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「去年の今頃かなあ、きっかけは」
放課後のほかに誰もいない教室の中、須見は春子の語るがままを聞いていた。起承転結の起から始めるつもりらしい。
「その日、私なんだかすごくだるくって。身体は重いし、眠気がぜんぜんとれなくて。音楽室に行かなきゃいけなかったんだけど、ずっと自分の椅子に座ってたの。行かなきゃって思ってたんだけど、どうしても立ち上がる気になれなくて。で、もうあとちょっとで休み時間が終わるって時、もちろんクラスの他の人はもういなくなっちゃってたの。どうしよう、って思ってたら、そのとき森泉君が戻ってきて」
うんうんと須見は一応相槌を打った。春子の頬は紅潮していて、自分のしゃべっていることに夢中のようだった。
「それで、どうしたのって言ってくれて、だるいって私が言ったらミントタブレットをくれて、それから保健室まで連れてってくれたの。最初、私森泉君とぜんぜん話したことなかったし、なんか怖い人なのかなーって思ってたからびっくりして」
その後の話を、須見はごく礼儀正しく聞き続けた。春子は話したいようだったし、それを妨げるほどの勇気は須見には無かった。
「……で、運命の人なんだって思ったの」
「え?」
須見は思わず聞き返した。
「運命の人だって」
するっと春子は『運命の人』という言葉を口にした。須見はまじまじと春子の顔をみつめたが、そこには冗談や照れなどはかけらもなかった。春子はごくまじめに、その少女趣味な言葉を口にしていた。須見は心底驚いた。そんな言葉は、須見の中ではジョークか例え話の中でしか使われないことに決まっていたし、他人の中でだってそうに決まっていると考えていたからだ。その言葉の虚構を承知の上で、口に出す言葉だと思っていた。ところが春子はそうではない。カルチャーショックだった。他人は他人、という言葉の本当の意味の一端をかじったと思った。
「ねえ……森泉くんって、彼女、いるのかなあ」
春子が眉根をよせた。
「多分いないと思うよ。あいつあんまそういう話しないけど」
「そう? そうなんだ……どういう子がタイプとか、そういう話は?」
「えー……」
須見の記憶にある限り、森泉がそういう話をしたことは無い。漫画雑誌のグラビアページもぺらぺらとめくる程度だ。好きな芸能人すらわからない。そういう性質なのだろうと思っていた。
「この前カラオケ行った時、須見くんのクラスの……なんだっけ、あのパンツはいてる……」
「筒井さん?」
「そう、筒井さんと結構話してたし、この発表も一緒だし。仲いいのかな?」
「あー、かなあ。いや俺あんまりわからないけど」
「うーん、じゃあさ、何かわかったら教えてくれないかなあ? ちっちゃなことでもいいんだけど、タイプの子とか、そういうこと」
「あー、うん」
「お願いね、私も須見くんに何かあったら協力するからさっ」
春子は須見の両手をとり、くっきりと笑った。両手を取られながら、須見は内心ひどく面倒なことになったとうすうす感じていた。