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運命の夜

作者: 高橋まやむ

その夜、男は己の悲運を嘆いた。

すべてを失い、絶望の淵に立った彼の前に現れたのは───

その夜、男は己の悲運を嘆いた。

幼い頃から貧困に窮し、ろくな学業も身につけぬまま日銭稼ぎに奔走し、欲しいものも楽しい事も、我慢に我慢を重ね、やがて身勝手な為政者に戦場へ駆り出され、剣林弾雨の中を必死で生きて戻ったら故郷は焼き払われ、家族は戦火で死に絶え、恋人は金持ちの妾になってこの地を去っており、たった一人のよりどころだった親友も、流行り病で命を落とした。

これ以上、何を失うものがあろうか。

男は聖書を床に叩きつけ、暗闇に向かって怒鳴りつけた。

「こんな人生、もういらねえ!! 結局、何ひとつ得ることはできねえんだ!!」

枯れ果てた涙の代わりにあふれるのは、非情な運命に対する恨み。

そして救ってくれない神に対する呪い。


せめて金があれば。権力があれば。力があれば。

――― いっそ魔力が欲しい。


そう強く激しく願った時、暖炉の中から炎が飛び出した。

驚く男の目前で、炎は周囲を焦がしもせず一箇所へ集まり、やがて人の形を為す。

「お前の望みを叶えてやろう」

冷たい声と共に現れたのは、10代後半の子供のように細く小さな身体に黒衣をまとった、やはり冷たい美貌の―――少年か、それとも少女だろうか?どちらなのか、男には判別しかねた。

しかしこんな現れ方をした以上、人間でないことだけはわかる。

炎のように、しかし漆黒の髪をゆらめかせ、相手は冷たい黄金色の瞳で男を見つめた。

「お前は誰だ?」

「私は悪魔。お前が死後、魂を寄越すなら望みを叶えてやる」

「……どんな望みもか?」

「どんな望みもだ」

この世のすべてに絶望していた男は、今更 己の魂などに執着は無い。

彼はしばらく考えて、こう言った。

「不老不死の体と、金と権力と、どんな病も治せる魔力が欲しい」

男は、一番儲かる職業は医者と考えた。しかし無学で医療知識の無い身。ならば悪魔の力で奇跡の医師になろうと考えたのだ。そうすれば簡単に大金が入るから。

しかし不死身では、死後の魂譲渡という契約が成り立たない。

二人は話し合い、こう提案した。

男が心底からすべてに満足して『時よ止まれ、お前は本当に美しい』と言ったら、その時点で契約終了。

契約は成立し、男はみずからの血で悪魔の差し出した羊皮紙にサインをした。

「おい悪魔、ひとつ聞くが」

「何だ」

悪魔とはいえ相手はずっと年下のような姿をしており、それゆえか男は特に畏怖も無く、平然と問い掛けた。

「お前に魂をやったら、オレはどうなるんだ?」

「2度とこの世に転生できなくなる」

「お前は?オレの魂なんか、何に使う?」

「魔力が向上する。悪魔にとっては最高の馳走だ」

淡々と答える悪魔の、鋭くも美しい不思議な色の瞳を見つめながら男は自虐的な笑みを浮かべる。

「オレはそう簡単には世の中に満足しねえぜ」

「わかっている」

「せいぜい、楽しみに待ってな」

「お前も、せいぜい楽しむが良い」

男を一瞥して、悪魔は姿を消した。


不思議な余韻が男の胸に残る。悪魔との契約に実感が沸かない。

生国の宗教に反する行為である事は明白だが、背徳意識は無かった。

(――― オレを救ってくれるのは、神じゃなくて悪魔かよ)

それでもいいと思った。

この際、今までできなかったこと、やりたかったことを何でもやってやる。

それができるだけの力を、悪魔がくれたのだから。


――― それから20年後。

ある大国に、宮廷付きの奥医師として君臨する男の姿があった。

彼はどんな病もたちどころに治す奇跡の医師として王や貴族に珍重され、裕福な生活を送っている。

そんなある日、男の住む豪奢な館に黒衣の人物が訪れた。

「――― 久しぶりだな」

使用人に咎められる事もなく私室に現れた相手に、男は一目で悪魔と気づく。

「楽しんでいるようだな」

悪魔は20年前と変わらぬ姿と、相変わらず冷たいまなざしで男を見据える。

「ああ、楽しいぜ。なにしろ手をかざすだけで病人は元気になるし、おかげで金は履いて捨てるほど貯まるし、王様までオレにひれ伏すし、豪邸にゃ住めるし、女はよりどりみどりだしな」

「……それは何よりだ」

「金も権力も思うがままさ。夢のような生活ってとこか」

「では、なぜ満足していない?」

間髪入れず追求する悪魔に、男は思わず口をつぐむ。

しかし次の瞬間、皮肉めいた笑いを向けた。

「オレの恋人―――金持ち爺の妾になって故郷を出ていった女、どうなったか知ってるか?」

悪魔は知っていたけれど、答える前に男が言葉を続けた。

「探してみたら、あいつ爺の子供を死産して一緒に死んじまってたんだ。オレがお前と出会う少し前にな」

「…………」

「死人を生き返らせる事はできねえんだろ?」

「契約した魂でなければ不可能だ」

「あいつを忘れられなきゃ、満足できるとは思えねえな」

「女なら他にも大勢いるだろう?」

「いても、オレが惚れてない」

男は知っていた。むらがって来る女たちが愛しているのは、男自身ではなく、男の持っている金なのだと。



――― それから50年後。

豊かな田園風景の広がる地域に、緑に囲まれた屋敷がある。男はそこで隠棲していた。

時折たずねて来る金持ち連中に請われて治療を行う以外、特に何をするでもなく、ガードを兼ねた数匹の犬と共に静かな日々を送っている。

ある日、庭を散策していた男の前に悪魔が現れた。

「退屈そうだな」

「……よう、お前か」

男の容貌は悪魔と同様に変化が無いが、どことなく寂しげな表情をしている。

「この世の春を謳歌しているのではなかったのか?」

「金で買える楽しみには飽きちまったのさ」

男の財産は増える一方で、それにつられて女も絶えず寄って来る。既に国の一つや二つを動かせる権力を手中にしていたが、戦争を起こす気は無いし、政治などという面倒事も男は苦手だった。

「挙句、このような田舎に隠遁か。それでは満足するはずも無いな」

「そうかもな」

「お前は一体、何がしたいのだ?」

「忘れた」

「奇跡の医師になるのではなかったのか」

「でも、『それ』はオレじゃねえ」

男は気づいてしまっていた。人々の感謝の対象は男自身ではなく悪魔に与えられた力なのだと。



――― それから100年後。

悪魔が何の手出しをしなくても、人間同士は諍い、憎み合い、殺し合う。

それがやがて戦争という大量殺戮に発展するのも、珍しい事ではなかった。

栄華を極めた文明は炎に包まれ、命は塵のようにかき消されてしまう。

たとえ奇跡の医者が走り回っても、消えた命の灯は戻らない。

今や無人の瓦礫と化した大国の跡で男は無言のまま立ち尽くす。彼の隣には黒衣の悪魔が佇んでいた。

「あんなに豊かな都だったのに……滅びるのなんて一瞬なんだな」

「彼等が選んだ道だ。仕方あるまい」

「他に誰か生き残っていないか?」

「この四方10キロ圏内に、生きた人間は存在しない」

「……また、オレだけが生き残ったのか」

「お前の生命は私が保障している」

「…………」

「不満そうだな」

「一人っきりで取り残されて、何に満足できるってんだよ」

男は耐え難い孤独の底にいた。

どんなに金を積んでも、心から欲しいものは得られない。

奇跡を起こせても、誰ひとり彼自身を見ない。

数え切れないほど群がって来る女も、誰ひとり彼自身を愛していない。

誰もが皆、彼を残して老い衰え、死んでゆく。

そんな中で何が残るというのか。


哀れな男を見つめる悪魔の瞳が揺れた。



――― それから数百年後。

いくつもの国が滅び、誕生し、栄え、また滅んでゆく。

そうして続いた歴史の中、地図の片隅に名を置く小国の小さな街の片隅で、貧乏人相手に無料で診察をしている医者がいた。

彼が何者なのか、どこから来たのか、なぜ金を取らないのか、どうやって生活をしているのか誰も知らない。

男は自らの事を何も語らず、ただ救いを求める患者に奇跡の手を差し伸べる。

さして広くないアパートの一部屋が、彼の診療所だった。

「毎日が充実してるんだ」

穏やかな笑顔を浮かべて言う男の前に座っているのは、例の悪魔。

金も持たず、権力も欲さず、地位も求めず、色欲にも溺れない。そんな質素な生活に、男は安らぎを見出したようだった。

「当初の予定とはずいぶん違ってしまったようだな」

「オレ自身、意外だよ」

そう言って笑う男の顔は、昔とは別人のように優しく満ち足りている。

心の充足が、はたで見ていても伝わって来るような気がした。

「限定した『誰か』だけじゃない。相手が誰でも、幸せになってくれるのが嬉しいんだ」


泣いている子供の怪我を治してやった時。

病に苦しむ老人を癒してやった時。

雨に濡れて震える子猫を抱き上げた時。

――― その喜ぶ顔を見ただけで、幸せになれるのだから。


「他人の幸せが、自分の幸せになるなんて、思ってもみなかった。何百年も生きて、やっとわかったぜ」

「満足したか?」

「……そうだな。そろそろ潮時かも知れねえ。お前には、随分と待たせて悪い事したな」

「悪魔にとっては、たいした日数ではない」

「そっか。お前は初めて会った時から、少しも変わらないもんな」

そう言って、男は改めて悪魔に視線を移した。

この悪魔の姿を見るたび、安堵を覚えるようになったのは、いつからだったろう。

背の高さも、細い体も、美しい顔立ちも、契約を交わした夜とまったく同じ。それが魔力のなせる技でも過ぎゆく時の流れの中、置き去られているのが自分だけではないと思わせてくれるから。

同じ時を生き続けてきた唯一の存在。それは男にとって何より身近で必要な心の支えになっていた。

「…なあ、ずっと聞きたい事があったんだが」

「何だ?」

「お前、男か?それとも女か?」

「悪魔には性別など無い」

「ふーん…」

記憶の彼方にかすかに残る聖書の天使も、そんなようだった気がする。

対極の存在を同一視している自分に気づき、男は苦笑した。

「お前のおかげで、いろんな事がわかった。感謝してるぜ」

悪魔は、どこか奇妙な気持ちになる。

この男は、今まで関わった人間たちとは、微妙に違うのだ。

契約の対象に選ぶのは、大抵が強欲、多情、愚劣、独善―――そんな人間ばかりなのに、目の前にいる男はそうではなくなっている。

不思議に思った悪魔は、この百年間、ずっと男の近くで彼の様子を静観していた。

今の生活を始めて以来、男は笑顔が増え、気性も温厚になり、愚痴や不平不満は、聞かなくなって久しい。

彼がなぜこんなに変わったのか悪魔にはわからなかった。

だが、男を見続けている内、契約の対象として以上に興味を引かれていた自覚はある。


ふいに、男は手を伸ばして悪魔の髪に触れた。

「もう一つだけ望みが叶えば、オレは満足すると思う」

「…何だ?」

「お前を抱きたい」

悪魔は一瞬、何を言われたのか意味を理解しかねて目を見張る。

「……何の冗談だ?」

「本気だよ」

「私は女ではない」

「知ってるさ。今聞いたから」

「女に飽きたのなら、男娼館に行け」

「女とか男とかじゃない。お前がいいんだ」

髪に触れていた手がフワリと伸びて、悪魔の身体を抱きしめる。

もちろん悪魔は簡単にふりほどく事ができるけれど、驚いていた為なのか、そのまま立ち尽くす。

「……なぜ私なのだ?」

「お前だけが、本当のオレを知ってるからだよ」


浅墓で、見苦しくて、欲深で、無力な男。

己を哀れみ、運命を呪い、ないものねだりばかりしていた。

奇跡の医者でも、善良な若者でも何でもない、ただの愚かな男。

その事を知る者はこの世にいない。知っているのは、ただ、目の前にいる悪魔ただひとり。

「オレはずっとお前にしか本心を明かす事ができなかった。

オレにとってお前は一番近い、一番深い存在だったんだよ」

「…………」

悪魔は、人間と交わるなど考えた事も無かった。しかし同時に貞操観念などという概念も無いので、拒む理由も見当たらない。

人間にとって、時には罪悪と呼ばれる行為である。悪魔がそれに及んだからといっても問題は無いのではないか?

しばし逡巡した後、悪魔は男の申し出を承諾した。


「……女の身体に変化してやろうか?」

「そいつはありがたいな」

「お前の好きな女優の姿でも良いが」

「それだと、お前を抱く意味が無い」

魔力を使えば変化は自在。最初、悪魔は男の好みの豊満な身体を再現しようとしたけれど、本来の顔貌とはアンバランスなので、結局、18歳程度の細身の少女の身体に落ち着いた。

「子供みたいだな」

「失敬な。お前より数百は年上だ」

白い身体を晒しながら、悪魔は文句を返す。

何百年にも及ぶつきあいだが、こんなふうに会話をするのは初めてだった。

――― まるで普通の人間同士のようで、男は少し嬉しくなる

「構造は人間と変わらないのか?」

「そのはずだ」

ベッドの上でまで淡々とした事務的な物言いをする悪魔に、男は苦笑する。

――― もっと早くこうしていれば、もっと早く幸せを得られたかも知れない。

久しく忘れていた『後悔』という感情が、男の胸をよぎった。


「───っ…」

胸元に口接けると、悪魔が小さく呻く。

身体は魔力で変えていても、反応の返し方は人間と大差ないらしい。

常に冷徹そうだった悪魔が、恥じらうようにベッドの上で固まっている姿を見て、男はフッと笑った。

「……何がおかしい」

「可愛いなと思って」

思わぬ言葉に驚き、悪魔は男を見上げる。

「お前、可愛いな」

「…………」

悪魔は本気で戸惑ってしまった。今までそんなふうに言われた事は一度も無く、どのように受け答えれば良いのかわからない。

「私は……悪魔だぞ」

「知ってるよ」

「私の目的は、お前の魂で……」

「知ってる」

そう言って、男は悪魔の華奢な身体を抱きしめた。

「お前になら、何だってくれてやるよ…」

悪魔はもう、何も言い返せなかった。


性別の無い悪魔には、肉欲も無ければ愛欲も無い。

誕生方法からして人間とは異なる為、種族維持本能も無い。

そもそも、愛し合うという行為自体が存在しない。

だから悪魔にとって、男から受ける愛撫は信じられない衝撃だった。

人間同士の営みくらいは知っているが、実践となると話は別。

悪魔は人間よりも感情が希薄だが、胸の内からあふれる惑乱を抑えきれない。


男の手が触れると、肌が勝手に反応する。

唇をふさがれると、無意識に返す。

恥じらいなど、かつて一度も持感じ得なかった。

驚きとも混乱ともつかぬ声を上げながら、悪魔は男に身を委ねていた。

触れる掌も、口接ける唇も、熱い肌も、乱れて交錯する感情も、すべてを共有しているという感覚は人間だけが持つ何か。

悪魔である自分には、決して理解できないだろう。

この時、胸を震わせた感情の名前を悪魔は知らない。

ただ身も心も熱くて、苦しくて、とても心地よい……ような気がした。



「――― ありがとうな」

互いに呼吸も整った頃、枕に散る悪魔の髪を撫ぜながら男は言う。

「まさか本当に抱かせてくれるなんて思わなかった。…でも、おかげではっきりわかった」

「……?」

「本当はきっと、もっと前からお前を抱きたかったんだ」

悪魔はまた困惑し、男を見つめた。

男は穏やかな微笑を浮かべ、悪魔を優しく抱きしめる。

「えらく遠回りしちまったけど…こんな幸せな気分は初めてだ。心の底から満足してる」

「……!」

瞬間、悪魔はハッとして飛び起きた。

「時よ止まれ、お前は本当に――― 」

「――― 言うなっ!!」

悪魔は咄嗟に、男の口を両手で封じる。

(言ってはダメだ!それを言ったら……お前は……!)

契約完遂、そして終了。男は即座に命を失い、肉体は滅び、魂が悪魔に吸収される。

輪廻の輪からはずれ、2度と今生に転生もできない、完全な死。―――完全な消滅。

悪魔は、その為に男を選び、何百年もつきあい、遂には身体もまじえたのに。

そのつもりだったのに……


「それを言ったら、お前は…」

「いいんだよ、もう」

男は口をふさぐ悪魔の手を取り、指先に口接けた。

「お前のおかげで、いい人生を生きさせてもらった。人間にとって何が一番大切なのか、やっとわかった。次に生まれて来たら、それだけを実行して生きたいと思うよ」

「…………」

「ああ、それは無理か。オレはもう転生できないんだったな」

男は改めて悪魔を抱きしめる。

「それでも、オレは満足だよ。心底から幸せだ。もう何も未練は無い」

「でも……!」

「こんな魂で良ければお前にやるよ。オレは全部、お前のもんだ」

男は悪魔の頬を包み込むように手をかけ、間近で瞳を見つめた。

「……時よ、止まれ」

唇が近づく。

「お前は、本当に美しい……」


(――――― ………!!)

重なった唇が、次第に冷たくなってゆくのがわかる。

思わず抱きしめた身体は、悪魔の腕の中からみるみる崩れ落ち、まもなく完全に消滅した。

後に残るは、呆然と硬直する悪魔が一人。

今まで何度も人間との契約は果たして来たのに。

人間から魂を奪うことなど、ごく当たり前の悪魔の使命で、何とも思ってはいなかったのに。

男の消えた空間に、キラキラと輝く宝石のように美しい光が浮遊する。

それこそが彼の魂。妬みと悲しみで曇ってはいたが、内にひそむ最上質の輝きを見ぬいて、悪魔は彼に契約を持ちかけたのだった。

そして今、予想通り彼の魂は最高の輝きを取り戻している。それを吸収すれば悪魔の魔力は格段に上昇する。

代わりに彼は、2度とこの世に転生できない。


『何が一番大切なのかやっとわかった。次に生まれたら、それだけを実行して……』


現世に絶望していた男は、数百年もの年月を経て、真に正しい生き様を見出したのだ。

近年行っていた無料診療がその例だろう。だから来世に転生したなら、きっと―――


奇跡や魔力ではなく実力で、貧しい人々を救う医者になる。

打算で近づく女たちではなく、自分の愛する女を愛でる。

決して諦めず、負けず、強く正しい心を持った人間になる。

そして今度こそ、真の意味での幸せを手に入れるだろう。


悪魔はそうなる事を願った。

人間に情が移るなんて、悪魔にあるまじき事である。それでも、彼をこのまま消滅させる気にはどうしてもなれない。

悪魔は両手を差し出し、男の魂をそっと包んだ。

壊れないように優しく、慈しむように。

そして、ほんの少しだけ魔力を吹き込む。

与えたのは『強運』。彼の上に、不幸ばかりが降り注がないように。

たとえ辛く悲惨な思いをしても、強く、逞しく、不屈の精神力を持って生きてゆけるように。


美しく淡い輝きをたたえたまま、男の魂は上昇してゆく。

やがて、遠い空の彼方へ飛び去った。

すべての罪を浄化し、再び生まれ変わる為に。



人間とかわした契約を自ら破棄した悪魔は、非難の矢面に立たされた。

それだけならば、まだ年少でもあり初犯という事で猶予もあったが、前代未聞の事態が発覚したのである。

当初は悪魔自身気づかなかったが、人間と契った悪魔には、彼の魂の一部が宿っていたのだ。

それは不完全な欠片だったが、やがて魔力を吸収して次第に成長し、確固たる一人の個としての魂に姿を変えてゆく。

早期に放出すれば、たいして魔力も失わず元に戻れるが、悪魔はそれをしなかった。

───男から齎された魂の欠片を、手放したくなかったのである。

とはいえ、永遠に体内にとどめておくことはできない。一定量の魔力を内包した魂は、本来の行き場――― 転生先を目指し、分離してしまうのだ。

そうなると、今度は魔力を消耗した悪魔の身が危ない。

その道を、悪魔はあえて選んだ。あの男に、もう一度会いたかったから。

今のまま再会しても転生した男は自分を覚えていない。そして人間である以上、今度は彼が悪魔を遺して死んでゆく。

かといって、再び男を不老不死という呪われの身にはしたくない。

ならば己の体内に宿った魂で、自身を人間に変えて彼のそばへ降り立ちたい――― そう考えたのだ。


もちろん、こんな行為を魔界の中で快く思う者はいない。

「魔の名残りは暗く影を落とし、不幸が訪れるだろう」

「孤独と殺戮に彩られた道を辿るだろう」

「憎悪と慟哭につきまとわれるだろう」

仲間たちはいくつもの不吉な予言を残し、かの者を追放した。

それでも悪魔はかまわない。今度は人間として、彼のそばで彼を見てゆく事に決めたから。

二つに分かたれた魂は、本来の片割れを求めて彼を追って行く。

自分自身にその意思がなくても、魂同士が求め合うのだ。

どんなに遠く離れていても、何ひとつ記憶は無くても、運命さえも越えて、必ずもう一度出会う。


ほどなく悪魔の体内から分離した魂は、美しい面影と、かすかに残留する魔的な魅力を含んだまま、どこへともなく飛び去った。

同時に魔力を失った「悪魔」の存在は、永久に消滅する事となる。


――― やがて、絶滅の宿命が待つ過疎の小村で一人の女の子が産声を上げた。

稀なる知性と美貌を兼ね備えたその子は、数々の苦難に遭遇する宿命を背負い、ただ一人の男と再会する為に生まれて来ている。

その事実をまだ誰も――― 本人さえも知らない。


その赤児が生まれる数年前、遠く離れた南方の国の下町で、一人の男の子が誕生していた。

彼はやがて、貧しい人々を救済する為に医者を目指す。

ゆるぎない信念と誇りを胸に、努力と友愛と、決してあきらめない強い心を武器にして。


――― それが二人のdestinyだから。


END

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