第五十一話 お出かけでの食べ歩き その十八
みぢり、と『轟剣の女騎士』ナタリー=グレイローズは己の身体の内側からの軋むような音に顔を歪める。
全盛期であれば連発しても問題なかった全力全開、ありったけの魔力を込めた一振りである轟剣。それが一回でこうも反動が大きくなるほどに百年以上前の戦争での後遺症は大きかった。
それでも弱体化しているのは魔族四天王も同じ。
正確には魔王による瘴気での底上げがなくなったということなのだが。
とにかく今のナタリーでも『魅了ノ悪魔』に轟剣を叩き込めば致命傷を与えることも可能なはずだ。百年以上前は殺しきれなかったようだが、今回こそ確実に仕留めて後の憂いを断ち切る。
何やらガルドが見るからに殺し合いに慣れていない一般人を巻き込んだが、あんな戦争も知らないような少女の手を血に染める必要はない。
目覚めた以上は魂の底の底まで燃やし尽くしてでも人類の敵を両断する。そう誓って剣を握り直し、駆け出そうとしたその時だった。
『魅了ノ悪魔』の前に女の子が降り立つ。
たったそれだけのはずなのに、なぜだかその姿を見て降臨という単語が脳裏をかすめた。
外見だけなら七、八歳のただの女の子だ。
深淵が滲むような漆黒の髪はくせっ毛なのか髪が二本のツノのように跳ねており、透き通るように瑠璃色の瞳はどこか暗く鋭利な刃物のように突き刺すようで、誰かのおさがりなのか地面に引きずるほどサイズのあっていないダークスーツを身に纏っていた。
だけど、違う。
『ただの』女の子ではない。
纏う空気。力の波動。向こうはナタリーに視線を向けてもいないのに、全身に刃を突き立てられたような痛みさえ走る。
それはまるで瘴気のように禍々しい力の波動で。
魔族四天王の一角、『魅了ノ悪魔』が霞むほどだった。
「お姉ちゃん」
「……ッ!!」
果たしてそれは勇敢な行いだったのか。
それとも単なる暴挙だったのか。
気がつけばナタリーは地面を蹴っていた。瞬きをする暇もない。『轟剣の女騎士』にかかれば十メートル程度の間合いはなきに等しい。
あれは、殺さないといけない。
『何か』される前に、今すぐにでも。
だから全力全開、ありったけの魔力を込めた一振りが解き放たれたのは一瞬だった。全身が軋むほどの反動から放たれる斬撃。『魅了ノ悪魔』が支配する空間さえも断ち切る『轟剣の女騎士』の代名詞。
その一撃が『魅了ノ悪魔』と降臨した女の子を纏めて──
「くそっ、アリスフォリア!!」
轟剣が放たれる寸前、ガルドの叫びに反応して発動した転移の魔法でもってナタリーはこの場から消えた。
あのまま激突していればどうなっていたか。
ナタリーが生き残れるかどうか、という範疇で済めばまだいい。だけど、おそらくはそんな生半可な結果では済まされなかっただろう。
『何か』が起きていた。
ガルドでも予想のできない『何か』が。
じわりとガルドの額に汗が滲む。動悸がおさまらない。こんなの魔族を裏切って人間側につくと決めて、『奴』を敵に回した時以来だ。
(ふざけるなよ……)
ナタリーが気づかなかったのも無理はないが、それにしても暴挙が過ぎる。
人間の中で気づけるとすれば、百年以上前に『奴』と直接激突した『白百合の勇者』くらいか。
同じ魔族であるがために『奴』の姿を見る機会があったガルドだからこそ、その女の子が着ている装備に見覚えがあった。
つまりは、
(あれは『黒ノ羽衣』。魔王が身につけていた最高峰の防具じゃないか! それを着ても問題がないとか、くそっ、あのガキ何者なんだ!?)
魔族四天王の上に唯一君臨する絶対強者。
百年以上前に『白百合の勇者』によって殺された『黒滅ノ魔王』。
『奴』が好んで身につけていた『黒ノ羽衣』を受け継いだ女の子。
脳裏にかすめる可能性は──
(いや、まさか、そんなの聞いたことないぞ!?)
果たして光系統魔法の使い手がいたとして、太刀打ちできるのか。あらゆる魔法の無効化……もできるシャルリアの力は強力だが、嫌な予感が止まらない。
このまま考えなしに激突すれば敗北だけでは済まされない気がする。禁域。単純に敵対者を殺すだけではなく、環境そのものさえも歪めるような甚大な被害が出ても何らおかしくない。
『黒滅ノ魔王』の装備を継ぐ者。
その存在感はこうして目の前に降臨しただけでもガルドの全身を貫いている。
だから。
だから。
だから。
「早く帰るゾ」
一言だった。
ガルドにも、シャルリアにも、一瞥もなかった。
「いやあ、あのう、早く帰るゾじゃないのよねえ。これまでのアレやソレやが全部台無しなのだけどお」
「『計画』なんて知ったことじゃないゾ。そんなの、わらわは興味ないんだシ」
「仮にも魔族の未来を一番に考えるべき女王陛下ともあろうお方が──」
「魔族の未来? そんなの一番興味がないお姉ちゃんに言われても響かないゾ」
「……あっは☆」
「それを言うなら四天王も含めて誰も魔族全体のことなんて考えていないケド。自分の欲望さえ満たせればそれでイイ。それがいろんなのごちゃ混ぜな魔族唯一の共通項なんだシ」
「まあ、その辺のアレソレは置いておくとしてえ」
『魅了ノ悪魔』は言う。
良くも悪くも状況を左右する一言を。
「そうだねえ、女王陛下の言う通り早く帰ろうかねえ」
そのまま放っておけばとりあえず脅威は立ち去る。
だから、なのに、気がつけばガルドの口は開いていた。
「テメェは……何者、なんだ……?」
その一言で『気が変わる』可能性もあった。
何の準備もなく魔族四天王が霞む怪物との戦闘に突入する可能性が。
それでも問いが漏れるくらいガルドは焦っていた。
魔族四天王が敬う女の子。
『魅了ノ悪魔』が女王陛下と呼ぶほどの存在。
これまでの前提を全て無視した敵の登場はもしかしたら致命的かもしれないと。
「何者ッテ、見ての通りだカラ」
対して女の子の声音は軽かった。
軽く、世界を変える。
「ラピスリリア=ル=グランフェイ。通りすがりの魔王の娘だゾ」
その出会いは決定的だった。
少なくとも夏の長期休暇、残り二十七日の今日この日に魔王の娘は世界に表出したのだから。