冷酷無慈悲な悪魔公女ですので暴君殿下に溺愛されても動じません【短編】
「悪魔公女様のお通りだ!道をあけないと殺されるぞ!」
アカデミーの卒業式からの帰り道、シルビアが長い廊下を歩いているとそんな冷やかしの声が耳に入ってきた。
声の方に顔だけを向けると、ニヤニヤと笑っていた小太りの男子生徒があからさまにうろたえ、顔を伏せたが、シルビアは目をそらすことなくまっすぐ彼の元に歩み寄った。
コツコツとシルビアの靴音が廊下に鳴り響く。周囲のアカデミー生は恐ろしいものでも見るかのように卒業証書で顔を隠し、これから起こる惨事を半分恐れ、半分期待していた。
目の前に立つシルビアをさすがに無視するわけにはいかないと思ったのか、男は気まずそうな顔のまま、おずおずと顔をあげてシルビアを見上げた。
女の割に高身長のシルビアは、ヒールをはいていると大体の男を見下すことになる。
誰もが凍りつくような冷たい視線を向ける彼女の姿は、「悪魔公女」呼ばれるのにふさわしかった。
「あの、公女様……何か御用でしょうか?」
先ほどシルビアの陰口を言った者とは思えない態度で、男は尋ねた。
これまでのシルビアは自分の悪い噂を耳にしても、自分を揶揄する声が聞こえてきても、無反応だった。言い返す価値もないと思っていたからだ。だからこそ、アカデミーを出れば立場が天と地ほどの差があるこの男も、堂々とシルビアに陰口を叩くことができた。
だが、今日は卒業の日。もうここに来ることもなければ、この男の顔を見ることもない。卒業祝いに、この男にとって忘れられない日にするのも悪くはないだろう。
シルビアは、蛆虫を見るかのような顔で男に言い放った。
「私のために道をあける必要もないし、あけなかったところで殺しはしないわ」
「いや……その、それは……」
シルビアの直接的な物言いに男は言葉を濁らせ、必死に言い訳を考えているようだったが、シルビアはお構いなしに言葉を続けた。
「けど確かに、あなたのような醜い小豚は隅の方に寄っていただけると助かるわね。気遣いに感謝するわ」
「……っ!」
シルビアの取ってつけたような笑顔は、明らかに相手を嘲笑していた。
男の顔はみるみるうちに赤く染まったが、シルビアは気に留めることなくアカデミーを後にした。
アカデミー生の間で「悪魔公女」と呼ばれているシルビア・シャーノンは、その名の通り、悪魔のように冷血無慈悲で、人を惑わす美しさを持つ貴族令嬢だった。
腰まで続く艶やかな漆黒の髪に、深いアメジスト色の大きな瞳は、彼女の美しさを際立たせる。恐ろしいほど優れた容貌を持つ彼女は、今年成人を迎え、さらにその美しさに拍車がかかったようだった。
そして彼女は、公爵令嬢という誰もが羨む地位に君臨するのみならず、限られたものしか入学を許されていない、王都唯一の総合アカデミーに首席で合格し、一位の座を誰にも譲ることなく卒業の日を迎えた。
しかし、前述の通り、その美しさや聡明さを持ってしても、シルビアは誰かに好かれるような人柄ではなかった。
飼っていたペルシャ猫が事故で死んだ時も涙は一粒も流れなかったし、クラスメイトが事故に遭い周囲は涙する中、シルビアは「そう」と短く反応するのみで、かわいそうなクラスメイトに同情している気配すらなかった。
シルビアが欠如しているものといえばそれだけではない。自分に対する親切心や好意にすら鈍感で、入学当初、心優しい子爵令嬢が一人で昼食をとっているシルビアに、「一緒にランチはどう?」と勇気を振り絞って話しかけた時でさえも、迷惑そうに眉を顰めていたのだった。
シルビアが卒業証書を片手にアカデミーの洋館から出ると、温かい風が頬を横切り、若葉が繁る木々はそよそよと笑った。
いい天気だ。それなのに、気分は晴れない。
重い足取りで中庭を抜けると、アカデミーの門の前に、公爵家の紋章が大きく刻まれた馬車が停まっていた。
「おかえりなさいませ」
馬車の前に立っていた執事のウィルソンが馬車の扉を開け、シルビアの手を取った。
幼い頃からずっとそばにいてくれたウィルソンもすっかり年老いたものだ。シルビアはウィルソンの深い皺が刻まれた手元を見てそう思った。
シルビアが馬車に乗り込むと、目の前に座ったウィルソンがニコニコと微笑みながらシルビアに話しかけた。
「シルビアお嬢様、ご卒業おめでとうございます」
「ええ」
「三年間も通っていたのに、もうここに来ることはなくなるなんて。寂しくなりますね」
「寂しくなんてないわ。友達は一人もできなかったもの」
そう言いながらもシルビアは相変わらずの無表情だったが、悲しげに眉を下げたウィルソンを見ると、何か間違えたことを言った気分になった。
シルビアが取ってつけたように、「けど、アカデミーは楽しかったわ。色々なことがあったもの」と付け加えると、ウィルソンの顔が少し柔らかくなったように感じた。
「ウィルソン、お父様はなにかおっしゃっていた?」
シルビアはふいにそう尋ねた。
「なにか、と言いますと?公爵様と何かお約束でも……」
「そうじゃないわ。娘の卒業式なんだから、祝辞の言葉くらいあるんじゃないかと思って」
シルビアの言葉にはわずかながら父親への期待が込められており、ウィルソンは言葉を濁しながら答えた。
「……お嬢様のご卒業を、公爵様はとても喜んでいらっしゃいましたよ」
「そう」
シルビアは、ウィルソンが嘘をついていることに気がついていたが、何も言わず窓の外に目を向けた。父親が自分に興味がないのはいつものことだった。きっと今日が卒業式だということも知らないのだろう。
御者の掛け声が聞こえ、シルビアを乗せた馬車が公爵邸へとゆっくりと動き出した。
今日はシルビアの婚約者、イヴァン・ザカルト王太子が卒業祝いに来る日だ。屋敷についたらすぐにこの制服を脱ぎ、鬱陶しいほど華やかなドレスとジュエリーで着飾らなければならない。
シルビアはため息をついて小窓から見える荘厳なアカデミーを名残惜しげに見つめた。
***
屋敷に着くとすぐに、メイドたちが急いでシルビアの身支度を始めた。
素肌に近い顔には細かく粉砕したダイヤモンドパウダーが含まれた白粉を叩き込み、口元には鮮やかな赤の紅を乗せ、長く美しい黒髪は椿油を染み込ませた櫛で何度もとかし、艶やかに仕上げた。
ドレスはシルビアの瞳と同じアメジストパープルで、シルビアの引き締まったくびれと豊かな胸元を際立たせるデザインだ。そして、V字に開いた胸元には大ぶりのダイヤモンドのネックレスをつけて、イヴァン王太子の婚約者、麗しきシルビア・シャーノン公爵令嬢が完成した。
シルビアは姿見に映る自分の姿を見てため息をついた。
今日身につけている物はすべて、イヴァン王太子からの贈り物である。
婚約者からの贈り物と言えば聞こえはいいが、すべては王太子の権力と財力を見せつけるためのものに過ぎない。彼はどんな思いで嫌いな女にこんな高価なものを送りつけたのだろうか、とシルビアは鏡から目を逸らした。
イヴァン・ザカルトは、一学年上のアカデミーの先輩だった。
彼はこの国の第一王子であったが不真面目で、アカデミーに入学後も勉学に励むことなく、周りの生徒に対して横暴に振る舞う暴君だと聞いていた。人の神経を逆撫でしてしまう自覚があったシルビアは、彼を遠目に見ることはあっても決して関わらないよう、できるだけ彼のそばには近寄らないようにした。
しかし、イヴァンとの接点は思わぬ場所でできてしまった。
アカデミーに入って数ヶ月経った頃、気心の知れた友人が一人もいなかったシルビアは、その日も一人、人気のない中庭のベンチに座り、昼食のサンドイッチを食べていた。学食に行けば豪華なランチが食べられるのだが、偏食のシルビアはそれよりも、ウィルソンが作るエッグサンドの方が好きだった。
そよそよと頬をくすぐる風を感じながら、ゆったりとした時間を過ごしていると、突然近くの茂みがゴソゴソと動き出した。
シルビアの眉がピクリと動く。
(もしかして、かかったのかしら……?)
最近、この辺りで野良の子猫をよく見かけるようになった。子猫は母猫に捨てられたのかいつも一人ぼっちで、ガリガリの身体をよろめかせながら、懸命に前へ前へと足を進めていた。何度か食べ物を与えようとしたが逃げられてしまったので、シルビアは罠を仕掛け、保護することにしたのだ。自分が気に入っている場所に、動物の死体が転がっているのを見たくはないからだ。
シルビアが忍足で茂みに近づき、パッと草を掻き分け見ると、そこにいたのは、顔を真っ赤にして倒れているイヴァン・ザカルト第一王子だった。
「お前、いいところに来た!これを今すぐ外せ!」
シルビアは狙いの猫ではなく、よりによって国に大切に保護されている第一王子が罠にかかってしまったことに落胆した。そして、ため息がこぼれるのをどうにか堪えながらイヴァンに声をかけた。
「殿下。そこで何をなさっているのですか」
「見てわからないのか!この忌々しいくくり罠に足をとられたんだ!ああ、腹がたつ!誰だ!こんなところにこんなものを仕掛けたのは!俺の命を狙った奴に違いない!死刑にしてやる!」
「それは猫を捕まえるためのもので、決して殿下を捕まえようと設置したものではありません。それに、それくらいで人は死にません」
「まさかお前がこれを仕掛けたのか!俺は何時間もここにいるんだぞ!餓死したらどうするつもりだ!」
「何時間も?なぜもっとはやく助けを呼ばなかったのですか」
「何度引っ張っても外れないから、いつの間にか疲れて寝ていたんだ!俺がこんな馬鹿げた罠にはまるなんて夢かと思ったが、さっき目が覚めたらまだ俺の足は縄に繋がれたままだ!」
「……そうですか」
シルビアは踵を返し、イヴァンに背を向け元いたベンチの方に歩き出した。
「待て!俺を誰だと思ってるんだ!この国の王太子、イヴァン・ザカル……」
「存じ上げております」
シルビアは、ベンチに置いてあったカバンの中から裁縫バサミを取り出し、イヴァンの元に歩み寄り、足に絡みつく縄を切った。
そして、虚をつかれたような顔でシルビアをじっと見るイヴァンに、彼女はこう言った。
「このまま放っておけば、夜には凍え、命の危険もあります。誰であろうと、そんな相手を見捨てていくことは決してありません。ですので、殿下がどのような立場にあり、どれだけの権力をお持ちなのか、わざわざ私に話す必要はありません」
「……」
「では、私はこれで……」
エッグサンドはまだ食べかけだったが、これ以上イヴァンと関わりたくなかったシルビアは颯爽と立ち上がり、その場を立ち去ろうとした。しかし、イヴァンは彼女を呼び止めた。
「ちょっと待て。この俺を罠にはめておいて、そのまま帰れるわけがないだろう」
「……」
シルビアがめんどくさそうに振り向くと、得意げな顔で腕を組んだイヴァンは、シルビアの元に歩み寄った。
こんなうつけ者でも皮肉なことにスタイルは抜群で、シルビアは仕方なく自分より背の高いイヴァンを見上げなければならなかった。
「俺が卒業するまでの間、お前は俺に勉強を教えろ。お前のことはよく知っている。シルビア・シャーノン公爵令嬢。アカデミーに首席で入学した天才なんだろう」
「その通りですが、殿下は私の一学年上ですし、勉強を教えるなんてとても……」
「だが、お前はすでに一学年上の教材まで予習して学んでいると噂で聞いた。違うか?」
「……違いません」
「なら、問題ないな!今日からお前は俺の専属家庭教師だ!」
ある程度の権威を持った公爵令嬢とはいえ、第一王子の命令を拒めるはずもなく、こうしてシルビアはイヴァンが卒業するまでの間、秘密の家庭教師として彼の成績をみるみるうちにあげていった。
イヴァンは噂通りのワガママ王子で、無理難題を押し付けシルビアを困らせることも多々あったが、意外にもシルビアから出された課題は素直に解いてきていた。
そのおかげか、一年以上学業をサボっていたにも関わらず、イヴァンは成績優秀者に選ばれるほどの実力を身につけ、無事にアカデミーを卒業した。イヴァンを溺愛している国王からは、数えきれないほどの贈り物をもらったという噂だ。
イヴァンとの約束は卒業までだったので、シルビアはもうあのワガママ王子と関わることはないのだとホッとしていた。約束通り、卒業式を終えてからのイヴァンは、シルビアと一切関わりを持たなかった。それどころか、今まで家庭教師を務めてきたシルビアに礼の一言もなく、アカデミーを去ったのだ。
何か褒美が欲しかったわけではないが、あまりの淡白な態度にシルビアは拍子抜けした。
しかし、これで重荷から解放されたのだ。
イヴァン卒業後、勉強を教えていた時間を大好きな読書にあて、有意義な最終学年の年を過ごした。
だからこそ、イヴァンとの縁談話が舞い込んだことはシルビアにとって寝耳に水だった。
イヴァンが正式に王太子として認められ、婚約者を選ばなければならないとなった時、必然的に公爵家の名前があがるのは当然のことだったが、自分が選ばれると思っていなかった。シルビアは面食らい、何度も父に「本当に私なのですか?」と聞き返したほどだ。
そんなことを思い出しながら、シルビアは不快そうにドレスの裾を少しあげて、部屋を出た。
身支度を整えてからほんの数分後、イヴァンが到着した。
客間でしゃんと背筋を伸ばし、イヴァン王太子を待つシルビアの堂々たる姿はまさに王太子妃にふさわしく、メイドたちは感嘆のため息を漏らした。
そして、そんなシルビアの姿を見て心を奪われたのはイヴァンも同様だった。
「殿下。本日はわたくしのためにわざわざ足を運んでくださり感謝いたします」
「……ゴホン、ああ」
シルビアの美しさに目を奪われていたイヴァンは、動揺を隠すかのように咳払いをした。しかしシルビアは、それを気まずさからのものだと解釈した。
「卒業のプレゼントを持ってきた。喜ぶがいい!」
「殿下から贈り物だなんて、喜ばないわけがありません」
その言葉とは裏腹に、シルビアの笑顔は身の毛がよだつほどの冷ややかなものだった。
しかし、鈍感なイヴァンがシルビアの本心に気付くはずもなく、得意げな顔でパンパンと手を叩き、使いの者を呼んだ。
すると、大きな赤い薔薇の花束を抱えた使者が部屋に入ってきた。
「薔薇を100本用意した!王都で一番の花屋で注文したんだ!どうだ、綺麗だろう」
「……ええ、とても綺麗ですね」
花束を受け取ると、両手で持つのがやっとなほどの重さだった。
ソファに座るのと同時に、メイドに花束を渡すと、イヴァンは怪訝な顔をした。
「まさか薔薇は好きじゃなかったのか?」
「いえ、好きですわ」
「ならなぜもっと喜ばない。この俺がお前のためにわざわざ店まで行って選んでやったんだぞ」
イヴァンの言葉に、シルビアは目を丸くした。
「殿下がわざわざ花屋に出向いたのですか?」
「そうだと言っているだろ」
とてもじゃないが信じられなかった。あのイヴァン・ザカルトが贈り物を自分で選ぶなんて。
「どうしてです?」
シルビアが疑問をそのまま口にすると、イヴァンは偉そうに胸を張って答えた。
「お前のことが気に入っているからだ」
「なんですって?」
「何度も言わせるな!お前を特別目にかけてやっているということだ!」
「はあ、そうですか」
公女らしからぬ間抜けな声が出た。
それも無理はない。自分の利益になることしか考えず、 他人への興味など一切ないはずのイヴァンが。家庭教師に任命しておきながら、あれだけ自分をこき使ったイヴァンが。自分を気に入っているだなんて。
それに、イヴァンの家庭教師をしている間は何度も口論になった。一度家庭教師という役割を担ったからには、必ずイヴァンの成績をあげたかったシルビアは、相手が第一王子であることは関係なく、厳しく指導したのだ。その甲斐あってイヴァンの成績はみるみるうちに上がったのだが、自分の学力のなさと、シルビアの要求の乖離にイヴァンはよく腹を立てていた。
「わからないと言っているだろ!」
「ですから、どこがわからないか聞いているのです。2つ目の計算式ですか?確かにこれは少し難しくて……」
「俺はどこがわからないかもわからないんだ!」
「困った人ですね。では、一から教えますので覚悟してください」
「くそっ!」
イヴァンが卒業するまで、そんな不毛な言い合いを続けていた。
あの乱暴なやりとりを思い返しても、イヴァンが自分を気に入っていたとは到底思えない。
イヴァンの狙いが何かはわからないが、どれだけ考えてもうつけ者の本心などわかるはずがなく、将来の王妃との関係を良好にするため言ったのだろうと、シルビアは静かに結論付けた。
そして、あれよあれよという間に王宮入りの日がやってきて、シルビアは自分のために用意された部屋で一人、紅茶を飲みながら読書を楽しんでいた。
来週は結婚式だ。式を終え、正式にイヴァンの妻となれば、王太子妃としての業務がわんさか舞い込むはずである。こんなに自由な時間を過ごせるのはこれで最後だと、シルビアは式までの間、好きなことをして過ごすと決めていた。
しかし、そう自分の思い通りにいかないのが、この華麗なる王宮だった。
「失礼します。シルビア様、少しよろしいでしょうか」
ちょうどこれから小説のクライマックスが来るというところで、誰かが部屋をノックした。
シルビアはため息をついて本を閉じ、ドアの方に顔を向けた。
「入っていいわ」
現れたのは、キャリー・ビスチェ伯爵令嬢だった。落ち着いたグリーンのドレスに身を包み、栗色の髪を後ろでまとめあげた彼女はにっこりと微笑んだ。
てっきり新しい侍女が挨拶にでも来たかと思ったが、予想外の来客にシルビアは姿勢を正した。
「突然どうしたのですか。用があるなら侍女に申し付けてくれればよろしかったのに」
そう言ってから気付いた。侍女でもない彼女がシルビアの部屋がある東宮殿に訪れることなど普通であれば考えられない。
怪訝な顔を向けると、キャリーが頭を下げた。
「イヴァン殿下に命じられ、本日からシルビア様の侍女としてお仕えさせていただくことになりました」
「まあ、そうだったのですね」
イヴァンには有能な侍女をつけてくれと頼んだが、まさかキャリーを選ぶとは思いもしなかった。
キャリーの父が当主を務めるビスチェ伯爵家は、いくつもの事業に成功し、貴族の中でも際立った商才を持つ一族だ。
何十年もの間、雑草として駆除続けていた草花が、ビスチェ伯爵家の手により食料として、そして加工して衣類として、さらには貴族夫人たちの間で爆発的に流行した香水の原料として、国の代表的な作物になったのはアカデミーの授業でも習うことだ。
だからこそ、伯爵の愛娘であり、商才に長けていると噂のキャリーを侍女として王宮によこすことなどあり得ないと思っていた。
「あなたのような有能な人がそばにいてくれるなら安心です。それにしてもビスチェ伯爵は王宮で働くことをよく許してくれましたね」
「私がお父様を説得しました。イヴァン様の頼みを断るわけにはいきませんから」
アカデミー内ではうつけ者と影で揶揄されていたイヴァンも、王宮内ではそれなりの威厳があるのだと感心した。
特にキャリーはイヴァンと同学年でアカデミーに在学しており、イヴァンがどれだけ曲者かをよく知っているはずだ。それなのに、父親を説得してまで王宮で勤めることを決めるとは。
「殿下への忠誠心が強いのね」
シルビアがそう感心していると、キャリーがにっこりと微笑んで言った。
「イヴァン様は結婚と恋愛は別々に考えてらっしゃいます。ですが、忙しい人ですから私をおそばに置いておきたかったんでしょう」
それはつまらない牽制だった。シルビアは黙り込み、なるほどと合点した。
つまりキャリーはイヴァンの愛人であり、側室が認められないこの国でイヴァンが愛する人と少しでも離れないために、シルビアの侍女として愛人をそばにおくことが、都合がよかったというわけだ。
「では、私はこれで失礼いたします」
「待ちなさい」
部屋から出ていこうとするキャリーをシルビアは引き留めた。
キャリーは待ってましたと言わんばかりの笑顔で振り向いた。
「なんでしょう?」
「紅茶をいれてくれるかしら。アッサムがいいわ。あとはそれに合うスコーンも」
そう言うと、キャリーは眉根を寄せ、シルビアをまじまじと見た。
「……かしこまりました」
「ありがとう」
シルビアはそう言うと、すぐにキャリーから視線を外し、膝の上に置いていた小説を開いた。
キャリーは納得のいかないような難しい顔をしながら一礼をして部屋を出て行った。
愛人宣言をしたのにも関わらず、シルビアから何のお咎めもなかったことが不思議だったのだろう。
一方で、小説を開いたシルビアは、なぜか続きを読み進めることができずに困惑していた。
文字を追うことはできても、内容がまったく頭に入ってこない。ここからが一番面白いところだというのに、頭の中はイヴァンに対する思いばかりだった。
(昔は女になど興味がなかったくせに、王太子になったら愛人を囲うようになるの?)
シルビアは苛立ちから本を思い切り閉じた。
豪勢なバラの花束をシルビアに送っても、イヴァンの心はビスチェ伯爵令嬢にあるのだ。
王宮での生活に慣れると同時に、徐々に状況を把握することができた。
キャリーに牽制された時から薄々気付いてはいたが、アカデミーを卒業してからというものの、イヴァンはもう腫れ物扱いをされるうつけ者ではなくなっていた。
イヴァンが卒業してすぐ、優秀な成績を収めた彼は王太子に任命された。以前は第一王子であるが、知能が低いことから王太子にはふさわしくないと宰相たちに反対されていたイヴァンの印象が、覆ったというわけだ。
それと同時に、貴族令嬢たちのイヴァンを見る目も当然変わっていった。
イヴァンは元々眉目秀麗で、黙っていれば麗しい貴公子だ。
学力が著しく低かった時には、その傲慢な態度や自分勝手な振る舞いは彼の印象をことごとく下げていたが、優秀な男児であることが認められた今は、その傲慢さもある種の威厳として映るらしい。
シルビアにとっては、イヴァンは今でもワガママなうつけ者であったが、どうやら世間一般では違うらしかった。
そして、イヴァンの立ち位置を完全に理解した頃、イヴァンがシルビアの部屋を訪れた。
「シルビア、出かけるぞ」
突然現れて何を言い出すかと思えば、外出の誘いだった。
外行きの服に身を包み、いつでも出かけられる準備ができているイヴァンと違って、シルビアはドレス姿とはいえ薄化粧のままだ。女性が準備に時間がかかることも考えずに誘ってくるところが、うつけ者のイヴァンらしい。
「今すぐには無理です。着替えも化粧もしなければいけませんし……」
「そんなものは必要ない。そのドレスで十分だろう」
「王太子妃がこのような格好で外を歩けば、この国の財政が疑われます」
「誰にも見られないから大丈夫だ!ほら、さっさと行くぞ」
てっきり公務のための外出かと思っていたシルビアは、眉を顰めた。
「待ってください。一体何をしに行くおつもりですか」
「デートだ!」
デート。
聞きなれない言葉に、思わずオウム返しをしてしまう。
「なぜ私と殿下がデートを?」
「わざわざ理由を言わないと出かけられないのか」
イヴァンが呆れたように言った。
未来の王太子妃という立場になったとはいえ、王太子の命令を拒めるはずもなく、シルビアは渋々重い腰を上げ、イヴァンの後について行った。
結婚式まではまだ時間があった。
それまでに親交を深めようということなのだろうか。
イヴァンに連れて行かれた先は、王宮の敷地内にある庭園だった。
「これは一体なんですか?」
「猫だ」
「見ればわかります。私が聞きたいのはそういうことではなくて、なぜこんなにもたくさんの子猫が集められているのかということです」
庭園の一角には腰の高さほどの柵で囲まれた場所があり、そこには十匹ほどの子猫が走り回ったり、木の切り株の上で昼寝をしていたりした。
イヴァンに言われるがまま柵の中に入ると、子猫がシルビアの足に擦り寄った。
「お前は猫が好きなんじゃないのか」
「好きでも嫌いでもありません。私が猫好きかどうかがこの状況と何の関係があるんです?」
「そうか。女の好みの移り変わりは早いな」
さっきから微妙に会話が噛み合わない。
シルビアはため息をついて、ニャーニャーと高い鳴き声をあげる白い毛並みの子猫を抱き上げた。
シルビアの細い指が、暖かくて柔らかい毛の中に埋もれていく。
(まるで綿毛みたいね。手を離したら飛んでいきそうだわ……)
ざっとすべての猫を目視で確認したが、どれもペルシャ猫のようだった。立派な毛並みに整った顔立ち。高価なペルシャ猫の中でも、さらに希少な子猫たちに違いない。税金の無駄遣いだ。
抱き上げた子猫の脇を持ち、高々と持ち上げる。
子猫は嫌がるそぶりもなく、つぶらな瞳でシルビアをじっと見つめた。
どうして嫌がらないんだろう、とシルビアは首を傾げる。
自分だったら、こんな風に好き放題されていたら、牙を剥いて噛み付く。しかし、子猫はそれすらもできない、そんな考えも浮かばない、か弱い存在なのだ。
シルビアがそっと子猫を下ろすと、近くにいた子猫が突然シルヴィアの手に噛みついた。
「痛っ……!」
思わず子猫から手を離す。手から少量の血が滲む。
「大丈夫か!」
シルビアの小さな悲鳴に、離れたところで猫と戯れていたイヴァンが駆け寄る。
「平気です」
そう言いながら噛んだ子猫を見ると、全身の毛を逆立てながら、シルビアを睨みつけていた。その後ろには、先ほどまで抱き上げていた子猫がのんびりと毛繕いしている。
「血が出てるじゃないか!」
イヴァンがシルヴィアの手を握り、悲鳴に近い声を出した。
昔から大袈裟な男だ。こんなのかすり傷のうちにも入らないのに、とシルビアは眉を顰めた。
「大したことはありません」
「この暴力猫め……!」
元は暴君と呼ばれていた者が発する言葉とは到底思えなかった。
猫の首根っこを掴もうと手を伸ばすイヴァンを制し、シルヴィアはそっとしゃがみ込んだ。
「もしかすると、この子たちは兄弟かもしれません。私が危害を加えようとしていると思い、身を挺して守ったのでしょう」
じっと子猫を見ると、シルビアを睨みつけながらも一歩一歩後退りし始めた。よく見ると、小さな足もガクガクと震えている。やはり、自分よりも何倍も大きい相手に怯えているのだ。それでも敵意剥き出しの目に、シルビアはふっと息を吐くように笑った。
「その子猫を飼うのか?」
すると、突然イヴァンがそう言った。
「この子猫を?なぜですか?」
「気に入ったんだろう。今日は俺たちが飼う猫を見に来たんだ。この中からお前が好きなものを選べばいい」
その言葉で、ようやく今日の目的が理解できた。イヴァンは自分の機嫌を取るために、こんなにもたくさんの子猫を集めたのだ。それも不思議なことにペルシャ猫だけを。
「聞きたいことはやまほどありますが……どうして同じ種類の猫ばかりなのですが?」
「昔、飼っていたペルシャ猫が死んだと言っていただろう」
確かに話したかもしれないと、かすかに残る記憶を辿る。
「お前があまりにも悲しそうだったから、同じ猫を用意したんだ。これだけいれば、寂しくないだろ?」
「私が悲しそうだった……?」
家で飼っていたペルシャ猫が死んだのは事実だ。しかし、悲しんだ覚えはない。
死んだ猫は、父の愛人が可愛がっていた猫だった。動物嫌いの父にねだり、美しい毛並みの猫を手に入れた彼女は、それと同時に公爵夫人の座も手に入れた。幼い頃に母親を亡くしていたシルビアは、新しくできた美しい母に喜んだが、彼女は突然できた娘を目障りだと罵り、時には腰が立たなくなるほどの暴力も振るった。
そんな女が可愛がっていた猫だ。どうして悲しむことがあるだろうか。
「殿下、それは誤解です」
そう言うと、イヴァンが首を傾げた。
「私が猫好きだというのも、猫が死んで悲しそうにしていたのも、殿下の勘違いです。ですので、この子猫たちを飼う必要はありません。放してあげてください」
「なら、お前が欲しいものはなんだ。言ってみろ」
「何もありません、殿下。何ももらわずとも、私が殿下に逆らうことは、決してありませんのでご安心ください」
「なんだと……?」
イヴァンはシャーノン家の力を恐れているようだが、シルビアをぞんざいに扱ったからといって、あの父は動かない。むしろ、いくらでも都合のいいように使ってくれとでも思っていそうだ。
しかし、シルビアがイヴァンに刃向かい、王室との関係が悪くなれば、父が黙っていないだろう。父にとって、自分はその程度の存在なのだ。
イヴァンが何か言いたげな様子でこちらを見ていたが、どこからともなく現れたイヴァンの執事によって遮られた。
「殿下、会議の時間です」
「今はシルビアと大事な話をしているんだ。会議は遅らせろ」
イヴァンがそう言い切ると、シルビア思い切り眉を顰めた。
こんな話より、公務の方が大事に決まっている。
「殿下、私のことは気にせずに、どうぞ公務を優先してくださいませ」
「だが……」
「それが私の唯一の望みです」
「本当のことを言え。俺に遠慮などする必要はない。それに……」
「殿下」
「……わかった。だが、後からちゃんと話そう。俺たちには対話が必要だ」
シルビアの強い語気に、イヴァンは納得のいかない表情を見せながらも、それ以上何も言うことなく去っていった。
(殿下も大変ね。嫌いな相手の機嫌をとらないといけないだなんて……)
イヴァンの後ろ姿を呆然と見ていると、シルビアの足元にはニャーニャーと子猫が擦り寄っていた。
さっき、シルビアに対して牙を向いていた子猫だ。危険な相手じゃないとわかれば、すぐに心を許し、甘えてくるのがこの種類の猫の特徴らしい。
「やっとわかった?私は悪魔の中でも、とびっきり優しい悪魔なのよ。恐れることはないわ」
そう言い聞かせるように頭を撫でると、子猫は気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らした。
***
その日の夜、夢を見た。
シルビアが二学年に進級した年、父、シャーノン公爵がアカデミーに訪れた時のことだ。
普段は無関心な公爵も、表向きは娘との関係は良好だと示す必要があった。生徒や教授たちの前では、シルヴィアの肩をだき、愛おしそうに微笑みかけ、甘ったるい言葉を浴びせた。
しかし、中庭に出て二人きりになった途端、公爵の顔の温度はみるみるうちに下がった。
シルビアの先を行く公爵が振り返り、氷のように冷たい視線をシルヴィアに向けると、刺々しく言った。
「シルビア。お前をアカデミーに入れたのはなぜだかわかるか」
「勉学に励むためです」
シルビアがなんの躊躇いもなくそう言うと、公爵はため息をつき、二人を囲うように咲いているつるバラの赤い花を引きちぎった。
「お前は誰が見ても美しい、この王国で一際輝く赤い薔薇だ。誰もが欲しがるその薔薇は、私が育て上げ、今もなお私の手の中にある。この薔薇を手にいれるために、人々はいろいろなものを私に与えようとするのだ。中には自分の命を差し出そうとする者もいるだろう」
「……一体何をおっしゃりたいのでしょうか」
シルビアの顔を、公爵の冷たい目が刺すように見つめた。
「シルビア、お前には絶大な価値がある。だが、それはお前のものじゃない。お前が自由に使えるものでもない。必要なものを手に入れるときの、切り札としてお前を大切にとっておいたんだ」
「必要なもの、ですか」
「必要なもの、つまり、絶対的な権力だ。民を従え、国を支配し、王族までもが私にひれ伏す。そんな未来がもうすぐ来る」
公爵は悦に入るように空を仰ぎ、両手をめいいっぱい広げ、息を思い切り吸い込んだ。
そして、息を吐き切ったあと、遠くを見るような顔で言い放った。
「それなのに、お前はなぜイヴァン・ザカルトと親しくしているんだ」
「……!」
突然父の口から出た"イヴァン・ザカルト"という言葉に、エレノアは胃液が喉までせり上がってくるのを感じた。
イヴァンと会っていたのは学園内のみであり、授業も人気のない場所を選んでいた。まさか父親に知られているとは思わなかったのだ。
「アカデミー内でのお前の行動はすべて把握している。私に隠し事など不可能だ」
そう言うと、公爵はシルビアの顎を持ち、まじまじとその美しい顔を眺めた。
「第一王子とはいえ、あの方が王太子になることはないだろう。無能で威厳もなければ、この国のトップに立てはしないうつけ者だ。それなのに、なぜお前があの方と共にいる?」
「学業を……手伝ってほしいと頼まれたのです。うつけ者でも彼は王族です。逆らえば、どんな罰が下るかわかりません」
「学業を手伝うだと?それはお前のやることでない、教師の仕事だろう」
最もな父親の言葉に、シルビアは閉口した。
「うつけの相手はほどほどにしろ。お前が今できることは、有力な貴族の子息たちとの関係を良好に保つこと。王太子となる第二王子に見初められることだ」
「……はい」
「これ以上私を失望させるな」
公爵はそう言い残し、その場を立ち去った。
シルビアが父の後ろ姿を見ることなく俯いていると、近くの垣根からゴソゴソと音が聞こえた。
シルビアがハッと音がする方に目をやると、そこにはイヴァンがいた。
また授業をサボって寝ていたのだろう。ひどい寝癖がついたまま、ふらっと立ち上がった。
「殿下……」
シルビアが驚きのあまり、何も言えずにいると、イヴァンはぷいとそっぽを向いた。
「俺は何も聞いていない」
そう言い捨てると、イヴァンはシルビアの目を見ないまま、背中を向け走り去っていった。
(待って……!)
イヴァンを追いかけたいのに、シルビアの身体はピクリとも動かなかった。
動こうと力をいれるほど、身体がこわばる。
(息が……っ)
ヒューヒューと喉が鳴る。思い切り息を吸いたいのに、酸素が徐々に薄くなっているような気がする。
どんどん遠くなっていくイヴァン。動き出せないシルビア。二人の距離が離れていくたびに、シルビアの身体は冷たくなっていった。
そうして、シルビアは目を覚ました。
その夢の鮮明さは、シルビアを憂鬱にさせた。
(彼を、深く傷つけてしまったに違いないわ……)
あの日から、イヴァンの態度はがらりと変わった。
アカデミーの授業には休まず参加し、シルビアの授業で居眠りすることはなくなった。その代わり、シルビアの前ではまったく笑顔を見せなくなった。
おそらく、「うつけ者」と呼ばれたことへの当てつけだろう。それまでは、ふざけてばかりでじっと座っていることなどなかったが、シルビアが教科書の解説をしている最中も黙々とメモを取り、文句一つ言わず課題をこなした。
無能と呼ばれていても、第一王子には変わりない。あんなことを聞かれてしまったのだから、罰せられても不思議ではなかった。
しかし、イヴァンは何も言わず、まるで何もなかったように、シルビアの授業を受け続けた。
人が変わったように学業に意欲的になったイヴァンを前に何も言えず、シルビアは卒業の日まで家庭教師をまっとうした。
そんな過去の記憶に胸を痛めていると、部屋に重いノック音が響いた。
軽く部屋着を整え、「どうぞ」と声をかけると、現れたのはイヴァンだった。
「殿下……」
「朝早くにすまないな」
「いえ……用件はなんでしょうか」
「君の父上について、聞きたいことがある」
「お父様のこと、ですか……?」
***
「どうしてそう無理をなさるのです。殿下のご病気は陛下も承知のはずです」
イヴァンが万年筆片手に、頭を抱えていると、執事のアルヴィンが尋ねた。
「民のために、俺が無理をせずどうする。それに、俺が無理をしないと、あの悪漢からシルビアを守れない」
そう言って、イヴァンは顔をあげることなく、黙々と手を動かし、公務に取り組んだ。
イヴァンは難読症と呼ばれる、文字を読むことが困難である病気を持っていた。どれだけ目を凝らしても、文字がぐにゃりと歪み、なんと書いてあるのかが判別できない。読める文字もあったが、まとまった文章を滞りなく読むのには時間がかかった。だから、無理やりいれられたアカデミーでも、勉強する気はまったく起きず、自暴自棄になった。自分が周囲から「うつけ」と呼ばれているのはなんとなく知っていたが、言い返すのも億劫だった。
しかし、シルビアと出会ってから、その気持ちはガラリと変わった。
初めて会ったときから、シルビアは読めない女だった。冷たい顔をしてイヴァンを蔑んでいるかと思いきや、あっさりと手を差し伸べ、見返りも求めなかった。アカデミーきっての才女で、容姿端麗な公爵令嬢にも関わらず、友人は一人もいないようだった。どんな物でも手に入る権力と財産を持っているのに、昼はいつも同じエッグサンドを頬張り、余ったパンの欠片を猫に与えていた。
はじめは興味本位で家庭教師をしろと命じたが、意外にも真面目に授業をするシルビアの姿を見ているうちに、いつも変わらない表情も、実は少しずつ変化していることに気がついた。
シルビアの好きな科目は数学だ。数学を教える時は、いつもより少し早口で、ツンとした顔で問題の解法を教えてくれる。逆に苦手な科目は、文学。難しい言葉を知っているのに、肝心の読解は苦手なようで、たまにシルビアの回答と模範回答が異なっている時は、あからさまに不機嫌な顔をして、足を組んだ。
好きな食べ物はエッグサンド。執事のウィルソンお手製の物らしい。授業が終わった後、エッグサンドを頬張るシルビアの頬はほんのり紅潮し、まばたきはいつも以上にゆっくりになる。
学業を手伝ってもらうつもりが、イヴァンはシルビアが見せる様々な顔に夢中になった。
その変化を見逃さないように、居眠りをするふりをしながら、こっそりシルビアの横顔を見つめた。
ずっとこんな日が続けばいい。
そう思っていたイヴァンも、シルビアとシャーノン公爵の会話を聞いて、危機感を抱いた。
(いつかはアカデミーを卒業しなくてはならない。公爵令嬢であるシルビアは、王室か、有力な貴族の元に嫁ぐのだろう。そうなれば、もう俺は……)
いつかシルビアに会えなくなる。
そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。
その日から、イヴァンは人が変わったように学業に精を出した。
「うつけ者」をやめ、シルビアにふさわしい王太子になるために。
しかし、どんなに努力しても字を読むことが困難なのには変わりがない。公務に支障がでないよう、会議資料はアルヴィンが読み上げ、考える時は手を動かした。
そんなイヴァンを見て、アルヴィンは安心したように微笑んだ。
「殿下は、シルビア様と出会ってからすっかり変わりましたね」
「そうか?確かに以前より知識はついたと思うが……」
「いえ、そうではなくて……」
そう言うと、アルヴィンは照れたように手の甲をさすった。
「殿下は本当に、玉座にふさわしいお方になりました」
イヴァンの一つ下の第二王子は一見愛想がいい好青年で、イヴァンより優秀ではあったが、愛他主義者のイヴァンとは違い、民の幸せより自分の利益を重要視する男だった。飢えや病に苦しむ人々に寄りそう考えを持たず、自分の権威を高めるためだけに他国との戦争を渇求していた。
それを国王は見抜いていたのだろう、難読症であり王太子になるのは絶望的だったイヴァンを、無理やりアカデミーに入学させ、なんとか国の未来を繋ごうと必死になっていた。
国王がイヴァンがアカデミーでうまくやれていたか気に揉んでいた日々を思い出し、アルヴィンが感極まって目頭を抑えると、足元でニャーという小さな鳴き声が聞こえてきた。
白髪が混じる髪の毛を手で撫でながら、アルヴィンは遠慮がちに尋ねた。
「殿下。ずっと気になっていたのですが、なぜここに子猫が……」
「ああ」
イヴァンは、アルヴィンの足に擦り寄る子猫と、机の上で優雅に寝ている子猫を交互に見て言った。
「この二匹は兄弟なんだ。離れ離れにしたらかわいそうだろう」
「いえ、二匹という点について気になっているわけではなく、なぜ子猫がこの部屋に……」
「シルビアがこの二匹を気に入っていたんだ」
「シルビア様が?ですが、殿下の話によると猫を特別好んでいるわけではないと……」
「そうは言っていたが、シルビアは確かにこの二匹を気に入っていた。愛おしそうに微笑みかけていたからな」
アルヴィンは首を傾げた。
彼が知る限りでは、シルビアは動物に微笑みかけ、愛でるということをしない人物だ。婚約者であるイヴァンにさえいつも冷たい態度を取り、ほとんど動かない表情は、いくら目を凝らしても何を考えているのか見当もつかない。
「そういえば、猫の飼い主はすべて見つかったんだよな?シルビアは他の猫の行く先も気にしていたから、後で報告して安心させないとダメだ。あいつは不安なことがあるとすぐ眠れなくなるんだ」
「……はい。では、シルビア様には後ほどまとめて報告させていただきます」
いくつか猫に関する指示を受けたアルヴィンは、イヴァンの書斎を後にした。
歩きながらシルビアの姿を頭の中で思い描くが、どうしてもイヴァンが言っていた姿が想像できない。
冷ややかな目、不愉快そうに歪む口元、苛立ちさえ感じさせる仕草。思い出す彼女の姿は、悪魔公女と巷で呼ばれるだけの、冷酷無慈悲さが滲み出ていた。
「殿下にしかわからない何かがあるんでしょうな」
アルヴィンはそう言って、猫たちのおやつを取りに倉庫へ向かった。
***
結婚式を目前に控えたある日、シルビアの父、シャーノン公爵がシルビアの元を訪れた。
シルビアはできるだけ心を無にして、父の言葉を待った。
「式を終えれば、お前は王族に、そして次期王妃となる。この国を掌握する唯一の女性となるのだ」
「……はい」
自分が王妃になったとしても、この国を掌握するのは父になるはずだ。
シルビアは生まれた時から今までずっと、父の犬として生きてきたのだから。
顔色一つ変えずに、人形のように座っているシルビアを見て、公爵は愉快そうに笑った。
「ははっ、さすがは私の娘だ。こんなに重大な日が迫っているにも関わらず、表情一つ変わらないとは。あのうつけ者と結婚する不幸を前にすれば、お前の美しい顔も少しは歪むと思ったが……」
「うつけ者」という言葉に、シルビアの眉がピクリと動いた。
今のイヴァンはもううつけ者ではない。それは世間も、現国王も認めていることだ。
父の言っていることは間違っている。
「少し知恵をつけたところで、所詮はうつけ者。お前ならあの男を手玉に取れるはずだ。どんな人間でも弱みはある。そこを徹底的につくんだ。一つの真実さえあれば、残りの九つが嘘でも真実に見える。ああ、想像するだけで震えが止まらない。あいつを玉座から引き摺り落とし、私がこの国の頂に立つ日がもうすぐ来るのだ……!」
浮かれる公爵の姿を見て、シルビアは憂鬱な気持ちになった。
公爵はすでに王家をのっとる手筈は整えている。あとはイヴァンに罪をなすりつけ、断罪台に送るだけ。そのためには、シルビアの力が必要なのだ。
「……できません」
シルビアの呟きに、公爵が声を低くした。
「今、なんと言った?」
「私には、殿下の弱みを握ることはできません。ですので、お父様の命令には従えません」
公爵の顔はみるみるうちに真っ赤に染まり、鼻孔は怒りでピクピクと痙攣していた。
それでもシルビアが発言を撤回することはなかった。シルビアがこう言ったのにはわけがあったからだ。
イヴァンには、弱みなどないのだ。アカデミーで嫌と言うほど彼に接してきたからわかる。
悪人は誰もがずる賢いが、「うつけ」と呼ばれた彼の心はまっさらで汚い欲望は一切ない。
シルビアは目を見開いたまま固まっている父親に向かって、追い討ちの一言を発した。
「彼はもううつけ者ではありません。彼は、お父様よりはるかに賢明な人です」
「お前……!いつからそんな口の利き方をするようになったんだ!」
鼻孔が膨らませながら、怒鳴り散らす父を見ても、シルビアの顔色は変わることがなかった。
その時初めて、公爵は自分の娘の無感情さに腹を立て、腕を思い切り振り上げた。
(大丈夫。一瞬で終わるわ)
そう心で唱え、痛みを覚悟したシルビアはぎゅっと目を瞑る。
その時だった。
「私の妻に何をするつもりですか、シャーノン公爵」
その凜とした声に、シルビアがそっと目を開けると、イヴァンが公爵の腕を掴んでいた。
見たこともないような恐ろしい顔で公爵を睨みつけるイヴァンは、シルビアが知るイヴァンとはどこか違って見えた。
公爵は手を下ろし、とってつけたような笑みを浮かべ、イヴァンに頭を下げた。
「これはこれはイヴァン殿下、お見苦しいものをお見せして申し訳ございません。ふつつかな娘ですので、しつけをしておりました」
「王太子妃となるシルビアにしつけ、ですか?」
「言葉を選ばず言えば、シルビアは殿下の妻であるより前に、私の娘です。まだ結婚式も挙げていないのですから、娘を教育するのは私の仕事です」
物言いは丁寧だったが、公爵の笑みには、イヴァンに対する侮蔑の色が浮かんでいた。
「お前ごときが俺に指図するな」
そう遠回しに言っているのが、イヴァンにもきっと伝わっている。
そう思い、イヴァンの顔をちらと見ると、彼は愉快そうに笑っていた。そして、うやうやしく頭を下げる公爵を見下ろし、言い放った。
「なら、こちらも言葉を選ばずに言おうか。反逆者であるお前が、彼女の前に立つ権利はない」
公爵は勢いよく顔を上げ、大きな身振りで否定した。
「な、何をおっしゃるのですか!私は王国に逆らう気など……」
「連れてこい!」
イヴァンが声を張り上げると、廊下から近衛兵たちが入ってきた。そして、その中には近衛兵たちに囲まれ、青ざめた顔で項垂れる、ミラノ侯爵がいた。
公爵はその姿を見て途端に黙り込んだ。
ミラノ侯爵は、現国王の側近であり、彼の発言は国の重要政策会議でも一目置かれている。そのせいで、思い上がってしまったのだろう。国を牛耳っているのは国王ではなく、この私だ。私こそが国のトップに立つにふさわしい、と。そんな心驕りにより、公爵の無謀な謀反計画に足を突っ込むことになったというわけだ。
「公爵。なぜミラノ侯爵が捕えられているのかわかるか」
声色が変わったイヴァンに、公爵は少なからずたじろいでいた。
「いえ、私にはなんのことかわかりかねますが……」
「公爵!」
目をそらす公爵に、ミラノ侯爵は悲鳴のような叫び声をあげた。
「お前はここにいるミラノ侯爵と共に、謀反を企んでいた。違うか?」
「殿下、言いがかりはよしてください!大体、どこに証拠があるっていうんです?」
公爵の顔には焦りが見えたが、まだ全てを投げ捨てる時ではなかった。
計画はまだほんの序盤だった。徐々に税金を増やし、農作物の流通を抑え、作為的に飢饉を起こす。その時、王家の贅沢ぶりを世に示すつもりだった。王家が民を裏切ったと、民を見捨てたのだと打ち明け、民意を意のままにする。自分こそがこの国の救世主なのだと、搾取を続ける王家を断罪しようと、公爵が声高々に呼び掛ければ、誰がトップに立つかは明らかだった。
(ミラノ侯爵が計画を洩らしたとしても、白を切ればいいだけだ。私が裏で手を引いている証拠など、このうつけ者が手にするはずがない……!)
公爵はその思考回路の中で自信を取り戻し、イヴァンに微笑んだ。
「さあ、殿下。おっしゃってください。もし証拠もなくそのようなことを申し上げているのであれば、いくら殿下とはいえど虚偽の申告で……」
すると、イヴァンが近衛兵から箱を受け取ったかと思うと、その蓋を開けて中に入っていた大量の手紙を床に勢いよく撒き散らした。
「一体何を……!」
「この手紙に見覚えはないか?」
イヴァンがにやりと笑うと同時に、公爵の顔から笑顔が消えた。
「証拠ならここにたんまりとある。これでも足りないというのか?」
(どうして侯爵との手紙がここにあるんだ!?書斎の金庫にしまっていたはずだ、それなのになぜこいつが……!)
額に脂汗を滲ませた公爵は、イヴァンのそばに立つシルビアを見て、ハッとした。
「お前か!お前だな!!」
シルビアにつかみかかろうとする公爵に、イヴァンが剣を向ける。
「彼女に近寄るな。無礼だ」
ギリリと歯軋りをし、こちらを睨む父を見て、シルビアは耐えきれず目を逸らした。
「シャーノン公爵を捕えろ」
イヴァンの一言で、近衛兵たちが公爵を押さえつけ、外へ引き連れていった。
最後に見た父の血走った目には、娘の裏切りに対する懐疑と憎悪が混じっていた。
「シルビア!お前をここまで育ててやった父親を裏切る気か!」
「……」
「聞いているのか!お前は一人じゃ何もできないんだぞ!俺がいなくなれば、お前も終わりなんだ!」
「……」
「俺から離れても、また利用されるだけだ!お前はいつまでも操り人形のままなんだよ!」
廊下から響く公爵の叫び声が、シルビアの中でこだまする。
ぎゅっと拳を握ると、イヴァンがシルビアの耳を塞ぐように、ぎゅっと抱き寄せた。
「殿下、何を……」
「あんな悪魔の叫びは聞かなくてもいい」
「……」
「俺だけに耳をすませるんだ」
耳元でイヴァンの規則正しい心音聞こえる。その音に集中していると、父の言葉が徐々に薄く消えていった。
***
シャーノン公爵が逮捕された日、シルビアとイヴァンはお互いの誤解を紐解くように語り合った。
文字をほとんど読めないイヴァンが、突然学業に精を出した理由。シルビアに何も言わずアカデミーを卒業した理由。婚約者にシルビアを指名した理由。すべてが自分を守るためだと知り、シルビアはむず痒い思いでイヴァンの話を聞いた。
そして、イヴァンはシルビアを魔の手から助け出すための計画を練った。シルビアに影響がないよう、全ては婚姻前に片付ける必要があった。
イヴァンが公爵の前に出したミラノ公爵との手紙はすべて、あの日のために用意した偽物だった。
事前にシルビアから公爵の筆跡がわかるものをもらい、封筒の外側には筆跡を真似して宛名を書いた。それを見て、公爵が勝手に勘違いしたというわけだ。
「公爵が怪しいとはわかっていたんだが、なかなか確固たる証拠が見つからなくてな」
イヴァンはそう言って、紅茶を口にした。
こうして見ると、本当に絵になる男だと、シルビアは思った。アカデミーの中庭で、だらしなく昼寝している男の姿はもうここにはない。
「それにしても、どうして殿下はご病気のことを教えてくださらなかったんですか。もし教えてくだされば、もっと他の方法で勉強を教えることができましたのに……私に隠さなければいけない理由でもあったんですか」
すると、イヴァンはふんと鼻を鳴らして偉そうに言った。
「そんなの決まってるだろう。好きな女に同情などされたくはないからだ」
堂々と好きな女と呼ばれ、自分の意思とは裏腹に心臓が跳ねる。それを誤魔化すかのように呟いた。
「……殿下はそうやって、王宮に来る女性たちを翻弄していたんですね」
「どういう意味だ?」
「わからないなら結構です」
「なんだ?なぜ不機嫌になるんだ」
「不機嫌になどなっていません」
イヴァンと言い合いをしているうちに、アカデミーで過ごした日々のことが思い出された。
(あの日々が懐かしいわね……)
そう思って、ふと気がついた。自分はあの時のイヴァンとの思い出を愛しく思っているのだと。
最初は「厄介なことに巻き込まれた」と乗り気じゃなかったイヴァンの家庭教師役も、自分じゃ考えもしないような回答を持ってくるイヴァンに、なんだか心が軽くなった。他の生徒は皆シルビアを怖がり、冷徹な悪魔だと噂したが、イヴァンは無愛想なシルビアを揶揄って遊んだ。
アカデミーで友達は一人もできなかったけれど、シルビアには教えがいのある生徒ができた。
シルビアはそんなイヴァンとの愛おしい思い出を巡り、諦めたように息を吐き出した。
「殿下との縁談の話を聞いた時は信じられない気持ちでいっぱいでしたが、この短い期間でまさか婚約破棄をすることになるとは思いもしませんでした」
「婚約破棄だと?」
「殿下もわかっているはずです。謀反人の娘との結婚など、国民は許すはずがありません」
そう言って静かにティーカップを置くと、シルビアは音もなく立ち上がった。
「私は王太子妃に、殿下の妻にはふさわしくありません」
「シルビア……」
「婚約破棄いたしましょう」
シルビアがまっすぐにイヴァンを見てそう言うと、イヴァンはその目を離すことなく言った。
「俺がずっと前からお前を好いていると言っても、か?」
イヴァンの言葉に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
王宮に入り、イヴァンと過ごすうちに、彼の気持ちには薄々気がついていた。しかし、その思いを心から信じることが出来なかった。人の心を持たない悪魔公女と呼ばれる自分が、誰かから愛されるわけがないのだと。
ああ、どうしてだろう。さっき紅茶を口にしたばかりなのに、喉が渇いて仕方がない。
シルビアは小さな瞬きを何度も繰り返し、自分の手の甲をじっと見つめた。
「私は……、私は、正しい選択をするつもりです」
「俺から離れることが、正しい選択だというのか?」
「……はい」
そう短く返事をすると、イヴァンは押し黙った。
このまま彼の前に立っていると、あまりの悲しさに倒れてしまいそうだった。
「ではこれで、失礼致します」
シルビアはイヴァンに背中を向け、出口へと向かった。
足を進めるシルビアの背後から、イヴァンの硬い声が聞こえる。
「本当にいいのか」
「はい」
「その気持ちはもう変わらないのか」
「はい」
「ならどうして……!」
立ち上がったイヴァンがシルビアの腕を掴み、思い切り引き寄せた。
イヴァンの苦しそうな顔に、胸が苦しくなる。
「……っ」
「どうして……泣いているんだ」
シルビアはそう言われて初めて、頬に伝う涙にそっと触れた。
(私、泣いているの……?)
一度流してしまったら、もう止まらない。熱い涙がとめどなく溢れ出て、ドレスを濡らした。
「わた、私は……」
嗚咽を堪え、必死に声を出す。
本当はその胸に飛び込んで、彼の匂いを思い切り吸って、声をあげて泣きたい。
そんな気持ちの横で、薄暗いモヤが心を侵食しようとしていた。
(もし、彼が私に飽きてしまったら?)
(もし、彼が私に絶望してしまったら?)
(もし、彼が私を憎むようになってしまったら?)
(もし、彼も父と同じように私を見捨てたら?)
すると、イヴァンがシルビアを抱き寄せた。
「殿下……?」
「俺は、お前を見捨てたりはしない」
イヴァンの手にぐっと力が入る。
「城の頂上から落ちてきても、俺は必ずお前を受け止める」
うつけ者め。あの高さから飛び降りれば、受け止める方も無事でいられるはずがない。
「ビスチェ伯爵令嬢はどうするんですか」
突然シルビアがそう尋ねると、イヴァンは意外な名前に思わず聞き返した。
「ビスチェ伯爵令嬢?」
「殿下と特別な関係だと聞きましたが」
「特別……?ああ、そういえば誕生日が同じらしい。それがどうした?」
イヴァンとビスチェ伯爵令嬢の間に何もないとわかっていながら、聞いてしまう自分に呆れて笑ってしまう。
「いえ、なんでもありません。ただ、私を好いていてくださるとおっしゃっていたのに、私以外の女性の誕生日を覚えているのはどうなんでしょうか」
「……よし、もう忘れたぞ」
シルビアは笑い声をあげるのをこらえ、イヴァンの背中にそっと手を回した。
彼の背中は大きくて、温かった。
***
「これより、王太子イヴァン・ザカルトと、シルビア・シャーノンの結婚式を執り行います」
神父が二人の間に立ち、誓いの言葉をすらすらと口にした。
聴衆は皆、過去にうつけ者と呼ばれ蔑まれてきたイヴァン・ザカルトと、才女であるが感情が欠如している悪魔公女シルビアシャーノンを見て、冷笑を浮かべ、囁きあった。
「お似合いの二人だな」
「ああ、どちらとも大きなものが欠如している」
神父が神への誓いを終え、二人に向かって言った。
「その命が尽きる最後の日まで、互いを尊重し、互いを思いやり、互いを愛すことを誓いますか」
シルビアが「はい」と返事をすると、顔をしかめたイヴァンの口が動き、シルビアがきょとんとした顔で見つめた。
そして、しばらくすると、
「ふっ……ふふっ」
と、シルビアが声を漏らし、小さく笑った。
すると、それを見ていた聴衆がざわついた。
「悪魔公女が笑ったぞ……!」
「あのシルビア様が?一体何があったんだ?」
「いやいや、それにしても……」
なんと美しい——。
シルビアの笑顔を見た人々は皆、ほうっと満開の花が咲いたような眩しい笑顔に釘付けになった。
ざわめきに気づいたイヴァンが、怒ったように眉を吊り上げる。
「あまりそのような笑顔を皆に見せるな……!」
「なぜです?」
「特別だからだ!」
イヴァンを胸を張ってそう言った。目の前の愛しい男を抱きしめたい気持ちをぐっと堪え、シルビアはじっと見つめ返した。
「それでは誓いのキスを……」
イヴァンがシルビアのベールをそっと持ち上げる。近づく真剣な表情に、なぜか愛おしさが込み上げる。
——最後の日などない。俺は来世もお前と結婚するつもりだ。
うつけ者の堂々たる宣言を思い出したシルビアは、またくすぐったいような気持ちで笑みをこぼした。
fin.
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