこかで食物を栽培する日がやってくる。
そのとき、イチ兄さんのバイオアグリ技術は、産業として大きく花開くことになるのだ。月面、もしくは宇宙ステーションで行われる、野菜や穀物の栽培。つまりイチ兄さんの研究しているバイオアグリ技術は、来るべき宇宙開発時代に向けた、未来産業の先駆けとして大きく期待されているということらしかった。
そんなわけで、技術者として、また経営者としても、イチ兄さんは大いに注目されている人物らしかった。バイオアグリ研究の将来性を見越し、いまから種を蒔いておこうというその先見性は、経営者としてもたいへん素晴らしいものがある。――と、以前、青柳のオジサンが唸っていたのを覚えている。
しかしサチコには、どうやらエリート街道を歩いているらしいイチ兄さんの姿が、いまいちピンとこないのだった。サチコの記憶にあるイチ兄さんは、薄汚れた白衣を着てたり、農作業用の作業着を着てたりして、冴えない格好をしていることが多かった。髪もぼさぼさで、爪はいつも土で汚れていた。
その姿は研究員でも会社の社長でもなく、冴えない田舎の、リアルな農家のお兄さんそのものといった感じだった。住んでいるところは茨城の広大な田畑のど真ん中で、イチ兄さんは広大な畑を利用して食物を育て、その研究成果を自分で確かめるのが日課だった。
――そしてそんなイチ兄さんが、サチコの婚約相手だった。
イチ兄さんから婚約の話を聞いたのは、いまから一ヶ月ほど前の話である。イチ兄さんは三月の終わりに仕事の関係でオーストラリアに引っ越しする予定になっていて、よかったら一緒に来てくれないか、と、突然誘われたのだ。
「それは、春休みを利用して遊びに来いってこと?」
サチコがそう尋ねると、イチ兄さんはそれを明確に否定し、一緒に来て、オーストラリアの新居で一緒に暮らそう、と改めて言い直した。しかも、おもむろにポケットから取り出した小さな小箱には、婚約指輪らしき、銀色のリングが収納されていた。
そんなテレビドラマに出てくるような大人の決断を要求されるとは思ってもいなかったので、サチコはびっくりした。あまりにも突然のことだったので、もちろんサチコは答えを保留にした。イチ兄さんのことは嫌いではない。いや、むしろ好きだといってもよい。だが一二歳の年の差は大きかったし、自分はまだ、結婚だの婚約だのと考える年齢でもないように思えた。
しかし、サチコがもんもんと悩んでいる間に、周囲のほうは慌ただしく事が進んでしまっていた。もともとサチコを気に入っていた青柳のオジサンは諸手を挙げて喜んでいたし、肉親である父親も、「総一郎くんなら娘を嫁に出して不足はない」と得心顔だった。一二歳で婚約という平成の世に似つかわしくないこの状況を、なぜ誰も疑問に思わないのか。サチコは脳天気な二人の親たちに呆れんばかりだった。
許嫁が決められていたなんて話は一度も聞いたことがないから、最初からそんな話はなかったのだろう。つまり、イチ兄さんは、自分の意志でサチコをパートナーに選んだということになる。
でもその理由が、サチコにはわからなかった。ひょっとしたらイチ兄さんは、サチコではなく、伊丹の名前に用があるのではないのか。そんな疑念が沸き起こり、サチコを不安にさせた。イチ兄さんの気持ちがわからなくなり、不安はどんどん大きくなっていった。いつしかサチコはイチ兄さんを避けるようになり、そのせいで、サチコの心には、いつしか穴のような空白地帯ができていたのだった。
ソファーの上で、もぞもぞとうつ伏せになると、サチコはソファーと同じ色のカバーがついた、柔らかいクッションをギュッと抱きしめた。顔を埋めて、ふかふかした感触を受け止めていると、不安定な心が少しは落ち着くような気がする。しばらくそうしていると、微かにドアの開く音がして、誰かがリビングに入ってくる気配が伝わった。
「ここにいたんだ。ずいぶん探したよ」
見ると、青柳のイチ兄さん、その人だった。見慣れないスーツ姿に身を固め、頭もきちんとクシを入れている。急いで来たらしく、車のキーを右手に握ったままだった。
サチコはぷいっと顔を背け、またクッションに顔を埋めた。イチ兄さんが近寄ってきて、ソファーの端っこに座るのが感じられた。
「……やっぱり僕との婚約なんて嫌かい? 無理しなくてもいいんだよ。僕はさっちゃんがちゃんと大人になるまで、ゆっくり待つつもりだから」
「……なんで、私なの?」
サチコはクッションから顔を離すと、ソファーの隅に座ったイチ兄さんの方を振り返って、一番気にしていた疑問をぶつけてみた。政略結婚の道具としてみているのであれば、即座に起きあがり、脛を蹴り上げてやるつもりだった。うつ伏せに寝転がった姿勢のまま振り返ったので、肩まである黒髪が、さらさらと顔の前に流れた。なんとなく睨みつけるような目つきになってしまい、妖怪みたいな顔になってるんじゃなかろうかと心の中で心配した。しかしイチ兄さんを見ると、相変わらず大らかな笑顔でこっちを見つめていた。
「なんでって? 好きだからさ。決まってるだろ」
あっけらかんとした口調で言われたので、サチコも二の句が継げなかった。もしかして、ロリ……と言いかけて、慌てて言葉を呑み込んだ。
「それに、さっちゃんは僕の人生に道筋をつけてくれた。ほら、三年前、僕に言ってくれただろ。好きなことを続けるために、一族の力を利用して会社を興せって。あのアドバイスを受けて、僕はサイエンスアグリ社を作ったんだ。大学で学んだ知識を生かし、好きなバイオ研究や野菜作りを続けることができた。親父や重役たちの鼻もあかせた。いまの僕があるのは、君のおかげと言っていいくらいさ」
そういえば、そんなことを言ったような気がする。その頃のイチ兄さんは大学の研究室に所属していて、バイオの研究に勤しんでいた。しかし父親である青柳のオジサンは、自分の後継者としてイタミマテリアル社を継がせたかったらしく、そこに親子の諍いがあったのだ。
そのときサチコは、やりたいことがあるなら自分で会社を興せばいいと、確かに言った覚えがある。やがて来る宇宙開発時代に役立つかもしれないと言ったのも、思い起こせばサチコ自身だった。
「君には先を見る目があるよ。それに君は僕の人生を決めた大事な人だ。いつか本当のパートナーになって、僕や会社を支えてくれたら、こんなに嬉しいことはないと思う」
イチ兄さんは笑顔を絶やさないままでそう言った。
本人の言葉を聞いて、サチコはなんとなくほっと安心した気持ちになった。道具として、ていよく扱われているんじゃないかという疑念はゆっくり溶けていき、心にあいていた空白が、少しだけ埋まったような気がした。
「私のこと、大事にする?」
上目遣いにそう訪ねると、イチ兄さんは無言のまま力強く頷いた。
「嫌になったら、婚約解消してもいい?」
「もちろんだ」
「この家を出て、イチ兄さんと暮らすの?」
「部屋は用意するし、実は姉夫婦と姪っ子も来る予定なんだ。だから結構賑やかだよ。三月の卒業式には充分余裕があるし、中学校は向こうの国際学校に通えばいい」
どうかな? という顔をされて、サチコはしばらく考え、そして小さく頷いた。
こんな人生もいいかもしれない。一六歳になるまで、あと四年。夫となるにふさわしい人間なのかどうか、観察するには充分な時間だ。少しだけ服装のセンスに疎いところもあるけれど、なんだったらそこは教育してあげてもいい。時間はたっぷりあるのだから。
イチ兄さんが立ち上がり、そっと右手の平を差し出した。サチコはその手を借りて、お尻が埋まりそうになるソファーから飛びおりた。立ち上がると、スカートがしわだらけになっていて、少し恥ずかしかった。
右手は握られたままだったので、左手でスカートの裾を軽く払った。もちろんそんなことでスカートのしわが直るはずもなく、サチコは仕方ないか、とすぐにあきらめた。同時に、イチ兄さんがいつまでも自分の右手を握っていることに気づき、なんだろう、と顔を上げた。イチ兄さんは枠の太い黒縁メガネの奥から、子供のように無邪気な瞳でこっちをジッと見つめていた。
「婚約の印に、唇だけもらってもいいかな」
何を言っているのかよくわからなくて、サチコはキョトンとした顔を向けた。なんだか重要なことを言われた気がして、その言葉を何回か頭の中で繰り返してみた。やがてその意味に気がつくと、急に落ち着かない気分になって、体温が上がるのを感じた。サチコは返事もせず、慌てて顔を伏せた。
「冗談だよ、冗談」
耳まで真っ赤になってるよ。そういって、イチ兄さんはおかしそうに笑っていた。
婚約者の顔が急に憎たらしくなり、サチコはその脛を思いっきり蹴り上げた。
楽しんでもらえれば幸いです。