後編
キリアは、どう話せばいいのか迷った挙句、「馬鹿か」と唸る様に言うしか無かった。ガリーナは悲しそうに目を伏せ、沈黙を守る。
「怪しい奴がいたら通報しろ、って言っただろ? あいつは死刑囚なんだぞ、人を殺してる奴なんだ!」
「シイナさんは死刑囚さんじゃありません! 冥魔術遣いなのにさっきも使わなかった、周囲の人を傷付けるのを恐れたんです。そんな人をあんな乱暴になんて、信じられない」
「術遣いだってのも嘘なんだよ。使わなかったんじゃなくて使えなかった、違うか?」
ガリーナの相貌がますます悲しげに歪むのを、キリアは苛立ちと共に眺めた。
誕生日だからどうのと言っていたから構ってやろうと家に来たのに、そこで目にしたのは彼女の家に入ってゆく見知らぬ顔の青年だった。自分の忠告を無視して死刑囚を家に上げるその場面を目撃し、彼は驚愕と共に焦慮も感じた。そしてすぐに踵を返してマーブルに伝えた――。
ガリーナを守る為にも、告げ口に似た行為を不当とは思わない。
けれどガリーナ自身は感謝するどころか、悲しそうにキリアを見る。
それが何故か無性に腹が立った。
「おれ、お前のそういうところ、嫌いだ。お人よしにも程がある」
「キリア……」
「大体、冥魔術遣いは嫌いじゃなかったのかよ。おれより初対面の奴の方が信じられるんなら、もう好きにしろ。勝手に信じて殺されちまえよ!」
吐き捨てるようにそう言い残すと、返事も待たずに踵を返して駆け出す。背後でガリーナの何かを叫ぶ声が聞こえたが、無視をした。
森へと続く小道を真っ直ぐに駆け、腹の中で擡げる熱い怒りに任せて当て所なく足を動かす。
まず最初にあるのが怒り。そして次に情けなさ。
殺されていたかもしれないのに恐れるどころか彼を捕まえた村人を非難するガリーナに、そして彼女に信用されなかった自分自身に。
物心ついた時からずっと一緒に過ごしてきた姉のような存在に、どうして自分よりもあんな胡散臭い犯罪者を選択されたのだろう。自分は死刑囚よりも彼女の中で劣る存在なのだろうか。
そう考えると悔しくて仕方が無かった。気が付くと、小さな泉の前までやって来ていた。
空を見上げると、昼下がりを過ぎた頃の深く高い秋空が木々の隙間から顔を覗かせている。木漏れ日の冷たさに小さく身を震わせてから、この泉がガリーナが毎朝飲み水を汲みにくる所ではなかっただろうかと思い出した。井戸や川で事足りるだろうに、彼女はこの水が美味しいんだと言って頑なに聞かない。
確かに美味しかった。渡しそびれたものの存在をズボンのポケットに感じて、自嘲気味に笑う。
ここで暫く頭を冷やして、一晩眠れば彼女を許せるだろうか。
そう思いながら木々の合間を縫って泉に近づき――思わず足を竦ませた。
泉の対岸にある巨大な切り株の上に、人が座っている。
その男はぼろぼろの薄汚れた灰色の服を着、白髪混じりの黒髭で覆われた相貌で手元を見つめている。そして手の中には、刃の大きな刀が納まっていた。
(う――嘘だろ)
キリアは思わずごくりと喉を鳴らした。
男は髭と髪で覆われた双眸でじっと赤く錆びた曲刀を舐めるように凝視している。その節くれだった大きな手の甲に、囚人の証である二重線の刺青を見た時、キリアはやっとガリーナとあの青年以外の全ての人間が過っていた事に気付いた。
この男こそ、間違いなく、王都から逃亡してきた死刑囚だ。
逃げる際に数人の兵に怪我を負わせたと聞いた、その武器も携えている。
こんな危険な人間が、今目の前で自由を満喫していることに、キリアは恐怖を感じた。
(いや、これだけじゃ済まない。こいつはきっと腹も減ってるし金も無い、村の近所まで来たってことは近いうちに必ず何かする。何か――血生臭い事を)
早く村の連中を呼ばなければ。
身体とは裏腹に妙に冷静で冴えた頭でそう結論付けると、軋む筋肉を動かしてそっと木の陰に隠れようとした。
その刹那、俯いていた男の濁った灰色の瞳がキリアに穿たれた。
稲妻に打たれたように立ち竦む。
泉を挟み、切り株に座った男と木の陰に佇むキリアは、痛いほどの沈黙の中で視線を絡ませた。男は動かない。石像の様に微動だにせず、同じく蛇に睨まれた蛙のようになっているキリアを凝視する。
動けなかった。
今すぐ踵を返して逃げたかった。
けれど、こちらがそういう素振りを見せたが最後、男が刀を振り上げて襲い掛かってくる事は容易に想像がついた。
粘ついた嫌な汗が背を伝い、乾いた喉を引き攣らせ、喘ぐように息をする。今、キリアの目に映る男は死刑囚でも人間でもなく、死という純粋な昏い炎だった。死が、こんなにも可視的な存在だということを、今まで知る術がなかった――。
キリアの肩に手が置かれたのは、その刹那だった。
金縛りから解かれるように身体を震わせて振り返ると、ガリーナがキリアを見下ろしていた。
彼女は男を見ようとしない。目を合わせてはいけない事を、動物的な本能で知っているようだった。
そしてガリーナの口から出た次の言葉に、キリアは世界が引っ繰り返る程の驚愕を覚えた。
「私が足止めしておきますから、村に行って皆に教えてください。キリアは私より足が速いでしょう」
いつもの様な穏やかな口調で、諭すように言う。
彼女の翠色の瞳から目を逸らす事が出来ないまま、キリアは掠れ声で返した。
「ガリ、馬鹿言うな。むちゃくちゃだ」
「行きなさい、二人死ぬよりずっとマシです。早く」
堪えきれずに、叫ぶ。
「お前一人を置いて行ける訳ねえだろうが!」
「お黙りなさい! 子供に何が出来ると言うんですか! 早く!」
予想もしなかった剣幕に少年はびくりと肩を揺らした。
ガリーナが激怒するというのを見るのは、十一年間生きてきて初めてだった。視界の端で男が立ち上がるのを捕らえ、ガリーナが男を見据えキリアを庇うように前に立つのを認めた瞬間、キリアは弾かれたように走り出した。
頭の中は滅茶苦茶で、何も理解することが出来ない。
得意の冥魔術さえ、その編成を行う事は不可能だ。今はただ、世界中のどの動物よりも早く疾走しなければならない。速く、森を抜けて村に戻らなくてはならない。
でなければガリーナが死んでしまう。
無力な自分を守るために殺されてしまう。
道を外れ、草や茂みで足が小さな傷を作っても、キリアは速度を落とさなかった。
混乱した脳裏で警鐘だけが響く。
視界が滲んだ。
――死んでしまう。
堪えきれない声が漏れる。
絶叫する。
対向から駆けて来た誰かが恐ろしい速さで彼の脇をすり抜けて行った事にも、その時は気付かなかった。
泉を迂回する男の足が思ったより速い事に気付き、ガリーナは身構えた。
恐怖も何も無い。ただ、どうすればあの男を転倒させあわよくば泉の中に叩き落す事が出来るかだけを考えていた。そして例え腕を叩き落されても、彼の足にしがみ付いて離れるつもりはなかった。
少しでも時間を稼がなければ、成人男性の足ではキリアの俊足にも追いついてしまいかねない。
小さく息を吸い込んで重心を僅かに下げた時、男が正面に立った。
振り被られた大きな刀に血がこびり付いているのが確認出来た時、世界が色を無くした。
ゆっくりと振り下ろされる刀は確実に自分の左肩を捕らえている。恐らく心臓あたりで刃は止まるだろう。
――ならば、右手はまだ動かせる。
躊躇う事無く男に向かって突進した。
切先が左耳の空気を揺らした。
その時。
「―――――!!」
誰かが何かを叫んだ。
その言葉はガリーナの語彙の範疇を超え、どんな意味があるのかは全く解らかった。そして考える暇も無く――男が視界から消えた。
横薙ぎに吹っ飛ばされたのだ。
ガリーナが衝動で倒れこむように後ろに尻餅を付くと、吹っ飛んだ男を追うように影が飛び出す。視界の隅で、巨大な土塊が大地から角を出しているのが見えた。男は突然現れたこの金属じみた固い土に突き上げられたのだ。
その土塊を呼んだ影は、シイナだった。
脇腹を押さえた男が、よろめきながらも長刀を構えてシイナを迎え打つ。
鈍く濁った刃の欠けた切先は、彼の心をそのまま反映しているように暗く光る。対してシイナは獲物を持っていない。素手のまま、迷うことなく男に向かって駆ける。
――殺される。
「シイナさんッ!」
裏返った声でガリーナが叫んだその瞬間、シイナが右手を体の横に構えた。
男が刃を振りかぶる。
そしてシイナは叫ぶ。血を吐くような、憎しみを込めた声で。
「下衆が――ッ!!」
光が走った。
そして冷たく澄んだ音がした。
根元から折られた長刀は、宙を切って切り株に突き立った。巨大な金剛石にも似たシイナの光の剣は、迷う事無く男の肩に吸い込まれるように刺される。
僅かな血飛沫と共に抜き取られた剣は、一瞬眩く輝いて弾け消えた。
刹那のようなその出来事が、全てだった。
世界が色を取り戻したのは、その瞬間。
崩れ落ちて身動きが取れなくなった男を睥睨したシイナの顔の傷が少し増えていることや、遅れてやって来た恐怖と安堵の為に泣きじゃくったことや、落ち着くまでシイナが肩を抱いていてくれたことは、なんとなく覚えている。
キリアに連れられた男達が血相を変えてやって来た時、ファイが号泣して彼女の頬にキスをしたり、そんなファイとシイナから奪い取るように泣き顔のキリアが謝りながらガリーナに縋りついたりした。
その無謀な行為を叱咤する者は誰も居らず、彼女が無事だった事を只管喜んだ。
そして死刑囚を捕まえ聖女を救ったシイナは、一躍勇者扱いで引き摺られるように料亭に連れ込まれた。
その日は、村の一番長い一日だった。
尻餅の所為で土の付いてしまった服を着替え、橙色のスカートを履いたガリーナは、家から料亭に向かう途中で稲の海を眺めていた。傾いた陽は彼女の服と同じ色に染まり、長い影が大地に焦げ付いている。
まだ現実味が無い。
まるで長い夢を見ていたように、キリアを追って泉に向かってから先の記憶が途切れ途切れなのだ。
助けなければ、とその時は夢中だった。けれど、村人が驚嘆と共に彼女の行為を讃える時、その蛮行に誰よりも震え上がるのは彼女本人なのだ。
もう一度やってください、と言われればいやですと答えるに違いない。振り下ろされる刃に向かって突進するなんて、大の男だって萎縮する。
死刑囚の傷は致命傷には程遠く、今は青年団本部のある村民館に監禁されている。数日の内に領主の使いが引き取りにくる手筈だった。
「落ち着いた?」
不意にかけられた声に振り返り、微笑む。
「ううん、暫くは無理ですねえ。なんであんな事が出来たんでしょう」
シイナは呆れたような笑みを浮かべた。その笑顔は、昼に話した時に見せた様な鋭い意志は霧のように晴れていた。
「馬鹿だよな。お前がお人よしなのは分かったけど、俺が行かなかったらどうなると思った? 無謀は勇気じゃない。残された奴がどれだけ苦しむか、少し考えろ」
「そうですね……でも」
躊躇うように、ガリーナは小首を傾げて続けた。
「あの時私が死んでたら、キリアは苦しんだでしょう。キリアが死んでたら、私が苦しみます。でも、同じ苦しみなら生きている方がずっと可能性も未来もあるでしょう」
「自己犠牲が美しいと思えるなんて、若いからさ。けど嫌いじゃないな。お前のそういうところ」
夕暮れの風が海原を揺らした。夕陽色の蜻蛉が二、三匹、鼻を掠めて森へと消える。
二人は金色の稲穂を眺めたまま、暫く黙っていた。
「宴会はどうしたんですか?」
「まだこれからが山だってさ。厠に行くってやっと放して貰えたんだ、酷い奴らだよ」
言いながら彼は頬に出来た新たな掠り傷を撫でて苦笑する。
縛り上げられて引っ立てられた後、隙を見て冥魔術の刃を作り出し縄を切って逃げたのだが、その際に男達とまた乱闘になりかけたのだ。そして二、三発の拳をすんでのところでかわし、泉に向かったと彼は言う。
どうして死刑囚とガリーナ達が泉にいたことを知っていたのか、と尋ねると、「俺は優秀な冥魔術遣いだから」とはぐらかす。
期待通りの答えが返って来ないので、ガリーナは不貞腐れたように頬を膨らませた。
シイナがそれを見て笑う。
永遠の一瞬を切り取ったようなこの金色の世界も、悪くないものだと思った。何より、シイナの憑き物が落ちたような清々しげな笑顔が、とても爽やかに心に沁み入る。
死刑囚はもう逃げられない。
彼の仇は、終わったのだろう。
「すっきりした顔してます、シイナさん」
金髪の青年はその言葉に小さく頷き、目を細めて遠くを眺めた。
誰に言うでもなく、独り言のように呟く。
「満足だ。十年間眠れなかった。今日からはきっと、夢もみない眠りにつける」
その横顔が、澄んだ大気に余りに違和感無く存在していた。
ガリーナは思わずまじまじと彼の顔を見つめ、口を噤む。
似ている訳、ではない。
だが同じだと思った。
余りに同一の存在だと、金色の太陽に包まれた大地に立ち、今初めて気付いた。
そしてガリーナは、熟考するよりも前に、小さく口にした。
「……キリア?」
ぽつりと響いた声に、青年は表情を変えることは無かった。
静かな目でガリーナを映し、そして微かに口の端を上げる。
たったそれだけの何の変哲も無い動作に、ガリーナは空気の糸が途切れる音を聞いた。それは静かに、ふつりと力を落とし、辛うじて繋がっていた黄金の時間を空に溶かした。
その言葉が終わりを告げたのだ。
禁じられた時間を毀す、禁じられた言葉。
シイナは独り言のように何かを呟く。しかしガリーナには聞こえない。顔を彼に近づけた所で、シイナは満面の笑顔を作ってガリーナの頭を撫でた。首がぐらぐら揺れるほどに強く、ヴェールが落ちて髪もくしゃくしゃに掻き回された。
「あの、あの」
目を白黒させながら、少女はシイナを見つめ続ける。目を逸らすのが何故か嫌だった。
「――幸せになれよ、ガリ。これが俺の誕生日プレゼント」
子供のような無邪気な、そしてどこか淋しげな笑顔を最後に、光が弾けた。ガリーナが小さく呻いて瞼を閉じた次の瞬間には、青年の姿はどこにも無かった。辺りには黄金の海原と鈍い秋の茜空、風の穂を撫でる音だけが響く。
「シイナさん……シイナさん、どこですか? シイナさん!」
無駄な事は知っていた。彼はもう二度と、自分の前に姿を現すことはない。けれど、ガリーナは青年の姿を探して、焦げ付いた長い影を引き摺って草原を行きつ戻りつした。
どれくらいそうしていただろう。
呆然と佇んで海原を眺めていたガリーナの隣に、少年が立っていた。
茜色に照らされた大地を滑るように風に流されたヴェールは、少年の手に収まっている。彼は怪訝な顔をして、ひたすら草原の果てを見つめるガリーナを見上げた。
「……どうしたの? あの兄ちゃんは?」
小さく息を吐き、聖女は首を振った。
「還っちゃいました。もう戻って来ないって」
「ええ? だっておれ、冥魔術を教えて貰うって約束したのに。なんだよ、ずるいなあ。大人連中も金一封出すって言ってたのに」
不満げに口を尖らせるキリアは、彼女の橙色のヴェールを冗談半分で頭にくるくる巻いて肩を竦めてみせた。
ガリーナは稲穂に残される風の足跡から目を逸らさず、言葉に詰まらないように注意しながら返す。
「大丈夫、キリアならすぐにあの人みたいに上手になりますよ。それに、背だってきっと負けないくらい伸びます」
はあ、と少年は間の抜けた声と顔でガリーナにヴェールを突き返した。それを笑顔で受け取りながら、彼女は空いた片手でキリアの頭を撫でる。もう慣れきっているので、キリアはそれを許した。
金色の短髪があっという間にくしゃくしゃになるが、その行為自体が今の彼には嬉しい。
彼女がここに存在していること自体が嬉しいのだが、敢えて口にしない。それは彼なりの男のポリシーというやつだった。
「ごめんな。信じてなかったのはお前じゃなくて、おれの方だったんだ。お前がおれを信じなかったのは正解だったよ」
消沈したような小さな声にも、ガリーナは小さく笑う。キリアの頭から手を離し、髪をヴェールに仕舞いながら言った。
「私は貴方を信じなかったんじゃなくて、貴方を信じたんですよ。キリア」
「……は?」
「いえ、別に。さあ宴会に戻りましょう。タダで飲み食い出来るうちはお腹がはちきれるまで食べるのです!」
俄然元気に声を張り上げたガリーナは、そのままくるりと体を回転させて料亭へと向かう。それを不審げに眺めるキリアは、思い出したように彼女の服を引っ張った。
「あ、そうだ、おいガリ」
つんのめってバランスを崩し、片足でくるりと一回転してキリアに向き直る少女に、ポケットから何かを引っ張り出して拳ごと突き出す。
「これ。やる。安かったから」
怒ったようにそう吐き捨てるキリアの頬が赤く見えたのは、空の所為だけではないだろう。
彼の掌に乗っているそれは小さなネックレスだった。
彼女の瞳と同じ、翡翠色の小さな宝石のとてもシンプルな作りのものだが、玩具同様の値段であるとは思えない。子供にとっては、非常に高価なものに相違なかった。
じっとそれを眺め、やがて手に取ったガリーナの瞳から、一粒の水滴が落ちた。
「なんだよ、泣くなよな。こっちが恥ずかしいだろ」
「これは」
嬉し泣きです、と言おうとしたが言葉にならなかった。
空の橙色は、優しげに彼女達を撫でては藍色に染まってゆく。黄昏が来る前に、ガリーナはキリアの腕を取った。少年はとても嫌がったが、今日ばかりはどうしても放してやる気にはならなかった。
今夜からは安らかな眠りが訪れますようにと、祈るように願う。