第五十話 お出かけでの食べ歩き その十七
先程までアンジェリカと隣り合って座っていたはずだ。それが瞬きしたら『どこか』に移動しているし、見覚えのある雷が迫っているし、ガルドが何やら叫んでいるしと、とにかく全てがいきなりであった。
反射的に光系統魔法を放つとギリギリまで迫っていた雷と、ついでに周囲を覆っていた謎のピンクの壁(?)が消し飛んだ。
だからシャルリアは彼女に気づくことができた。
ガルドの隣の女騎士ではない。正面。雷を放った女に。
派手で色っぽい女であった。
腰まで伸びた赤髪に赤い瞳の彼女。店の制服ではなく露出の多い服を着ているが、見間違えるはずがない。
今現在シャルリアが着ている服を一緒に選んでくれた『店員さん』。あの時は『サラ』という名札をつけていた彼女が少し前に散々苦しめられたあの雷と似たものを放ってきたのだ。
「あれは『魅了ノ悪魔』クルフィア=A=ルナティリス」
距離にして十メートルもない。
ほんの少し踏み込めば届くほどには近い。
甘い匂いが鼻をくすぐる。『店員さん』。あんなにも親身になってくれた女の人がどうして──
「つまり『雷ノ巨人』と同等の怪物だ。といっても認識が追いつくとは思えないし、懇切丁寧に説明したって巧みな話術で戦意を霧散させるのが色欲を司るサキュバスという生き物だ。魔法だけならまだしも、あれは魔法以外も全てが生物を魅了して狂わせる因子の塊だからな。とにかく俺の言う通りにしてくれ。後の帳尻はこっちで合わせるから」
ガルドが何か言っていた。
おそらくは正しくて、だけど素直に受け止めるには目の前の日常との乖離が激しい。
これが『雷ノ巨人』のように見るからに魔物のような脅威であったならば、もしかしたら信じられたかもしれない。
だけど彼女はつい先日、服を選んでもらった『店員さん』だ。シャルリアの日常の一部として溶け込んでいた存在なのだ。
それが『魅了ノ悪魔』?
『雷ノ巨人』と同等の怪物???
にわかには受け入れられなかった。
『店員さん』は何も言わない。ただただ泣きそうな目でシャルリアを見つめていた。否定も肯定もなく、仕方がないと諦めて。
例えば飢えて死にそうな小さな妹たちのために食べ物を盗もうとする姉のように。
例えば王女を人質にとられて侵略者を前に剣を手放すしかない騎士のように。
例えば多額の借金を家族に背負わせないために己の身を切り刻み売ってでも金を得ようとする父親のように。
その瞳は幾千の言葉よりも彼女の想いを語っていた。
少なくともシャルリアにはそう見えた。
──見た目よりも中身が大事、とはよく言うが、それはあくまでそれなり以上の関わりを経てわかることだ。
ほんの僅かな会話でその人の中身なんてわからない。わかるのは中身『のようなもの』だ。そしてその中身『のようなもの』はどうしても外見や仕草から読み取れる印象に大きく左右される。
これが『店員さん』がわざとらしく否定したりしていたら、わかりやすく敵対してくれれば、一つでも違和感があれば幼い頃からずっと一緒のガルドの言葉を全面的に信じていたかもしれない。
だけど日常に溶け込むくらいには自然で、それでいて美しい『店員さん』は何も語らなかった。その瞳だけが涙がこぼれるのを我慢していた。何か事情があるのだと、そう言葉なく語るように。
ゆえに完璧だった。
一切の隙もない魅了であった。
魔法を使わず、言葉も用いず、その美しい外見と自然な仕草だけで対象を魅了していいようを転がることもできるからこそ彼女は『魅了ノ悪魔』と呼ばれているのだ。
だから騙される。
例え直前に雷の魔法で撃ち抜かれそうになっていても、シャルリアによっては簡単に消し飛ばせる程度のものだ。だからどうしても普通の人間よりも危機意識が低くなってしまう。
それこそガルドが事前に懇切丁寧に説明していたって今みたいに仕草一つでひっくり返していたことだろう。何か事情があるのかもしれない、と。
憑依のような過去の例、あるいは何かしらの脅迫に晒されて仕方なく、それとも他に何か……そんなありもしない想像に揺れるくらいには。
そして、もしもが頭を掠めればシャルリアの動きは鈍る。常に戦闘行為をこなす冒険者や騎士であればまだしも、本質的にはただの平民には即座の意識の切り替えは難しい。
だからとりあえず様子を見よう、と後回しにしても何ら不思議はなかった。魔族四天王との戦闘でそんな悠長なことを言っていたら待っているのは死だけだと気づかずに。
シャルリアを戦場に引っ張ってもいずれはこういう展開になるとガルドはわかっていた。だから初めは百年以上前の戦争を経験しているので絶対に『魅了ノ悪魔』の演技に騙されない『轟剣の女騎士』を利用していたのだ。
そのままシャルリアに頼ることなく勝つのが理想だったが、『魅了ノ悪魔』は予想以上の強敵だった。百年以上前に比べれば魔族四天王全員が弱体化しているとはいえ、だ。
(くそっ。時間をかければかけるだけ『魅了ノ悪魔』の独壇場だとは思っていたが、あの戦争を知らない一般人が相手なら一瞥で十分なのか! このままじゃ俺たちを無力化して戦闘行為を終わらせれば誰も傷つかずに済む、なんて方向にもっていかれてシャルちゃんの矛先がこっちに向きかねないぞ!!)
わかってはいた。
それでも改めて魅了を冠する四天王の真髄を見せられた。
直接戦闘なら『雷ノ巨人』が最強だ。
だが集団を切り崩し、個人を堕落させ、直接戦闘最強よりも多大な犠牲を生み出すことができるのが『魅了ノ悪魔』なのだ。
わかっていた。
だからこそ、シャルリアを盤面に出した時の対策もまた考えている。
「とりあえずここら一帯を光系統魔法で覆い尽くしてくれ! それで『魅了ノ悪魔』をある程度無力化できる!!」
「あのっ、ガルドさん!」
「シャルちゃんの魔法は触れても傷つくわけじゃない! だったら別にあの女にぶつけても何の問題もないだろ!? 後でちゃんと説明するから、今は俺の言うことを聞いてくれ!!」
『選んでいいぞ。俺の手で殺されるか、ナタリーに斬り捨てられるか、シャルちゃんの「暴発」で吹き飛ぶか。お前の好きな方法で殺してやるよ、「魅了ノ悪魔」』、とガルドは言った。圧倒的有利な立場からの勝利宣言のようであったが、違う。魔族四天王との殺し合いの最中にわざわざそんな意味のないことはしない。
あの言葉は『魅了ノ悪魔』のボロを出すのが狙いだった。必要以上に取り乱し、魅了という仮面を崩して、こちらを殺しにくるなり逃げ出すなりしていればシャルリアがこうも容易く陥落することもなかったのだから。
理想は叶わず、小細工も通用しなかった。
本当に追い詰められていたのはガルドのほうだった。
ならばせめて光系統魔法でこの場を覆い尽くし、『魅了ノ悪魔』を特別にしている魔法の全てを奪い去って単純な肉弾戦にもっていく。それなら『大罪の領域』と巨人の雷の双方を同時に相手する必要がなくなる。
生身で魔族に立ち向かう、というのはそれはそれで困難な道にはなる。素手で大岩を砕けるのが魔族であり、それは華奢な女の形をした『魅了ノ悪魔』も例外ではない。というか単純な身体能力でもそこらの魔族よりも遥かに上だろう。
それでもこちらのほうがマシだ。
まだ勝機は見える。
「あっは☆」
それでも。
シャルリアが光系統魔法を使う寸前、『魅了ノ悪魔』の淫靡な唇が開く。猶予は一言。それだけでシャルリアを魅了し、光系統魔法の発動を阻止できるとでもいうのか。
そして。
そして。
そして。
「お姉ちゃん」
これまでの積み重ねなんて何の意味もなかった。
『彼女』の降臨は誰にとっても予想外であった。
ガルドにとっても、そして『魅了ノ悪魔』にとっても。