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前編

この作品は番外編です。

独立した作品として読めますが、先に本編である『微瞑むように 第1話』『微瞑むように 第2話』を読了される事をお勧めします。

「俺のあいつはもう居ないけど、お前はどうかこの長い道を歩んでくれ。そして必ず――」




   番外編  影よ、金色の晩霞に瞑りを 




 村の聖女ガリーナが泉に向かったのは、朝も早い頃だった。

 小鳥の声麗しく、樹木の遮る緑の射光を斜めに浴びながら歩く森は早朝特有の清浄な空気を孕んでいる。夜半に振った雨もとうに上がり、湿った草が秋の風にかじかむ様に時折揺れた。

 ガリーナは吹けない口笛を吹こうと唇をすぼめながら、水桶片手に振り回しつつ小道を往く。

 村の大人達は農作業や放牧の最中に、軽やかな口笛で楽しそうな音楽を奏でる。しかし若い女が、まして聖女が吹くものではない、とおじいちゃんに怒られた事がある所為ではないだろうが、ガリーナは口笛が苦手だった。吹こうとすればするほどひゅうひゅうと口からただの隙間風が通り過ぎる。

 満足するまで努力を続けた後、聖女はようやく泉に辿り着いた。

 途中で花の咲き乱れている陽だまりにしゃがみこんだりや巨木の洞を覗いたりの寄り道を繰り返したので、目的地に到着する頃には太陽は昨日以来の輝きを完全に取り戻していた。

「うーん、気持ちの良い朝です。背がにょきにょき伸びる気がします」

 鏡のような泉の水面を眺めながら、ガリーナは嬉しそうに笑う。

 別にとくべつ背が低い訳でも成長期である訳でもない。彼女は時折、何も考えずにものを言う。その癖が彼女が村一番の馬鹿と呼ばれる所以の一つであるが、彼女自身は特に気にしていなかった。

 泉のふちにしゃがみ込み、水桶にいっぱいの澄んだ水を汲む。人差し指を差し入れてその冷たさを確認すると、ガリーナは立ち上がって元来た道を帰ろうとした。

 その時、この場に自分以外の誰かがいる事に初めて気が付いた。

 対岸に巨木の切り株がある。その上に、青年が座ってじっとガリーナを見つめていた。

 ガリーナは思わずまじまじと相手の顔を眺めた。しかし、その相貌が脳裏に浮かぶ村の誰とも一致しないことに首を傾げると、改めて青年を見つめ直す。

(外から来た人……でしょうか。こんな田舎に何しに来たんでしょう)

 自慢ではないが、村には何一つ見所が無い。あるとすれば聖女自身だろうが、わざわざ彼女を訪れに来る物好きなど殆ど無いに等しい。

 青年は、どこか険のある目つきでガリーナの視線を受けていた。

 精悍な作りの仏頂面に眉間の皺、どう見ても何か良からぬ事を企んでいるような相貌の怪しい人物である。しかしガリーナは、他人を疑うのは良くない事である、という子供ですら喝破出来るような主義の持ち主だったので、にこやかな笑顔と共に会釈をした。

 すると相手は驚いたように目を見開き、顔を背けて周章したように金色の髪を撫で付けた。

(照れ屋さんでしょうか。じゃあ、あんまり見つめたら悪いですね)

 そう考え、踵を返して泉から離れた。

 青年が再び自分の後姿を凝視し始めた事にも、全く気付く事無く。


 雨上がりの地面には湖のような水溜りがそこかしこに出来る。それは小さな池だったり、大海だったり、様々に姿を変えて青空を映し出した。

 大地にしゃがみ込んでその地図を好き勝手に創造している少年は、後ろに人が立った事にも気付かなかった。西側の堤防を作るのがなかなか難しく、下手をすれば南側に水が一気に流れ込みそうになるので、自分らしくもなくその調整に没頭していたからだ。

「おー、長い川ですねえ。すごいすごい」

「うっわ!」

 唐突に真上から降ってきた声に、少年は飛び上がって後退りした。折角作った地図が壊れて南側が水没したが、そんな事すら歯牙にもかけぬ調子で心臓が高鳴る。赤面してゆくのが自分でも解った。

「勿体無い、いい堤防だったのに。……でも土遊びだなんて、まだまだ可愛いですね。キリアは」

 そう言うとガリーナは水桶片手ににこにこと――本人はにやにやのつもりかもしれないが――笑いながら少年を見下ろした。

 キリアは見られたくなかった場面を一番見られたくない人間に目撃されたことに口を尖らせ、怒ったように上擦った声を出す。

「う、うるせえな。金属性の冥魔術遣いは、土と親しむと強くなれるんだよ。遊びじゃなくて鍛錬だよ、鍛錬」

「冥魔術ですか。使っちゃ駄目だって言ってるのに」

 いくら不平を言っても友人であるこの小さな魔術遣いを止める事は出来ないと知っているのだろう、ガリーナは頬を膨らませてキリアを見つめるに留めた。

 ガリーナは、千年ほど前から人界と冥界の境界を守っていると言われていたり言われていなかったりする伝説の聖女の後継者である。だから、境界を超えて冥界の力を拝借するという冥魔術は、聖女にとっては忌むべきものなのだ。

 とはいえ、聖女自身が眉唾ものの存在であるため、強く禁止を提唱することも出来ない。

 精々小言程度に叱るのが常だった。

「ところで、冥魔術って何の為にあるんですか? 何に使われるんですか?」

 すると、キリアは俄然嬉しそうに目を輝かせて胸を張った。

「戦争じゃねえの、主に」

「わーもっと嫌いになりました」

「馬鹿、違うよ。昔は戦争に使う為に技術を磨いて今現在まで発展したんだ。おれだって戦争なんて嫌いだけど、冥魔術は好きだ。高度な遣い手になると、怪我をあっという間に治したり火事を消したり風車を回したり、生活に密着したお役立ちスタイルを確立できるんだぜ。超かっこいいじゃんか。おれはまだ石飛礫を頭に落としてたんこぶ作らせるだけだから、さしずめガキ大将レベルだな」

 ガリーナは小さく呻いただけだった。

 嬉々として格好良さとは何かを語るキリアに、理解出来ないような視線を送った。

 それにな、と少年はトーンを落として続ける。再びしゃがみ込んで、土の上に線を引いて雨水を誘導した。

「知られている限りで最上級の、因果律ってのを曲げる術もあるって聞く。例えばだ、大きな川を、こうやって無理やりもう一本に枝分かれさせる。そうすると川は二股になって、元は同じはずなのに末端は全く別のものに変わるだろ。これが世の理を操作する、存在自体が禁じられた冥魔術」

「ぐー」

「早いなオイ!」

 ガリーナの鼻ちょうちんを指先で弾き消しつつ、大地に描かれた川も踏みしだく。

「だって興味無いんですもん。取り敢えず、やるなら漬物石レベルくらいにはなってくれないと無駄で無駄でしょうがありません」

 不貞腐れたように目を擦るガリーナに、キリアは溜息で返した。水と土が交じり合った足の下で、ぐじゅぐじゅと気持ちの良くない感触がする。

「ま、伝説だからな。使える奴なんていないだろ。いたとしても世の理を操作したいと思うなんてよっぽどだぜ、諦観と共に迎合して社会の歯車になる事を拒むんだからな」

 歯車大事だぞ子供じゃあるまいし、とぶつぶつ言いながらキリアはぬかるんだ大地に指を突っ込んだ。

 すると、それまで眠そうな顔をしていたガリーナが、水桶を隣に置き直して口火を切った。

「そんな事より、今日が何の日か知ってますか?」

 俄然目を輝かせ、身を乗り出して来る。

「さあ。建村記念日? アンクル=トーマス記念日? それともアレか、羊小屋の暴動悪夢の敗戦日〜月は見ていた〜か」

 ちっがいます、とガリーナは頬を膨らませてキリアの刈り取られた稲穂のような髪をわしゃわしゃと掻き回す。

「私の誕生日です、花も恥らう麗しの十七歳になるんです!」

 鼻も提灯を作る恥ずかしい十七歳ではなかろうか、と頭を乱されながらもキリアは思ったが口にはしない。それが男の嗜みだと考えるからだ。

 半眼で少女を斜めに見、あっそ、とつれなく返して立ち上がる。あっちこっちに跳ねた髪を手櫛で直していると、しゃがみ込んだままの彼女が「なんかください」と上目遣いに見つめてきた。

 翠色の大きな瞳に自分が映っている。

 キリアは、時々ふと彼女が村で一番の美女と名高い靴屋の娘よりもずっと美しいのではと思う時がある。何時も色を変える派手な色彩の服も、彼女に大人しく従いそして華やかに映えている。しかし、聖女は生涯一人身でなくてはならないのに加え、頭の中は紛れも無く村で一番の馬鹿であるから、それが上手い具合に相殺しているのだろう。だから大人達は彼女に関して何ら容姿の評価を与えないのだ。

 与えてはならないのだ。

 聖女は村人であっても、人間ではないのだから。

「普通、五つも年下の子供にねだるかよ」

「今日からは六つです」

 むっつりと返すガリーナに手を振って、キリアはその場を後にした。

 偶に彼女の事をよく考えると、何故か悲しくなる――気がする。人並の人生すら送る事が出来ないと、予め宣言されているのだから。けれど彼女はいつも平気な顔でへらへら笑っている。

「ああ、そうだ、」とキリアは足を止めて振り返った。ガリーナはまだ頬を膨らませたまましゃがみこんで少年を見つめている。

「最近こっち方面に王都からの死刑囚が逃げたって領主が警告してきた。変な奴見たら絶対に近づくなよ。すぐに青年団に通報しろよ。いいな、ガリ」

 ガリーナは目を丸くして、そして大きく頷いた。

「分かりました。気を付けます」


 それから数刻、太陽が高くなってから、自宅の古い寺院で編み物をしていたガリーナは漸く気付いた。

「ああ! あの人、怪しいです!」

 驚いて椅子から飛び上がり、弾みで落とした編み物を慌てて拾って立ち竦む。

 道理でキリアの言葉を聞いてから何か引っかかると思った。朝に泉で会った見知らぬ青年こそ、彼の言う変な奴そのものではないか。

 自分の頭の回転速度の遅さに愕然としつつ、部屋をうろうろと歩き回る。

 彼はまだ泉にいるだろうか。

 少なくとも、村の近辺にいることは確実だ。

「死刑囚さん……でも、話せば何とか戻ってくれるんじゃ……いえ、でも」

 脱走は重罪である。青年団に通報するのが一番良い方法だとは解っているが、血の気の多い若者達が異端者であり犯罪者である人間に手荒な事をしないとは言えない。それに死刑囚ということは、少なくとも誰かを手にかけた事があるというのは確かなのだから。

 ガリーナは延々何十周も部屋を歩き続け、やがて目の回った覚束ない足取りで外に出る事にした。

 一番親しい友人であるキリアに相談するのが一番だと思った。彼はまだ少年で自分よりも幼いけれど、利発な子供だ。きっと一も二も無く通報しろと断言するだろうが、それでもそうやって背を押して貰いたかった。自分自身の通報によって彼を死刑台に上げることになるのだという事実は、彼女には重過ぎる。

 肩を落としながら玄関の扉を開け、そして少女はそのまま動きを止めた。

 暫く凍ったまま前を見据えていたが、やがて静かに再び扉を閉める。

「…………」

 鍵を下ろしてノブを見つめる。

 今目にした光景が何だったか、脳内で処理するのに大分時間がかかった。

 扉を開けると、普段は緑の木々と青空が見える。この寺院は村から少し離れた場所にあるので、森を縫うような小道を真っ直ぐ進む必要があり、その道も扉の正面に見える。

 しかし、今見たのは、青い空でも美しい秋の森でも水に濡れた道でもなく、扉の前で佇む金色の髪の青年だった。

 ガリーナはヴェールを直すと、もう一度困惑したように扉を眺めた。

「ええと………。ど、どうしましょう?」

 その問いに答えてくれるものは誰もいない。その時、ドアが敲かれた。

 うひゃ、と悲鳴を上げて飛び上がると、聖女はテーブルの下に隠れた。足に捕まって扉を凝視するが、相手は規則正しくノックを繰り返すだけで、強く叩いたり蹴り破ろうとしたりなどする気配はない。

「開けてくれないか。水が欲しい」

 微かに扉から漏れた声に、雨水を飲んでください、と返す訳にもいかず、ガリーナは掠れ声で訊いた。

「殺しませんか?」

 すると相手はノックを止めた。大いに逡巡する気配が伝わり、その間隙になんとか混乱を収めた聖女は机から這い出して扉の前に立つ。

「なんで?」

 心底困惑している声音だった。

「いえ。あの――貴方は死刑囚さんですか?」

「違う、そいつを追ってる冥魔術遣いだ」

「ほんとですか?」

「信じない?」

 いえ、と呟いてガリーナはそろそろと鍵を下ろして扉を開けた。

 頭一つ分は上にある青年の顔は、現れた聖女に微かに笑ったようだった。

「ありがとう、お前なら開けてくれると思った。水、貰えるか?」

 青年は椅子に座り、ガリーナの汲んできた飲み水を美味しそうに飲み干す。その様子をじっと見詰めていた聖女の心中は複雑だった。

 彼が死刑囚であるかないかがまだ判断がつかない上に、聖女として異性と二人きりでいるという事が喜ばしいことでは無い。男性に十秒以上触れられると聖女失格である、と子供の頃に散々読まされた「よいこの聖女のためのてびき」に嫌と言うほど強調されていたから、最早彼女のこの状況への畏怖は条件反射に近い。

「人を疑うのは良くないって無理矢理自分に言い聞かせてる顔だな。そりゃ駄目だ、人を見たら泥棒と思え。ついでに男を見たら痴漢と思えってな」

 コップを机に置くと、青年はガリーナの仔細顔に口の端を上げて揶揄した。

 驚いたガリーナは、「痴漢さんなんですか?」と顎を引いて青年を凝視する。普通ならば馬鹿か、そんな訳無いだろう、と呆れたように返されるのだが、彼は小さく慈しむように笑っただけだった。

「痴漢じゃなくてシイナ、この辺りに逃げてきた死刑囚を捕まえに来た。安心しろよ、俺に限っては泥棒でも死刑囚本人でもない。脱走犯がこんな健康的な顔で立派な服を着てる訳ないだろ?」

 目つきの鋭い男性だと思ったが、笑うと随分人懐っこい顔になる。自分より三つ四つ上だろうか。

「分かりました、信じます。冥魔術遣いだっていうのも信じます」

「本当は見せてやりたいんだけどな。人前で気楽にやるもんじゃないし、第一家を壊されても困るだろ」

「……すごく」

 神妙な顔で頷くガリーナを一瞥し、コップの淵を撫でながらシイナは続けた。

「一つ、頼みがある。この村の連中は猜疑心が強くてな、この状況下だと外部の人間なら誰でもとっ捕まえて縛り上げようとしかねない。そうなると困るんだ、あいつを捕まえられなくなる。だから黙っててくれないか」

 俺のこと、と付け足してガリーナの様子を上目遣いに伺う。

 ガリーナはまた困惑した。あらゆる事象が不自然にも思えるこの状態だが、要は彼を信じるか信じないかの問題だ。そして彼女にはシイナが嘘を吐いているとはどうしても思えなかった。

 死刑囚の事を口にする度、僅かに彼の目に憎しみにも似た暗い光が宿る。それはとても哀しい光芒だったけれど、信じざるを得ない色をしている。

「言いません、黙ってます。誰にも言いません、貴方が死刑囚さんを捕まえるまでは」

 するとシイナはもう一度笑った。歳相応の、幼い笑みで。

「そう言ってくれると思った。お人よしの裁縫好きの聖女の噂は本当だと信じてたよ」

 聖女という言葉が初対面の人間から出てきた事に驚愕したが、すぐに納得する。彼女の青い花模様の服は明らかに聖職者のそれに近く、ヴェールも被っているから誰だって一目見てガリーナがこの村の聖女だと言う事は認識できるだろう。

「何ですかそれ。もうちょっとかっこいい噂が良いです、それじゃなんだかもっさりしてます……」

「じゃ何が良い? お人よしの絶世の美女か、お人よしのお色気聖女か?」

「それじゃ単に嘘大袈裟紛らわしいです……」

 シイナが可笑しそうに笑い声を上げると、ガリーナも初めて笑みを漏らした。シイナと同じテーブルにつくと、外の人間に対する好奇心が頭を擡げてくる。

 気が付くと、不信感は完全に姿を消し、シイナの語る話に夢中になっていた。彼は生まれ育った農村を出て高名な冥魔術遣いに弟子入りしたこと、傭兵まがいの仕事をしたこと、冥獣の召喚に成功したこと、不良冥獣の討伐の際に死にかけたことなどを物語のように面白おかしく彼女に話して聞かせた。

 あれほど敬遠していた術の話も、不思議と何の抵抗も無く受け入れられる。

 彼が七つある属性の内の一つ、金の術を使う事も興味深かった。

「私の友達も金を使うんですよ。落ち着いたら一度会ってあげてください」

「ああ、いいよ。ビシビシ鍛えてやる」

 そしてシイナはふと黙り込んだ。

 ガリーナは、弾む会話の中でも、彼の鋭利な刃にも似た瞳の色は何時も緊張を忘れず、彼の放つ空気には余裕というものが存在しない事に気付いていた。焦燥を背負って生きている――そんな直感的なイメージが湧く。

 長い静寂の後、シイナがぽつりと口を開いた。

「十年前、友人が殺されたんだ」

 僅かにトーンの落ちた声音に思わず軽く身構え、ガリーナは彼の言葉に神経の全てを集中させる。

「犯人は逃げた。それが――」

「……その死刑囚さんなんですか」

 彼は黙したまま頷いた。

「そいつ、俺を庇って殺されたんだ。俺はその時何も出来なくて、混乱していて、気が付くとそいつが地面に倒れていた。一日中名前を呼んで、体を揺すって、夜が明けてからやっと解ったんだ。もう二度と、そいつは目を醒まさないんだって」

 シイナの空気を見つめる目に、深く暗い過去を見出して言葉を飲み込む。

 想像が出来ない。想像することすら苦痛だ。

 例えば隣にいるのが当たり前の、空気のような存在の人間が突然殺されてしまったら、自分ならどうするだろうか。喘いで渇望して憎むしか無いのでは、ないだろうか。

 そんな絶望と共に、シイナはこの道を歩んで来たのだ。そして道は続く。

 恐らくその犯人である死刑囚が死んだとしても、シイナ自身が死ぬ時まで、永遠に。

 ――既に訪れた過去に対抗する術など、人間は持ち得ないのだ。過去を殺す事など出来ないのだから。

「最後にかけた言葉は、罵声だったかな。馬鹿だよなあ、せめてもう少しあっただろうに。あいつが死ぬって知っていたなら」

「シイナさん……」

 小さく呼ぶ声に、彼は疲れたような笑顔で応えた。

 その相貌には達観と諦観と、

「悪い夢をみているような気分なんだ。そいつが死んだ時、きっと俺の一部も死んだんだろう」

恐ろしく強固な意志が宿っていた。

 ガリーナには解らなかった。

 逃げた死刑囚を捕らえる以上の、何か強く鋭い意志が彼を動かしている。それが何なのか、シイナが絶望すら凌駕するほどに望むものとは一体何なのか、彼女には理解が出来なかった。

 どんな言葉をかけるべきか分からず、黙り込む。初めてこの異邦者のことを、恐ろしいと思った。

 突然扉が開いたのは、その瞬間だった。

 驚いて椅子から腰を浮かせると、雪崩れ込むように村の大人達が桑や鎌を持って中に押し入って来た。

「な、なんですか!?」

 ガリーナが止める間も無く、男達はシイナを羽交い絞めにして大勢で押さえ込む。彼は抵抗し、悪態を吐いたが、多勢に無勢で敵うはずもなかった。あっという間に縛り上げられ、床の上に押さえつけられる。

「何をするんです、離してください! ひどいです!」

「酷いのはお前だろうが、ガリーナ」

 煙草をふかしながら入ってきた老人が呆れたように言う。派手な色の眼鏡、派手な色彩のシャツにパンツに帽子。見紛うことなく、副村長のマーブルだった。

「怪しい奴を家に上げて、殺されでもしたらどうする? ま、お陰でこうやってあっさり捕まえられたから良いにしてもな。もう少し考えろや、若い身空で」

「そうよ、あんたもし乱暴でもされてたらどうするの! 泣くのはご両親だけじゃないよ!」

 後ろでお玉を振りかざして顔を真っ赤にして怒っているのは、料理人ファイだ。彼女が危害を加えられていなかった事に心底安心したのか、細い一重の目にうっすらと涙すら浮かべている。

 彼らと床に転がされたシイナを代わる代わる眺め、ガリーナは柳眉を下げた。

「でも……シイナさんは、死刑囚じゃないです」

「そんな証拠がどこにある?」

「俺は――違う、離せよ! くそッ!」

 喚き散らすシイナを引き摺り起こし、男達はガリーナの家を出た。シイナのこめかみには乱闘の際に出来た小さな切り傷が痛々しく浮かび上がっている。

「離せっつってんだろこの薄らハゲ! 殺すぞ!」

「本性出しやがったな。大人しくしてろ!」

 農作業で鍛えた筋肉の屈強な男が薄くなった頭のてっぺんまで真っ赤にしてシイナを小突いた。

 否応なく引き摺られながら、彼は必死の形相でガリーナを振り返って叫ぶ。

「おいお前、絶対に家を出るんじゃねえぞ! 絶対だ!」

 戸口まで出て彼らを見送った聖女は、どうすることも出来ずに悲しそうにそこに佇むだけだった。ふと視線を彷徨わせると、ばつの悪そうな顔をして道に立つキリアと目が合った。

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