譲葉
「これから、健康で長生きする秘訣を伝えよう。
健康長寿の秘訣、其れは『養生の術』を学び、実践することである。
『養生の術』とは、『自分の命を大切にする為の術』である。
上質な『モノ』を作る為には、『技』と『術』が必要である。
『技』とは、一般的な修練によって身につける能力のことである。
『術』とは、特別な修練によって身につける能力のことである。
例えば蓑作りや傘張りは、普通の人の『技』があれば出来る。
しかし上質な『モノ』を作る為には、職人の高度な『技』と『術』が必要不可欠である。
同じ様に、『養生』の為には『技』だけではなく『術』がなくてはならない。
小手先の『技』だけでは、健康長寿など不可能である。
『技』だけに頼らず、『養生の術』を学び、実践すれば、天地父母から授かった命を守ることが出来る。
『養生の道』を歩く為には『養生の術』を学び、実践しなければならない。
『養生の術』を実践する為には、『養生の道』を知らなければならない。
『養生の道』を知っていれば、『養生の道』を歩くことが出来る。
では『養生の道』を歩く為の、『養生の術』について伝えよう。
『養生の術』を伝える為には、【心について】【体について】【薬と医者について】【人としての在り方について】を説明しなければならない。
先ず、【心について】
人は元来、欲深いものである。
此れを『嗜欲』と言う。
『欲』を抑えず『欲』に転べば、礼儀に背き、何れ『人の道』を踏み外すことになるであろう。
『欲』に打ち勝つ方法は、自分で『欲』を制御するしかない。
『欲』を抑えることが出来れば、『善』が生まれる。
『欲』を抑えることが出来なければ、『悪』となる。
故に『養生の道』を歩く人は『恣(我欲)』を捨て、『忍(忍耐)』を守るべきである。
〖忍は身の宝なり〗
『忍』とは、耐え忍ぶことである。
『養生の道』に於ける『忍』とは、『怒り』や『欲』を制することである。
水に落ちれば溺死し、火の中に飛び込めば焼死し、毒を飲めば死ぬと皆が分かっているから、人は自ら水や火の中に飛び込んだり毒を飲んだりしない。
つまり『欲』が命を削ると知っていれば、『欲』を抑えることが出来る。
熱く痛いと分かっていても灸を据えるのは、灸が体に良いものだと知っているからである。
しかし愚かな人間は自分が人を傷つけることによって天罰が下るということを知らない為、多くの罪を犯す。
自分が如何に人道に背いているかを知らないからこそ、其の行為が自らの命を削っていることに気付かず次々と犯罪に手を染める。
つまり『欲』を抑制することが、『養生の術』の一つである。
では、『欲』とは何か?
其れは、自分の身体を壊す『内欲』のことである。
此の『内欲』を抑えることが出来れば、『外邪』を防ぐことが出来る。
『内欲』とは、〔飲食の欲〕〔好色の欲〕〔睡眠の欲〕〔軽口の欲〕〔七情の欲〕のことである。
『外邪』とは、〔天の四気〕のことである。
五つの『内欲』を抑える為には、如何すれば良いのか?
〔飲食の欲〕については、
・適量、適切な飲食をすること
・酒食も限度を決めること
・内臓を傷つけるものは飲食しないこと
〔好色の欲〕については
・色欲を慎しむこと
色欲を欲しいままにすると、法を犯し、
処罰されることになると自分を戒めること
〔睡眠の欲〕については、
・過度な睡眠をとらないこと
・昼間に寝てはならないこと
早く寝ると、食気(食欲)が停滞して
『気』を損ねてしまう
・食後、直ぐに眠ってはならない
食べたものが消化しきれていない為、
病気になり易い
〔飲食の欲〕〔好色の欲〕〔睡眠の欲〕を『三欲』と言う。
先人は、『三欲』を抑えるようにと言っている。
〔軽口の欲〕については、
・自分の言いたいことを言い過ぎると
『気』が昇り過ぎて、却って
『気』を傷つけてしまう
其れにより、『徳』までも失う可能性がある
〔七情の欲〕についてだが、〔七情〕とは〈喜〉〈怒〉〈哀〉〈楽〉〈愛〉〈悪〉〈欲〉のことである。
〔七情〕のうち、〈怒〉と〈欲〉が最も『徳』を傷つける。
〈怒〉は『陽』に属し、〈欲〉は『陰』に属す。
ただ医者は、〈喜〉〈怒〉〈憂〉〈思〉〈悲〉〈恐〉〈驚〉を〔七情〕と呼ぶ。
其の場合、〈怒〉〈悲〉〈憂〉〈思〉は少なめにし、心を平穏に保たなければならない。
〔七情の欲〕の他にも、〔六欲〕というものもある。
〈耳〉〈目〉〈口〉〈鼻〉〈身〉〈意〉、此れらにもそれぞれ『欲』があると言われている。
『養生』に於いて、『少』という文字が最も大切である。
『欲』を抑えることが、何よりも重要である。
〚千金方(人命は千金よりも重いという意味)〛の中の『十二少』には、こう書かれている。
〖思を少なくし 念を少なくし 欲を少なくし
事を少なくし 語を少なくし 笑を少なくし
愁を少なくし 楽を少なくし 喜を少なくし
怒を少なくし 好を少なくし 悪を少なくす〗
何事も、多過ぎてはならない。
『養生の道』は、『中』を守るべきである。
食べ過ぎも、飲み過ぎも、過ぎることは良くない。
〖莫大の禍は、須臾の忍ばざるに起こる〗
という言葉がある。
『須臾』とは、『僅かな時間』という意味である。
つまり、〖大きな禍は、少しの間我慢しなかったことにより起こる〗という意味である。
『内欲』を堪えず、大酒を飲んで大病となることもある。
小さな火が、大火事になることもある。
〖犯す時は微にして秋毫の如し 病をなして重きこと泰山の如し〗
という言葉がある。
『秋毫』とは、秋に生え変わる獣毛の末端部分のことを言う。
其のことから、『僅か』という意味になった。
『泰山』とは、清(中国)にある山のことである。
つまり、〖始めは大したことのない病だと思っていても、少しずつ大病となっていく〗という意味である。
ほんの小さなことが、知らぬ間に大きな不幸となることもある。
故に、常に警戒して生きなければならない。
私達は、此れらの先人の言葉を心して生きていかなければならない。
次に『外邪』である〔天の四気〕を防ぐ為には、如何すれば良いのか?
〔天の四気〕とは、〈風〉〈寒〉〈暑〉〈湿〉のことである。
『外邪』によって病に罹るのは『天命』であり、誰にでも起こり得ることである。
しかし内側の『気』がしっかりしていれば、つまり『内欲』を制御できていれば『外邪』を跳ね除けることが出来る。
『内欲』によって病に罹るのは『天命』ではなく、単に自分の行いが悪いからである。
『天命』は致し方ないが、人為は自業自得である。
しかし人為ならば、良くも悪くもするのは自分次第である。
『外邪』を防ぐことが出来ずに病に罹ってしまうのは、『内欲』を抑えず、自分の身体を過信して健康管理を怠ったからである。
では、如何すれば良いのか?
大切な一文字がある。
其れは、『畏』という文字である。
『畏れること』は、『身を守ること』である。
『畏れ』は、『慎み』に通じる。
『畏』と言う文字を常に意識しておけば、多くの災厄から身を守ることが出来る。
若い時は『欲』を抑えず、血気に逸って自分のやりたいことをやって病気になることがある。
特に高齢者は身体が弱いから、必要以上に『畏れ』なければならない。
『畏れ』なければ、若い人も高齢者も短命となる。
人の身体は、弱い。
『内』からも『外』からも、多くの『敵』から攻められる。
『内欲』は、体の内側から攻めて来る『内敵』である。
『外邪』は、体の外側から攻めて来る『外敵』である。
人は『内敵』を抑え、『外敵』を防がなければならない。
『内敵』『外敵』に打ち勝つ為には常に慎重に、用心し、『敵』を知り、『敵』を防ぐ方法を準備していなければならない。
何もせず傍観していれば、いつか『敵』に滅ぼされる。
其れは、勇気があっても戦略のない武将が負けてしまうことと同じである。
『内敵』に勝つ為には、『心を強く』しなければならない。
即ち、『忍』ということである。
たとえ今が辛くとも『強い心』を持ち続け、『内敵』に打ち勝つまで耐え忍ぶ必要がある。
『外敵』に勝つ為には、臨機応変に対応しなければならない。
『畏』を念頭に置いて、何か事が起きれば直ぐに行動に移さなければならない。
常に注視していれば、たとえ『外敵』に取り囲まれても直ぐに防ぐことが出来る。
『内欲』を抑えることが出来れば、『外邪』を防ぐことが出来る。
そうすれば、健康に天寿を全うすることが出来る。
抑々、人の天寿は基本長いものである。
人にもよるが、天寿が短い者はあまりいない。
ただ、たとえ健康的な人であっても『養生の術』を実践していなければ短命に終わる。
逆に病に侵されている人であっても病を恐れて『養生の術』を実践していれば長生きする人もいる。
『内欲』に任せて生きることは、自分で自分を傷つけているようなものである。
『内欲』を抑制しなければ、たとえ薬を飲んでも食で補っても意味がない。
『外邪』を畏れ、節度をもって生き、食後には按摩や体を軽く動かして血気を循環させ、飲食したものを消化させる。
此れが、『養生』にとって大切なことである。
『養生の道』とは、常日頃から用心することである。
病に罹ってから薬を使用したり、鍼灸で病を治すことは、最後の手段である。
老子、曰く。
〖人の命は我にあり、天にあらず〗
炭火を火鉢の灰の中に埋めておけば長持ちするが、風の吹く外に置いたままだと消えてしまう。
人の命とは、其れと同じである。
人の命は天地や父母から授けられたものであり、生まれつき天寿が短い人は別であるが、長命であるか短命であるかは自分次第と言うことである。
次に、【体について】
人の『体』の根本は、『気』である。
そして其の『気』を保つ為には、〈衣〉〈食〉〈住〉が必要である。
人の命と同様、〈衣〉〈食〉〈住〉もまた『天』より授けられたものである。
しかし〈衣〉〈食〉〈住〉は、『外物』である。
植物に養分や水を与え過ぎると枯れてしまうように、『外物』が多過ぎれば人の内側の『気』が損なわれる。
故に人は内側の『気』を大切にし、『外物』は控えるべきである。
『養生』の基本は、『心気』を養うことにある。
『心気』とは、『心』のことである。
心穏やかにし、怒りや『欲』を抑え、憂いをなくさなければならない。
怠けず、誠実に、努力し続けることが重要であり、其れが『気』を循環させることに繋がる。
では、『気』を循環させる為に何をすれば良いのか?
朝は早く起きて、身体を整え、食後は腹を撫で、人差し指で京門(左脇腹)を斜めに何度も撫でる。
腰も撫で、下腹を軽く敲く。
食気が滞ったら、上を向いて三、四度毒気を吐く。
〖禍は口より出で、病は口より入る〗
という言葉がある。
食べ物は、体に養分を与えるものである。
故に、体の為になるものを食べなければならない。
たとえ美味しいと感じても、体を壊すものは食べてはならない。
煎茶は体に良い。
薬や茶を煎じる時は、綺麗な水を用いなければならない。
塩分は控えめに。
油の多いものは避けなければならない。
あっさりとしたものを食べなければならない。
腹八分目がちょうど良い。
酒は程々にしなければならない。
〖酒は天の美禄〗
〖酒は微酔 花は半開に見るのが良い〗
酒は微量であれば『陽気』を補い、憂いを和らげ、血の気を巡らせる。
微酔であれば後の『楽しみ』があり、後の心配もない。
花は咲き過ぎては風情もなく、直ぐに散ってしまう。
酒は、微酔が良い。
食べ過ぎてはならない。
同じものを食べ続けてはならない。
色々なものを食べなければならない。
食い合わせや薬と合わない食べ物にも注意が必要である。
自分に合うものや自分に『益』のあるものを、自分で選んで食べなければならない。
食に関しては、『五思』というものがある。
一.食べ物をいただける感謝
二.食べ物を作ってくださった方々への恩
三.食べ物をいただける幸福
四.食べ物を食べることのできる喜び
五.食べることの出来なかった時代への回顧
常に感謝し、過去を振り返りながら生きなければならない。
食後は、長く楽な姿勢でいてはならない。
直ぐに寝てはならない。
夏のように日が長くても、昼寝はしてはならない。
もし眠くなったら、後ろに寄り掛かって寝る。
横になるのであれば、傍に人を置いて長く寝ないように時間になったら起こしてもらうようにせよ。
食後は、適度な運動を心掛けること。
長時間座らず数百歩歩いて、『気』の循環を良くすること。
食べたものを消化できなければ、食気が塞がる。
『気』が停滞してしまう。
流水は腐らないが、溜まった水は腐る。
毎日朝晩運動していれば、薬や鍼灸を使わなくとも健康的でいられる。
ただ、運動をするにしても、自分に合った運動でなければならない。
無理をしてはならない。
〚千金方〛には、こう書かれている。
〖久しく行き 久しく坐し 久しく臥し 久しく視ることがないように〗
他にも、熱い湯に入ってはならない。
歯を磨き、目を洗わなければならない。
煙草は毒であるし、中毒性もあり、火災の心配もあるから喫うべきではない。
早く起き、夜半に寝て、昼寝はしない。
一生懸命働き、心を穏やかに、飲食も程々に、体を動かす。
此れが、『体にとって良いこと』である。
『体に良いことをする』、つまり其れが『養生の術』の一つである。
人の『体』は、百年
『上寿』は、百歳
『中寿』は、八十歳
『下寿』は、六十歳
と、言われている。
しかし今、人の寿命は短い。
何故なら、人が『養生』していないからである。
五十歳に至らず死ぬことを『夭』と言う。
此れは、短命であり不幸なことである。
長生きしていれば、多くのことを経験でき、様々な知識や智慧を得ることが出来る。
故に、長生きはするべきである。
長生きする為には、『心』と『体』の『養生』が必要である。
『心』は、『体』を司る。
故に、『心』を『天君』とも言う。
『心』は、『五官』である耳・目・口・鼻・体を制御している。
つまり『心』の安定が、『体』の安定に繋がる。
しかし、『養生の害』となるものが二つある。
一つは、『気』が不足した状態である『気虚』。
此れは、〔飲食の欲〕〔好色の欲〕〔過度な運動〕により引き起こされる。
もう一つは、『気』が滞った状態である『気滞』。
此れは、〔飲食の欲〕〔自堕落な生活〕〔過剰な睡眠〕により引き起こされる。
『心』と『体』の『養生』の為に、『気』を制御しなければならない。
次に、【病と医者について】
全ての病は、『気』から起こる。
『病気』とは、『気』を『病む』ことを言う。
『気』を制御することが、『養生の術』の一つである。
此の『養生の術』には、二つある。
一つは、『気』を害するものを取り除くこと。
『気』を害するものとは、『内欲』と『外邪』である。
例えば田畑を作る時に雑草を取り除いて、養分を与えることと同じである。
もう一つは、『気』を養うことである。
『気』を損なわず、養分を与えることである。
例えば『悪』を駆逐し、『善』を行うことである。
『気』を養い、『気』を温存し、『気』を循環させなければならない。
『気』を循環させるには、『呼吸』をすることが重要である。
『呼吸』とは、人の鼻から出入りする『息』のことである。
『呼』は『出る息』のことであり、体の中にある『気』を吐く行為である。
『吸』は『入る息』のことであり、体の中に『気』を入れる行為である。
『呼吸』は、人が生きる為に必要な行為である。
人の中にある『気』も、天地の『気』も同じである。
天地の『気』は新しく綺麗だが、人の中にある『気』は五臓六腑にあるので何れ古くなって汚れてしまう。
故に人は綺麗な外の『気』を吸い、体内の汚れた『気』を吐き出さなければならない。
外側の環境が綺麗であれば、其れに接した内側も綺麗になる。
常に環境を整えていれば、『心』も綺麗になる。
『天』には『陰陽の気』というものがあり、其れらが循環しているから春夏秋冬があり、万物が育つ。
『陰陽の気』が滞れば大気は変わり気候は変動し、異常気象となる。
人の身体も同じである。
『陰陽の気』が流動していれば病には罹らないが、滞れば身体を壊す。
『天地の理』によると、『陽』が一番目で、『陰』が二番目であると言われている。
そして、『陽』は少なく、『陰』は多い。
少ないものは尊く、多いものは卑しい。
人は『陽』に属している為少なく、禽獣は『陰』に属している為多い。
『陽』である君子は少なく、『陰』である小人は多い。
其れが、『自然の理』である。
〚易経〛では
〖『陽』を『善』として尊び
『陰』を『悪』として卑しむ〗
つまり〖君子を尊び、小人を卑しむ〗ということである。
身体の中にある『陰』に属する『陰血』はある程度減っても死なないが、『陽気』が大幅に減ると死ぬ。
失った『陽気』の代わりに『陰血』を補えば、『陽気』は益々失われる。
〖血脱して気を補うは、古聖人の法なり〗
『陰血』ではなく『陽気』を補えば、『陽気』が増す。
人の身体も常に『陽』が多く、『陰』が少ない方が良い。
但し『陰』が不足し過ぎた時に苦く体を冷やす薬を長期間服用し続ければ、身体の中の『陽』も次第に損なわれてしまう。
病に罹らない為には、調整が必要である。
此れも、『養生の術』の一つである。
〖聖人は未病を治す〗
という言葉がある。
聖人は少し体調が悪いと感じた時に、これ以上病が重くならないよう努める。
〖安閑の時、常に病苦の時を思え〗
という言葉がある。
無病の時こそ、病気に罹った場合の苦痛を想像すべきである。
常にそういった気持ちでいれば、用心して病気にあまり罹らない。
病気にならないように、病前に自ら病を防ぐことが重要である。
病に罹ってから薬を飲んでも、病は治りにくい。
却って大病となるかもしれない。
大病すると、苦しい。
大きな病に罹ると、今まで以上の我慢をしなければならなくなるかもしれない。
〖終わりを慎むことは、始めにおいてせよ〗
という言葉がある。
大病に罹らない為にも始めから『内欲』を抑え、『外邪』を防ぐべきである。
〖病は少しく癒ゆるに加わる〗
という言葉がある。
病が軽くなってくると、油断しがちである。
そして『欲』を抑えず用心しないでいると、更に病が深刻化する場合がある。
たとえ少し良くなったとしても用心を怠らず、完全に治るまで気を抜いてはならない。
未病・無病の時に、自ら病を得に行くなど愚かな行為である。
『欲』を抑えず好きなように生きていれば、たとえ始めは大したことがなくとも、将来的に大病となることがある。
病気になれば病気の苦しみだけでなく、薬や手術による痛み、飲食の制限、大切な人の悲しみなど、心の苦しみが伴うことになる。
故に聖人は病に勝つ為に、病に罹らない『道』を選択する。
其れが、『養生の道』である。
しっかりと『養生』していれば、病には罹らない。
しかし、どれ程『養生』していても防ぎきれない時がある。
罹る時には、罹る。
其れは、『天命』だから致し方ない。
もし病に罹ったとしても、薬と鍼灸は止むを得ない時に使うべきである。
薬と鍼灸には、それぞれ利害がある。
たとえ良い薬や鍼灸であっても、病に合わなければ却って害となる。
『養生』を基本とし、無闇矢鱈に薬や鍼灸を使ってはならない。
此れは、『国』を治める時にも言えることである。
『国』が『仁義』による『王道政治』を行えば乱は起こらないので、『国』は人々を討伐しない。
しかし、武力や刑罰による『覇道政治』を行えば乱が起き、『国』は人々を蹂躙する。
此れは、人が『養生』せず薬や鍼灸を用いることと同じである。
〖衛生の道ありて 長生の薬なし〗
という言葉がある。
そもそも薬とは、天寿を全うする為のものである。
元々持っている命を長くする為のものではない。
延命長寿の薬というものを聞いたことがあるが、そんなものは本来存在しない。
もし薬を使用するにしても、薬についての知識はあった方が良い。
薬には、本物と偽物がある。
薬の性質が良ければ、効果があるであろう。
但し、薬の性質が良くとも調合が悪ければ効き目はなくなる。
薬の性質が悪ければ効果がないだけではなく、取り入れることによって却って体を害することになる場合がある。
故に、必要以上に薬は飲まない方が良い。
病に罹ってもいないのに薬を飲むのは良くない。
また人にもよるが、多くの薬を飲み過ぎれば自然治癒力や免疫力も劣ってしまう可能性がある。
つまり、薬は選ばなければならないということである。
但し、注意すべきことがある。
薬についての多少の知識が自分にあれば、いざという時に役に立つ時がある。
自分も人も、助けることが出来るかもしれない。
しかし其の知識が間違っていれば、薬が却って毒となる可能性がある。
やはり、薬の処方は医者に任せた方が良い。
そして人は、適切な薬を処方する医者を選ばなければならない。
ただ此の時選ぶ医者は、『良医』でなければならない。
私は先程、〚易経〛では、こう述べていると言った。
〖『陽』を『善』として尊び 『陰』を『悪』として卑しむ〗
元(中国)の時代に、朱丹渓という名医がいた。
彼は、〖陽有余陰不足〗と言っている。
つまり『陽』は有り余り、『陰』は不足しているという意味である。
此れは、どのような経典に基づいて言ったのであろうか?
真に彼が〚易経〛を学んだというのであれば、〖陰有余陽不足〗と言うべきである。
もし『陽有余陰不足』を本人が考えたと言うのであれば、彼は大噓つきか、無能であるとしか言いようがない。
しかも彼の説を後世の人が賛美するなど、一体どういうことであろうか。
確かに彼は名医であり、功績も残している。
ただ此の説に関しては、疑問を抱かざるを得ない。
見識のない人間が彼の表面上の業績に目を奪われて本質を見抜けなかったか、或いは彼の説が都合が良く利用価値があったので偏向に走ったのか・・・。
ただ、彼の説は偏見や間違ったものの方が多い。
後に彼の説を糾弾した者もいたが、彼の正しい説までも間違ったものとし、良いものさえも悪いものにしてしまった。
偏った説は信じるに値しないが、常に公平に判断しなければならない。
医者の世界では往々にして色々な変更があるので、病人は医者を自分の目でしっかりと見て、正しく選ばなければならない。
医者を選ぶ時、注意しなければならないことがある。
其れは、自分がたとえ健康な体であったとしても『庸医(藪医者)』にかかってはならないということである。
『良医』の薬は〔適中〕であるが、『庸医』の薬は〔偶中〕である。
『良医』は病人に合った薬を臨機応変に処方するので、此れは〔適中〕である。
『庸医』は病人に合った薬を奇跡的に処方するので、此れは〔偶中〕である。
〖貧民は医者にかかれなくて死ぬが、愚民は庸医の誤診によって死ぬ〗
『庸医』の〔偶中〕は、大変危険である。
『庸医』は、無暗矢鱈に薬を出す。
しかも、其の薬が病に合っていなければ薬は却って毒となる。
〖人故なくんば薬を餌うべからず
偏に助くば蔵気不平にして病生ず〗
理由がなければ、薬を飲んではならない。
薬には偏りがあるから、薬が病に合っていなければ薬を飲むことによって却って他の病を得ることになる。
何でも薬に頼るのではなく、自然と治癒するのを待った方が良い時もある。
自然に治る病もある。
また常に『養生』していれば薬を飲む必要もなく、薬害にあうこともなくなる。
では、どのような医者を選べば良いのか?
医は、『仁術』である。
医者には、〖人を救いたい〗という『仁愛』がなければならない。
『医術』とは天地の生んだ人を救い、生死を司る重く尊い技術である。
才能のない者は、医者になるべきではない。
〚礼記〛には、〖医者は三代続くのが良い〗と書かれている。
三代とは父・子・孫だけでなく、師から弟子のことでもある。
代々才能のある家であれば、其れで良いだろう。
しかし、其れは稀なことである。
才能がなければ、たとえ医者の子であっても医者にしてはならない。
もし才能のない者が医者になれば、人を傷つけ殺すことになる。
其れは大変罪深いことであり、『天道』にも背くことになる。
医術のことをよく知りもしないで其の場限りの嘘偽りを言って、意味のない軽い言葉で自画自賛し、他人の悪口を言ったり、権威ある者に媚びを売ったりしていれば、何れ多くの人から軽蔑されるであろう。
もし其の『道』が自分に合わないのであれば、他の『道』を選ぶべきである。
自分が得意で、自分に合う職業や分野が、きっとあるはずである。
決められた『道』を歩く必要はない。
『自分の道』は自分で探し、自分で拓き、自分で作るべきである。
其れは、自分の為でもある。
また医者になる者には、読解能力がなければならない。
読解能力がなければ、医書は理解できない。
学問が無ければ、医術を極めることはできない。
無学であれば、間違いに気付かない。
医学について博く、精しく、医術にも長け、多くの病人を診て実績があり、緊急の時にも直ぐに対処でき、病人に寄り添い、病人と『心』を共有できる医者は、『良医』である。
医学について学びもせず、医者としての知識も能力も実績も無く、旧習に囚われ、自分の無学を棚に置いて人を誹り、病人を利権の為の道具としてしか考えていない医者は、『俗医』である。
世の中には、自分が生き残る為に本来の医者としての役割を忘れ、世間慣れし、権力者に媚び、地位や名誉や巨万の富を得ようとする医者がいる。
此れを『福医』『時医』と言う。
こういった医者が多いことは、大変嘆かわしいことである。
〖医は意なり〗
医術には、『意』がなくてはならない。
医学書を沢山読み、病についての知識が多くとも、実践経験や〖人を救いたい〗という『心』がなければ本当の医術とは言えない。
医術には知識、経験、そして『心』が必要である。
医者には、『君子医』と『小人医』がいる。
『君子医』は『良医』であり、人の為に生きる医者である。
分け隔てなく人に接し、全力で人を救う努力をする。
『小人医』は『俗医』であり、自分の為に生きる医者である。
貴賤を区別し、人を救う気持ちも無く、他人を誹り、私利私欲の為に生きる。
医術とは、本来人を救う為の技術である。
己の利益を貪る為にあるのではない。
医学書を読み、ひたすら研究して多くの知識を得て、様々な病に対処して多くの経験を積み、病人と向き合い、病人と共に考え、適切な薬を処方していれば、自ずと人は集まってくる。
人として立派な人が、信用出来る素晴らしい医者である。
そういった医者を、選ばなければならない。
〖明医は時医にしかず〗
其の医者が有名だからと言って、自分や大切な人の命を任せてはならない。
誤診によって、命を奪われることもある。
病人が薬を選ぶ事は重要であるが、医者を見分けることの方が遥かに大切である。
どのような身分であろうとも、〖人を救いたい〗という強い志がある者であれば医者になるべきである。
多種多様な医学書や薬学書を読み、古法を研究し、新しい技術を身につけ、現在の状況や環境に通じ、名医からよく学び、良い部分は取り入れ、悪い部分は排除し、病の原因を考え、時間を掛けてでも様々な病に対処して多くの知識と経験を得て、日本特有の気候や風土を考えながら其れに合った処方をし、病人の心を重んじ、心を通わせ、誠意をもって病人に接していれば、多くの人を救う『良医』となるであろう。
国はそういった『良医』を育て、援助すべきである。
『良医』は必ず、『国の宝』となる。
人は、『良医』の許に集まる。
人が集まれば、自ずと地位や名誉や富を得ることが出来るであろう。
医者としての本分を忘れて地位や名誉や富を得ることを目的とすれば、何れ身を滅ぼすことになるであろう。
医療について知らなくとも、医術の大意は知っておいた方が良い。
そうすれば、どの医者が『良医』であるかが分かる。
此れも、『養生の術』の一つである。
最後に、【人としての在り方について】
自分の命は天と地そして父母から授けられ、育てられたものである。
私達は、其の授けられた命を次の世代に引き継がなければならない。
故に、自分の命は自分一人だけのものではない。
断じて、自分の命を軽んじてはならない。
自分の命を大切にしなければならない。
自分を大切にして長生きし、人生を楽しみ、多くの幸せを感じ、『人の道』を守って生きなければならない。
『養生』するのは自分の為であり、他の為でもある。
君子は、『義』を重んじる。
君子は、『義』の為に命懸けで戦う。
しかし自分の身体が丈夫でなければ、いざという時に動くことが出来ない。
『事』には、『常』と『変』がある。
『常』の時は、『義』の為に心身ともに常に健康でなければならない。
『変』の時は、『義』の為に命懸けで戦わなければならない。
『変』の時に直ぐに対応する為には、『常』の時に健康を保っていなければならない。
そうすれば、何か『事』が起こった時も自信を持って対応することが出来る。
つまり、『養生』は習慣としなければならないということである。
今は苦しくとも、『養生』を続けていれば必ず『幸福』となる。
其の為には、決して自分を欺いてはならない。
小さな『欲』の為に、大切なものを失ってはならない。
軽重を知らなければならない。
例えば暴食は悪いことだと分かっていても、自分の都合の良い理由をつけて食べ続けることなどである。
自分にとって此れは『悪』だというものを、『善』だと言い聞かせて受け入れてはならない。
其れは、『偽善』にしか過ぎない。
自分を可愛がり過ぎてはならない。
同様に、傷めつけ過ぎてもならない。
自分に完璧を求め過ぎれば、自分にとって精神的重圧となる。
他人に完璧を求め過ぎれば、他人にとって精神的負荷となる。
其れでは、人生が楽しめない。
生来、健康的な人でも天寿を全う出来ない人がいる。
其れは、『養生』を怠った為である。
強い人は自分の身体に自信がある為、『養生』を怠って短命で終わることがある。
しかし弱い人は自分の身体に自信がない為、『養生』して長命となることが多い。
自分を過信してはならない。
身体の強弱や長命短命は、『養生』するかしないかによる。
健康的に生きるも、病を得るも、長く生きるも、短く生きるも、結局のところ自分次第である。
『養生』しないことは、自らを殺すことと同じである。
常に『養生』していれば、長く生きることが出来る。
山の中で暮らす人は、長命と言われている。
〖山気は寿多し 寒気は寿〗
という言葉がある。
山の中で暮らす人は人との交流が少ないので、静かに暮らす。
町の中で暮らす人は人との交流が多く、『気』が削られる。
山の中で暮らす人は物が少なく不自由な為、『欲』が少ない。
町の中で暮らす人は多くのものが溢れているので、『欲』も深くなる。
山の中で暮らす人は肉や魚を過食しないので、長命である。
町の中で暮らす人は肉や魚を過食するので、短命である。
世の中には、地位や名誉や富や権力を過剰に求める人がいる。
しかし、『天命』がなければ其れらを得ることは出来ない。
私利私欲に塗れ、『養生』しなければ短命に終わる。
命が短ければ、たとえ多くの地位や名誉や富や権力を得たとしても意味がない。
『欲』の愚かさを知り、『欲』を抑え、慎み深く生活し、『養生』しながら毎日を過ごすことが出来れば、長く生きることが出来るであろう。
長く生きれば、高齢となる。
老後は、若い時の十倍の速さで毎日が過ぎていく。
故に、一日一日を大切に過ごさなければならない。
自然は『心』を癒してくれるので自然の中で生き、春夏秋冬を感じ、生まれてきたこと、生きていることに感謝し、謙虚に、『人としての道』を歩み、『徳』を養い、『心』は常に従容に、静かに日々を過ごし、古書を読み、落ち着いて、平和に、心穏やかに、心豊かに、『欲』を抑え、『心』と『体』を養い、急がずゆっくりと、規則正しい生活をし、『楽しみ』を見つけ、『楽しみ』を知るべきである。
〖知って行わざれば、知らざるに同じである〗
〖知るは喜び 調べるは楽しみ わかるは感動 学は一生〗
人の『楽しみ』には、三つある。
一『善を楽しむこと』
二『健康的に楽しむこと』
三『長生きして楽しむこと』
たとえ地位や名誉や富や権力があっても、此の『三楽』がなければ意味がない。
『楽しむ』とは『天地の道理』であり、人が生まれ持ったものである。
人生を『楽しみ』ながら生きることが、長く生きることに繋がる。
真面目に、誠意をもって勤め、皆が一生懸命生きていれば、生きる『楽しみ』を知り、見つけ、創ることが出来る。
命には限りがあり、いつか人生は終わる。
人の命は、天地に比べればずっと短い。
人の命は、とても尊い。
故に、『養生』せず命を削ろうとしてはならない。
一時の快楽の為に、未来を失ってはならない。
始めは辛くとも我慢すれば、いつか其れが『喜び』となる日が来る。
『楽しみ』を知り、『楽しみ』を見つけ、『楽しみ』を創る。
『楽しみ』を『楽しむ』
此れが、最も大切な『養生の術』である」




