170話 焔の谷へ - 忘れられた星霊の声
鈍い灰色の雲が、空一面に垂れ込めていた。 朝であるはずなのに、陽の光は厚い雲に覆われ、世界全体がくすんだ赤茶に沈んでいる。 遠くで鳥の鳴く声すら聞こえない。
アリアたちは、長い山道を抜けて、ようやくその地へとたどり着いた。
そこは──
「……ここが、“焔の谷”。」
かつて星霊信仰の中心地だったというその地は、いまや人の手を離れ、荒れ果てた聖域となっていた。
地面にはところどころ黒ずんだ焦げ跡が残り、かつて祠が建っていたであろう石組みは崩れ落ち、名を読むことすらできない石碑が風雨に晒されて立っている。
「風の匂いが……焦げてる」
アリアがそっと口にした。 鼻をくすぐるのは、焔に焼かれた大地の残り香。 そしてその奥に、ごくわずかに、祈りに似た気配が混じっていた。
イリスが「ぽよん」と跳ねて、赤土の上に着地する。だが、その動きには緊張の色が混ざっていた。
「イリス……なにか、感じるの?」
イリスはアリアの問いに応えるように、少しだけ身を縮める。
その隣でモルンが低く喉を鳴らした。
「……くう……」
彼の尾が静かに揺れ、金の瞳が遠くの岩陰を見つめている。
「……精霊たちが、こんなに構えるのも珍しいな」
シュウが眉をひそめながら呟いた。腰のあたりに手を添え、周囲の空気を確かめるように視線を走らせる。
「何か、見えないものがいる。……けど、敵じゃない。たぶん」
「この地には……まだ“力”が残っている。精霊にしか感じ取れないような……」
マコトのつぶやきに、誰も言葉を返さなかった。
ただ、足元の土が、どこかで眠っていた記憶を呼び起こそうとしているようだった。
*
「これは……」
ユリウスが崩れた石碑の一つに近づいた。
その表面には、かすれた古代文字が辛うじて残っている。
「読めるかもしれない。……けど、これは普通の契約文じゃない」
アリアもまた、祭壇跡と思われる広場の中央に立っていた。
そこには割れた円形の石が星型に並べられ、明らかに意図的な配置が施されていた。
彼女がそっとその中央に手を置いた瞬間。
光のような感覚が、指先から胸へと伝わる。
──記憶、だ。
目を閉じると、まるで夢を見るように、一瞬のビジョンが流れ込んでくる。
女性の姿。 栗色の波うつ髪。 祈るように跪き、何かを「封じて」いる。
(……カメリア?)
アリアの心が揺れたとき、モルンがそっとその隣に歩み寄った。 小さく息を吐くと、その息が炎となって、地面の上をなぞる。
炎は渦を巻くようにして広がり、やがて宙に一つの紋章を描き出す。
それは……星霊の印。
誰もが息をのむ中、アリアの中に“声なき声”が響いた。
『かつてここで、星と心を交わした者よ……今、契約は断たれた』
*
「契約が……断たれた……」
アリアの呟きに、ユリウスが険しい表情で頷く。
「封印じゃない。これは……裏切りの痕跡だ」
シュウが腕を組み、短く吐息をついた。
「“契約を断つ”ってのは、普通、精霊とやり合う時には起きないんだ。星霊って……何か違うのか?」
エリオットが、わずかに目を伏せた。
「精霊とは“調和”の契約だけど、星霊はもっと深い。たぶん……存在の在り方まで関わってるんだと思う」
「つまり……裏切った側にも、理由があったかもしれないってことか」
シュウの眼差しは、どこか遠い場所を見つめているようだった。
その横顔を見つめながら、アリアはそっと手を胸に置く。
モルンの温もりが、掌に静かに伝わっていた。
「……でも、その記憶の続きを……知りたい」
彼女がそっと呟いたとき、シュウが一歩だけ近づいてきた。
ほんのささやかな仕草だったが、それは“彼女を守る”という意思の表れだった。
「……あんまり無理するなよ」
小さな声だった。
けれど、確かにそこにあった優しさが、アリアの胸を温かく満たした。
*
そのとき、モルンが静かに祭壇跡の隅へ歩いていった。 そして、何かを見つけたように、口に咥えて戻ってくる。
それは、灰に埋もれていた一つの“祈りの石”だった。
アリアがそれを受け取ると、かすれた古代文字がかろうじて読み取れた。
「火に試されよ。されど、傷つけるなかれ……」
「それって……この炎が“誰かを守るためのもの”だったって意味か?」
シュウの言葉に、マコトがわずかに頷く。
「ああ。戦いの炎じゃなくて、“祈り”としての炎だ。……だがそれを、誰かが違う使い方をした」
エリオットが続けた。
「ならば、この谷が求めているのは、“再契約”か“償い”……あるいは、赦しだ」
*
アリアは、モルンの温かな体を抱きしめ、祈りの石にそっと手を重ねた。
その瞬間、石の文字がほのかに光り、モルンの体にも赤金の光が宿る。
それは、癒しのための炎ではなかった。
傷を癒すのではなく、記憶を灯し、契約を繋ぎなおすための炎──
「……モルン、あなたが護ってきたものを、私も……」
囁いたとき、大地がかすかに震え、ひと筋の赤い光が、地面の割れ目から立ち上る。
その瞬間、何かが動き出した気配があった。 まるで、その祈りが答えを引き出したかのように。
──星の巡礼の第二の門。ここに、再び目覚めの気配が宿る。
アリアは仲間たちを見渡した。
それぞれの瞳に、迷いはなかった。
「……次へ進もう。わたしたちの“星霊との約束”を、もう一度つなぐために」
“星霊の契約”が、今まさに、再び目を覚まそうとしている。
──第171話へつづく
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※このお話の舞台はヨーロッパ風異世界であり、現実世界の歴史とは一切関わりありません。
作中に出てくる 国・文化・習慣・宗教・風俗・医療・政治等は全てフィクションであり、架空のものです。
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