絶望の中の閃光05 side Len
俺は早速家に帰って調律キットを探し始めた。
『箱』といつも呼ぶアップライト・ピアノに近づいて、調律キットを探す。
しかしこの時あるべき場所にあるべき物が無いことに気がついた。
俺は違和感を感じて部屋中をくまなく探す羽目になった。
母さんのものはほとんど処分したつもりだった。
でも、部屋を探せば色々と思い出は蘇ってくる。
母さんが死んで半年。
色々あった半年。
空っぽだった半年。
現実を受け入れられない半年。
俺はずっと開けずにいた1つの引き出しを開けると、どうしてあるのかわからない簡単な調律セットと、見たこともない手帳に、たくさんの送られることが無かったエアメールの封筒が入っていた。
封筒には丁寧に切手が貼ってあって、英語でアドレスと名前が書いてある。
手紙はどれも薄っぺらが、片手で握るのがやっというような厚さの束が2,3個ある。
それぞれを見ると、英語の他にも日本語の住所だったりしている。
しかし、すべて同じ人に宛てた手紙だった。
『永井 悟様』
聞いたこともない名前。
俺は手紙を一通束から抜き取り、そしてそれを握りしめ動きを止めた。
母親が俺に何も告げずに黙って綴り続けていた手紙。
自分にとって見てもいいものなのか、そうではないのか、ものすごい不安に駆られた。
束のうちの一番古そうなものを右手で封を切ると、中からたった一枚の便箋を手に取った。
『拝啓 永井悟様
まず、自分勝手に仕事を辞め、あなたに何も告げずに姿を消した私を
どうか、お許しください。
たった一夜で良いと、懇願した私について下さり感謝しております。
あなたは奥様のもの。それは重々承知でした。
あの時の私は後々よく考えてみればどうかしていたと思います。
でも、やっぱり良く考えてみても私は全く後悔などしていないのです。
一生で一度の長かったあの夜は、やっぱり私の人生の中で一番の輝き
を納めていたのです。
どうか恩を仇で返すような私のことをお忘れください。
そして、どうかこの手紙があなたに届かぬことを』
ずっと、疑問に思っていた。
どうして自分には父親がいないのか?
どうして母親は何も話さないのか?
望まれて生まれてきたわけではないとはずっと思っていた。
どうしてそう思われるのかが疑問だった。
生まれた俺はどうすればいいと、不安だった。
――あなたは奥様のもの――
ひどい母親だと何度も思ったことはあるが、こんなにひどいとは思ってはいなかった。
自分の欲だけを貪る母親を俺は軽蔑した。
ちょっとだけ、昔を思い出して幸せだと思っていた時間が急に憎くなった。
「不倫…? ふざけんなっ」
ぐしゃっと便箋は音を立てて皺くちゃになる。
俺は絶望に跪くことしかできなかった。
****
手紙をすべて開封することはできなかった。
調律キットを引き出しから抜き出して以来、俺はあの引き出しには近寄らなくなった。
母親に対する嫌悪が増すからだ。
俺はピアノを調律して以来、マスターに手伝いという名のバイトをさせてもらって、その店でピアノを弾いている。
ときどき、バーに来るきつい香水を効かせたおばさんがピアノを弾き終わった俺の元に来ては、その「女」の部分を俺に当てつけて誘いをかける。
それに対してオヤジはすごく厳しい目を向けて来たが、生憎俺はそれを嫌悪していた。
母親を重ねてしまうんだ。
それを言うとオヤジは少し悲しい目を俺に向けた。
「どうしても嫌悪の対象でしかないのか?」
尋ねて来た質問に俺は鼻で笑った。
当たり前だった。
「母親はずっと、『あんたなんか望まれて生まれたわけじゃない』って言われてきてたんだぜ? どうしてそれを今更俺に言うんだよ。生みたくなきゃ、堕ろせばよかったんだ」
それに――…
言葉を続けそうになって、俺は一瞬ためらう。
このオヤジに手紙の内容を言ってもいいのかって。