第七十話 再会
魂が殺される感覚、などとそんなの想像すらできないだろう。
目元から腰まで覆うように伸びたボサボサの茶髪、絵本の中の魔女のように全身真っ黒なローブにとんがり帽子をかぶったシャルリアは知っている。
肉が裂かれる痛みも、骨が砕かれる痛みも、内臓が潰れる痛みも味わい尽くしてきたが、魂が殺される感覚はそもそも痛みなどという言葉で説明できるものではなかった。
根源的な恐怖。
高所に立つと身がすくむように、刃物を向けられると全身に震えが走るように、真っ暗な閉鎖空間に長時間閉じ込められると精神に変調を来すように、どんな人間にも共通で畏怖するものというのは存在する。
大抵は訓練などで緩和できるかもしれない。あるいは頭のネジが外れた者であれば恐怖心を感じないというのもあり得るだろう。
だけど魂を殺される時の感覚にそんなものは通用しない。
完全に記憶に残っているだけでも数千回の死。そのほとんどが最後には魔王の瘴気によって魂までぐずぐずに溶かされた末にシャルリアは殺されている。それでもあんなものに慣れるわけがなかった。
生命が穢され、消失していく感覚。
最も繊細で大切な純白の尊厳をヘドロで真っ黒に染めるような所業。
あれは、この世のどんな苦痛よりも恐ろしいものだと断言できる。
耐えられるかどうかという以前の問題だ。
そもそも人間はあんなものに耐えられるようにできていない。
それでもシャルリアは諦めきれなかった。
どう足掻いても逃げられない、というのももちろんあっただろうが、何より脳裏に焼きついたアンジェリカの死に顔がどうしても許容できなかったから。
完全に記憶を保持できるようになる前の、いつかの時間軸。もう細部までは思い出せないが、シャルリアは確かに目の前でアンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢を死なせてしまった。
その後悔は、あるいは魂を殺し尽くされる根源的恐怖よりも強烈にシャルリアを殺していたのかもしれない。
だからこそアンジェリカだけでも救うと誓っていたが、正直に言えばそんな想いも折れかかっていた。
何度も何度も何度も丁寧に魂を殺された。普通の人間なら一度しか味わわない死を、それも極限まで苦痛に塗れた死を無数に繰り返した結果、確かに存在していたはずの想いも擦り潰れそうになっていた。
そんなシャルリアを、アンジェリカはいとも容易く救ってくれた。
『たすけて、アンジェリカ様』
『ふんっ。最初っからそう言えばいいのですわよ!!』
持っている力は『特別』なくせにどこまでも弱いシャルリアを、折れかかってもう魔王に立ち向かう気力もなかったシャルリアを、簡単に掬い上げてくれた。
左手小指。
ダイヤモンド『のような』輝きを放つ指輪がそこにある。
果たしてアンジェリカはその意味を理解していたのか。
左手小指に指輪をつけるとは、すなわち願いを叶えるという願掛け。
もっと言えば恋にまつわる願い事を叶えるためのものだということを。
「……は、はは」
もちろん超常的な効力があるわけではない。
左手小指に指輪が輝いているからといって、アンジェリカが『そういうつもり』だったのかどうかはわからない。
だけど、今、シャルリアはそんなことを考えて胸が高鳴っている。
それくらい心に余裕がある。
もう死んで楽になりたいなどと、悲観して絶望してはいない。
「今度こそアンジェリカ様を助けてみせる」
力強く、自身に刻み込むように呟く。
この想いは絶対に折れない。折れる理由がない。
これ以上は一度だってアンジェリカを殺させやしない。
今日ここで、今度こそ、ハッピーエンドを掴み取ってやる!!
「『魂魄燃焼』ッッッ!!!!」
とんがり帽子の中に隠していた『それ』を掴み、取り出す。
両手に包むように握る『それ』に純白の光が集まる。ガルドのような勇者パーティーの一員や各国の優れた戦士、果てはエルフの長老の娘や天使とかワルキューレとかの因子を組み込んだ美女の魔力が『調整』され、ダイヤモンド『のような』魔法道具からシャルリアに注がれ、光となって溢れ出す。
世界の摂理を歪める奇跡。
現存する戦力ではどう足掻いても魔王には勝てないという定めを、根本からひっくり返す最終手段。
つまりその瞬間、シャルリアの手の中にある『それ』──純白の百合を模した髪飾りの状態を過去に巻き戻す形で一人の死者が生き返った。
真っ黒なローブにとんがり帽子、純白の百合を模した髪飾りの本来の持ち主である黒髪の女性。
微かにラピスリリア=ル=グランフェイの面影もあるが、それよりも何よりシャルリアにそっくりな彼女。
いいや、正確にはその女性にシャルリアがそっくりなのだ。
シャルリアの髪の色だけは父親譲りの茶色ではあるが、それ以外はその女性の特徴をよく受け継いでいる。
すなわちシャルリアの母親であるシャリア。
いいや、そう名乗る前の、『白百合の勇者』シャルティリア=バルスフィアとしての力を万全に振るっていた頃の肉体がそこにあった。
身体こそ百年以上前の覇権大戦で『魂魄燃焼』を使い、魂を摩耗する前の状態であった。ただし記憶のほうは死ぬ寸前の──シャルリアの母親として生きてきたものも全て残っている。
光に浴びた対象を過去に戻すかどうか、戻すにしてもどれくらい戻すのか、全体を一律で過去の状態に戻すのではなく部分部分で戻す時間を変えることも今のシャルリアにはできる。それだけ無数の殺し合いを積み重ねてきたのだから。
だから『白百合の勇者』も『シャルリアの母親』も両立した、本来ならあり得ない最後の希望を世界に呼び戻すことができた。
「お、かあ……さん」
「なーるほど」
母親は自身の手に視線を落とし、握って、開いて。
そして一瞬あらぬ方向に視線をやったかと思えば、自分でやっておきながら信じられないと言わんばかりに目を見開くシャルリアに視線をうつし、かつて魔王を殺して世界を救った『白百合の勇者』はこう言ったのだ。
「大きくなったわね、シャルリア」
ゆっくりと、だけど確かにシャルリアを抱きしめて。
「あ……っ」
そんな場合ではないことはわかっていた。
『白百合の勇者』が復活したことは魔王だって気づいているはずだ。いつあの脅威が襲いかかってきてもおかしくない。
だけどダメだった。
もう会えないと思っていた母親に声をかけてもらって、そのまま抱きしめられたら、溢れる涙を止められるわけがなかった。
「おかあっ、さん……私、わたしっ!!」
自然の摂理を歪めた奇跡。
世界を救うために今すぐにでもあの怪物にぶつけなければならないのはわかっている。
だけどこの一瞬だけで構わない。今だけはこの腕のあたたかさに身を任せてもバチは当たらないはずだ。
ーーー☆ーーー
ゴッッッ!!!! とそれは降臨した。
漆黒の髪に瑠璃色の瞳、誰かのおさがりなのか床に引きずるほどサイズのあっていないダークスーツを身に纏った女の子。
ラピスリリア=ル=グランフェイ。
魔王と勇者の遺伝子を組み込んで作られた理想個体。
「この力の波動……魔王、ねえ」
『娘』。
魔王の魂を刻み、その力や記憶まで全てを受け継いだ破滅の象徴が今回の時間軸でも立ち塞がる。
「宿敵さんってばいつのまに性変換……いいやこれは乗っ取りってヤツか。うっわあ。若い子の身体に乗り移って好き放題とかそんな趣味があったとは。仮にも世界滅亡に王手をかけた宿敵さんのそんな姿は見たくなかったなあ。普通に気持ち悪いし」
「相変ワラズ、フザケタ女ダ」
「ふざけた真似しくさっているアブノーマル野郎には言われたくないわね。それ、もしかしなくてもあたしとアンタの遺伝子混ぜた感じよね? そんな子の身体に乗り移って興奮しているとか、もうほんっとう気持ち悪いから!! ハッ!? こんなことするってまさかあたしに変な感情抱いている感じ? うっわっ、ぞわってした! もうやだ。一応は命懸けで真面目に殺し合ったのが馬鹿みたいじゃん!! 自分がどれだけ気持ち悪いか、自覚したほうがいいわよ、いやマジで」
「貴様……ッ!!」
「貴様……ッ!! じゃないのよ、超弩級クソボケ変態が。っていうか、これだけ言われてまだその子の中から出ていかないとか罵られて興奮するおまけ付き? 流石に性癖歪みすぎじゃない? あっ、まさかあたしに殺された快感が忘れられずにこうしてのこのこ殺されにきたとか? やだやだ。そんなクソッタレな性癖にその子まで巻き込むんじゃないわよ。ほら、さっさと出ていけっての」
「馬鹿ガ!! クダラナイ言葉デ予ガ大局ヲ見失ウトデモ──」
カッ!! と光がラピスリリア=ル=グランフェイに憑依している魔王を貫いた。
『魂魄燃焼』で底上げしたシャルリアの光系統魔法。
それがどういう効果をもたらすかわかっていたからこそ魔王は回避も迎撃もしなかった。
対象を過去の状態に戻す魔法。
『娘』は魔法が作用して消し飛ばないよう効果範囲外にして魔王の魂だけを百年以上前の状態──つまり『白百合の勇者』に殺される前に戻したのだ。
記憶などは魔王の魂の情報を保存・『娘』に刻む亡霊の秘奥に残っている。『バックアップ』。それを使えば肉体や力は過去のままに、記憶を引き継いで魔王は復活できる。
朧げな『過去の時間軸』のように。
それでいて『過去の時間軸』と違って今のシャルリアは『娘』の肉体を過去の状態に戻して消し飛ばさないよう効果範囲から外すこともできる。
過去の状態に戻った瞬間に魔王の魂が飛び出した衝撃なのか、気を失った『娘』が地面に倒れる。
代わりに『娘』が身に纏っていたはずのダークスーツが黒い粒子になって霧散したかと思えば、『娘』の身体から弾き飛ばされて肉体を取り戻した魔王へとダークスーツの形で収束した。
腰まで伸びた銀髪、病的なまでに白く禍々しい肌、鮮血が噴き出したような真紅の瞳、腰に帯びた漆黒の刀。そのどれもがどの時間軸でも最後にはシャルリアを殺した男のものだった。
足元に転がっている『娘』には視線さえ向けず、ダークスーツを纏う魔王は言う。
「コレハ、何ノツモリダ? 『現在』ヲ見通ス『白百合ノ勇者』ナラソンナ光デハ予ヲ殺スドコロカヨリ優位ニ立タセルダケダトワカッタハズダゾ。ナゼ止メナカッタ?」
「あたしとあの人の娘がめちゃんこ格好いいってのに、つまらない横槍入れるわけないじゃん」
目の前に数えることもできないほどシャルリアを殺した相手が君臨していても、それでも、シャルリアはもう絶望することはない。
アンジェリカに救われた。そして自身を包み込む母親の腕のあたたかさが根源的恐怖さえも跳ね除ける。
「しっかし自分の命を削ってでもあの子を救う、かぁ。最悪今の八つの世界でもどうにもできなかったらあの子ごと殺すしかないと思っていたのに、まったく。さすがは自慢の娘ね!!」
「お母──」
「それじゃあ、後はあたしに任せなさい」
母親としては意味のわからない状況のはずだ。
確かに死んだはずがこうして蘇り、その手で殺したはずの魔王と対峙しているのだ。普通はもっと混乱を露わにするはずなのだ。
だけど母親は軽く、普段通りに、こう告げたのだ。
「あんな変態、さくっとぶちのしめしてあげるから、ね?」
直後。
光があった。