線引きの内側01 side Len
俺は「あの時」を後悔していた。
もうちょっと俺が注意していれば、君があんなに長く眠る必要なんてなかったのに、って。
眠っている間に、色々な事が進まなくて済んだのにって。
そして今、俺の汚い感情をみる必要もなかったのに。
でも、なぜか君の前では自然と辛いことも言えるんだ。
聞いて欲しいんだ。
頭で考えた結果ではなくて、心が導き出した答えを聞いて欲しくて。
でももうすぐ魔法の時間は終わってしまう。
君を現実へ戻す時間。
でも俺は知っている。
ガラスの靴を拾っていないから、迎えに行けない事を。
彼女の寝息を聞きながら、俺はハンドルを握った。
****
『もしもし?』
久しぶりに聞いた声は多少疲れてはいたけど、あの時とは変わらない働く女性の声がした。
「もしもし、新山果琳さんのお母様でよろしいですか?」
『あなたは?』
電話の向こうの女性は、突然の電話に疑心暗鬼しており、恐る恐る声を出している状態だった。
「蓮見…です」
『はすみ…さん?』
「あの、娘さんの事故の時にお会いした…」
『え? もしかして、…蓮見くん?』
「はい。お久しぶりです」
電話での会話は何というか、自分が悪い事をしているような罪悪感があった。
『え? …今、果琳と一緒にいるってことなの?』
「あ、はい。仕事の帰り道で会った時に彼女倒れちゃったんです」
『倒れた? …え!?』
「実は彼女、昨日から熱があるようで、たまたま俺が通りがかって保護しました。今は大丈夫なんです。ちゃんと起きて朝食も食べてくれましたし、薬も飲ませました」
『熱? あの子、私に何も言ってこなくって。……昨夜、仕事が手間取って果琳には晩御飯をどこかで済ませるように言ってあったの。でも、今朝学校から連絡が来て、娘が登校していないって言われて驚いちゃって……私』
焦っちゃって、と彼女が呟くのを聞くと俺は、窓の外に上った太陽光を眩しく感じながら話を聞いていた。
「彼女から家の場所を尋ねられない状態だったので、余計なお世話かと思ったんですが…その、すみません。こちらの対応が遅くなって、ご心配をおかけしてしまって」
『いや、いいの。あの子のピンチを救ってくれてこっちの方が感謝してるの。お世話かけました』
「こちらは大丈夫です。今日仕事が休みだったので、出来たことです」
それから俺は後ろに座っている果琳をちらっと見ると、薬が効き始めたのか少しうつらうつらと船をこいできた気がする。
「もしよければ、これからお嬢さんをお宅まで連れていきますが、まだご在宅ですか?」
『今日は有給を取ってるから時間は私は全然大丈夫だけど…そこまでお手数おかけしてもよろしいのかしら?』
「こちらは大丈夫です。すみませんが、住所を聞いてもよろしいですか?」
彼女から住所を聞くと俺は果琳から借りた携帯を彼女へと返した。
電話が終わった俺を見上げた果琳は、少し不安そうに見つめて来た。
「今日ってそういえば、平日だったんだな。曜日感覚ないからすっかり忘れてて」
電話越しで話した内容を簡単に説明する感じに俺は彼女の頭に手を置いた。
細くてさらさらする髪質はいつまでも撫でていたい感触だった。
眠気眼の彼女を見た俺はただ、申し訳なさに苦笑を浮かべた。
「平日は学校の日だってことすっかり忘れてた。……ごめんな」
最後の『ごめん』は学校の事を忘れていた「ごめん」でない事を自分で分かっていた。
でも何に対するごめんなのか、この時には全然分かっていなかった。
うとうとし始めた彼女の頭をまだ撫でながら、俺はさっき彼女を抱きしめた感触を思い出していた。
久しぶりに人のぬくもりを感じて、さっきから心臓の脈拍がいつもより少し上がっていると思う。
でも、それは焦りでもなく、不快感でもなく、心地良い高鳴りだった。
彼女に触れている手の指がチリチリと熱い。
彼女を映す瞳は瞬きするのも惜しいくらい。
しかし、タイムリミットは近い。
「これから薬が効き始めて、ゆっくり休めば体調も元に戻るよ」
そう言うと彼女は完全に瞼を閉じて、俺の胸に寄りかかってきた。
俺はそのまま彼女を抱きとめると、自分と違うシャンプーの甘い匂いが鼻孔をくすぐる。
ホントはこんなことをするとセクハラとか言われたりするんだろうな…って半ば思いながらも、背に回した腕をしばらくは解きたくなかった。
無意識に目の前の存在が欲しかった。
でも無理やり手に入れるとかそんな事じゃなくて、ただ大切に想う気持ちだった。
さっきから自分の行動に驚かされっぱなしの俺は、タイムリミットまで腕の中の存在を確認していただけだった。
そしてついていた番組が入れ替わる頃、俺は彼女を横抱きにして自分の車のキーを掴んだ。
寝ている彼女を起こさないように大事に。
穏やかに眠る彼女を見下ろしながら。




