表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/115

第九話 思い出のだし巻き卵 その一

 

 店の開店準備の最中、長い髪を後ろで一本にまとめてお使いに出掛けていたシャルリアは『それ』を目にした。


「おかーさん、今日はカレーが食べたいっ!」


 そう言って母親と繋いだ手を元気よく振る小さな女の子を。


「…………、」


 意識せず、シャルリアは純白の百合を模した髪飾りを指で弄っていた。


 父親譲りの茶髪よりも、母親の黒髪にこそよく似合っていた髪飾りを。



 ーーー☆ーーー



 アンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢が名前のない小さな飲み屋にやってきてから実に一ヶ月が経っていた。


「ううー……」


 ジョッキを積み上げてぐでんぐでんになっている光景も見慣れたものだった。何せ最近は頻繁に──それこそ悩みの相談がなくてもやってくるくらいだ──こうしてぐでんぐでんになるまで呑んでいるのだから見慣れるのも当然だろう。


 公爵令嬢のこんな姿を見慣れるというのもおかしな話ではあるが。


「アンさん、飲みすぎだよ」


「だってえ……料理が美味しくてえ、ビールによく合うんですもの」


 お悩み相談のために、というのが当初の来店理由ではあっただろう。だけど、それを差し引いてもシャルリアが大好きなこの店の料理を気に入ってくれているのが嬉しかった。


 だからだろうか。

 最近はこうして店でアンジェリカと会う分には緊張することもなくなった。学園では一度『勉強会』以外で口を開けば嫌味しか出てこないので反応に困るが、店ではそんなこともないので心を許してきている自覚がある。


 身分の差を考えなければ、気兼ねない友人のようだとさえ──


「本当にい……美味しくてえ……それに店員さんが優しくてえ……あったかくてえ」


 声が小さくなり。瞼が落ちる。

 こうして飲みすぎて眠ってしまうのもまた見慣れたものだった。この辺でどこからともなくメイドが現れて酔い潰れたアンジェリカを連れ帰るのがいつものことなのだが──


「あれ? メイドさんが現れない???」


 結局閉店の時間になってもメイドは現れなかった。

 つまり可愛らしい寝息をあげて酔い潰れた公爵令嬢が小さな飲み屋に残されたということだ。


「……、こんなのどうしろってのよ」



 ーーー☆ーーー



 朝。

 目覚めたシャルリアは自分のベッドに寝かせているアンジェリカを見て困ったように息を吐いていた。


 公爵令嬢が平民である自分の部屋のベッドに寝ている。

『アン』には心を許してきているとはいっても、これはまた別の話だろう。


(最近は前みたいに嫌悪しかないわけじゃなくなっていたけど、それはそれとして身分の差は歴然なんだしね。お店でちょっと話すだけならともかくこれは、ねえ?)


 どうしたものかと再度息を吐くしかないシャルリア。


 酔い潰れた公爵令嬢を店に放置するわけにもいかず、二階にある生活スペースの中でもシャルリアの私室のベッドまで運んだ。もちろんシャルリアでは無理だったので父親が背負ったのだが、ここで目が覚めていたら何を言われていたか。


 アンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢が予想以上に不器用でどうしようもなく口が悪いだけで内心は意外と悪い人ではないとはわかっているが、それでも警戒が先に出てしまうのはそれだけ普段の行いはもちろん身分の差が気になってしまうからか。


 ちなみに父親は朝の買い出しに出ている。つまり二階の生活スペースに公爵令嬢と平民の少女が二人っきりというわけだ。


(とりあえず自分の部屋だからって気を抜いた格好しないようにしよう。どこから学園での私と結びつけられるかわかったものじゃないし)


 というわけで起きて早々店で働いている時と同じく髪を結んで前髪をあげることに。とはいえ流石に制服を着ているのは不自然だからと部屋着……の大半は魔女っ子スタイルなことに頭を抱えて、奥の奥から出てきた踊り子が好んで身に纏うようなヒラヒラでスリットだらけな大胆な服に着替えるしかなかった。


 格安だったからと勢いで買っていた過去の自分を呪いたくなるくらいには色々と見えそうな服であったが、これ以外は学園でのシャルリアを連想させる魔女っ子スタイルか部屋で着ているにはおかしい店の制服しかなければ選択肢は実質一つだった。



 ーーー☆ーーー



 アンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢は夢を見ていた。異形の化け物に変貌していた幼い頃の記憶を。



 幼い頃のアンジェリカは順風満帆な──言い換えれば大人たちの望む通りに生きていた。


 礼儀作法、多種多様な知識、領地の統治に関する能力、その他にも公爵令嬢という価値を高めるために必要だと思われるものは徹底的に詰め込んでいった。


 年頃の女の子らしいことなんて何も知らず、何も求めず、ただただ周りの大人たちが求めるままに従順に、だ。


 それでもアンジェリカは潰れることなく詰め込まれるがままに己の力に変えていった。幼い、と冠がついていながら、権謀術数蠢く社交界で生きる者たちが慄くほどに。


 だからアンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢は完璧なまでに順風満帆な人生を歩んでいた。


 だからアンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢が第一王子の婚約者に選ばれようとも誰も反論すらできなかった。


 だからアンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢はこれから先、貴族なら誰もが羨む限りの黄金色の道を進んでいくことが確定していた。



 前触れなんてどこにもなかった。

 第一王子とも何度か顔を合わせて婚約者として愛することはなくとも共に国を支える関係にはなれると思えた頃──朝、目が覚めた時にはアンジェリカの全身が不気味な鱗で覆われ、まるで魔物のような異形に変貌していたのだ。



 いくら礼儀作法が優れていようとも、いくらあらゆる分野に関する知識があろうとも、いくら領地の統治に関する能力があろうとも、いくら価値ある尊き血筋であろうとも、こうなっては彼女にヴァーミリオン公爵令嬢としても第一王子の婚約者としてもその価値は大きく損なわれたと言っていい。


 第一王子の婚約者、すなわち次期王妃に求められるのは能力だけでなく『国の顔』としての偶像的役割もあるのだから。


 アンジェリカは第一王子の婚約者に選ばれた。それは類い稀なる能力も理由ではあるだろうが、社交界でも目を引くほどの美貌も理由の一つなのだ。


 何ならいずれ『国の顔』になる女に必要なのは能力ではなく美貌である、と言ってもいいほどに。


 しかも、このような突然の変貌はあらぬ疑いを呼び込む可能性もある。


 ヴァーミリオン公爵家の血筋には『こうなる』何かしらの不具合があるのでは、と。


 血筋を何よりも重視する貴族社会においてそのような汚名は例え根拠なきものであっても致命的だ。


 だからこそ外部にアンジェリカの変貌がバレないようにしながら治療法を探したが、分かったのは瘴気によって変貌した生命体に酷似しているということくらい。


 魔王の極大魔法である瘴気が染みついた禁域指定に近づいたこともないのでアンジェリカが瘴気を浴びたはずはないのだが、万が一瘴気が原因だとしてもこれほどの変貌はいくら聖女の浄化系統魔法であっても元に戻すことは不可能だ。聖女にできるのはあくまで染みついた瘴気の人体への悪影響を軽減することであり、瘴気によって変貌した性質そのものを拭い去ることは不可能なのだから。


 そして瘴気が原因でないのならば、原因さえも不明ということになり、治療法なんて探りようもないということになる。


 どちらにしてもあまり長い時間アンジェリカを何の理由もなく表舞台に出さずにいるわけにもいかず、彼女は病に犯されたとして療養のため王都から遠く離れた田舎町に移り住む……ということにして人の目がつかない場所に移動させる表向きの大義名分が喧伝されていた。


 そうして彼女は秘密裏に王都を出ていた。

 商人のそれに偽装した馬車の中、アンジェリカの変貌を隠すために窓も何もない中でも移動時間等から王都近くの森を通っていると予測するアンジェリカ。


 そこで彼女はこう思っていた。

 どうしてこうなったのかと。


 治療法は見つからなかった。もちろん長い時間をかければ見つかるかもしれないが、それより先にアンジェリカの変貌が白日のもとに晒されれば公爵家に与える損害は大きなものになる。


 だからこそ、こうして王都の外に出して『隠す』つもりだが、果たしてどこまで隠し通せるだろうか。


 療養。

 そんなもの貴族にとっては都合の悪い事実を隠す常套句だ。そんなものでいつまでも隠し通せるほど貴族社会は甘くない。


「……もっと……です」


 全ては公爵家のために。

 そのためにアンジェリカは必要なものを必要なだけ詰め込んだ。普通の女の子らしいことなんて一切せずに、ただただヴァーミリオン公爵家の人間としてふさわしくあるために。


 それが原因不明の変貌で全ては狂った。どうしようもなく不条理で回避しようもないたった一つの汚点で台無しになった。


 アンジェリカは誰よりも努力して、同年代のどの令嬢よりも優れた能力を得て、どんな人間よりも公爵家のために尽力してきたというのに、その結末がこれなのか。


「こんなことなら、もっと普通の女の子らしいことがしたかったです」


 誰もいなかったから。

 窓もない馬車の中、誰の目もなかったからこそ『女の子』の本音が漏れる。


 今までやってきたことが無駄だとは思っていない。公爵家の人間として生まれたからには成さなければならないことは多く、必要な『力』は数えきれないほどで、責務を果たすためには今のうちから努力するべきだとはわかっている。


 だけど、アンジェリカの人生はそれだけだった。

 思い返してみて、今までの人生に楽しかったことなんて片手の指で足りるくらいしかなかった。


 それだけ尽くしてきて、その末がアンジェリカには何の過失もない原因不明の変貌によって台無しになった。だったら、こんなことなら、少しくらい普通の女の子らしい思い出が欲しかったと、そう思うのは間違っているだろうか?


 それが貴族として生まれた者の宿命だといえばそれまでだ。


 だから、だけど。


『誰か……お願いですから、助けてください……』


 そして。

 そして。

 そして。



 暗闇を照らす真っ白な光があった。

 たったそれだけで根本的な前提がひっくり返された。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ