???話 その二 姫様とキムチ鍋
夏の長期休暇、残り十三日
そこに至る、どこかの未来。
夏の暑いある日、光に全てが救われた後のことだ。
小さな飲み屋には新たな客が通うようになった。
『…………、』
それは周辺気温を低下させる女であった。
リアルル=スノーホワイト。腰まで伸びた白髪に淡い蒼の瞳、透き通るような肌に雪の結晶を模したドレスを身に纏っていても何の違和感もないほどに高貴さが滲み出ている女である。
今は所用で席を外しているが、騎士然とした女からは『姫様』と呼ばれている。最近復活した北の大国の姫なのだが、シャルリアは気にしないでと言われているので店員と客として接している。この辺りはアンジェリカで慣れているのですんなりと受け入れることができた。
そんなわけで──
『はぁぁぁ。リアルルさんの近くはひんやりしていて気持ちいいなぁ』
『……触ったら……もっと冷たい……』
『いいの?』
『うん……アリスちゃん以外には、あまり触って欲しくないけど……シャルちゃんなら、いい』
『それじゃあ、お言葉に甘えて……ふわあ。リアルルさんの手すべすべで冷たくて気持ちいいなぁっ!』
以上、店員さんとリアルルという新たな常連とのやり取りを見せつけられたアンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢は思わずところ構わず爆発させるところだった。
『くう……!! そんなに冷たいのがお好きなら、わたくしだって冷水に浸かって全身冷やしますのに……ッ!!』
『アンさん、普通に風邪引くのでやめてください』
珍しくアンジェリカが酔い潰れる前に店に顔を出したメイドが窘めるようにアンジェリカに声をかける。一応はアンジェリカが『アン』であるという設定を守る形で。
『それより、大変なことになりましたね。このままではアンさんお気に入りの店員さん、あの姫気取りのぽっと出ちゃんに取られるかも?』
『……ッッッ!?』
そんな会話があったことなど気付かず、シャルリアはひんやり冷たい姫様の手の感触を楽しんでいた。
『はっ!? そうだ、注文は何にする?』
『……あったまるの』
『こんな暑い日なのに?』
『うん……寒いほうだし……』
『それなら……あ、そういえばリアルルさんは辛いの好きだったよね』
『ちょー……好き』
『それじゃあ……うーむ。離れたくないなぁ。もっとひんやり楽しんでおきたい』
『私はこのままでもいいけど……感謝を返すには……全然足りないし』
『わっ。そんな顔を両手で挟んで……うへえ。冷たくて気持ちいいよう』
あ、これはもうダメです爆砕してやりますわ、と席を立とうとしたアンジェリカを慌てて押さえるメイド。流石に爆撃を撒き散らそうものならこれまで積み重ねてきたものが全て台無しになりかねない。
ーーー☆ーーー
『はいっ、キムチ鍋だよっ! これで冷えた身体も奥からぽっかぽかだね!!』
暑い日こそ辛くて熱い料理をかきこむ楽しみ方もあるということで、こんな料理も用意していた。客層に合わせて調整していった結果、激辛仕様の怖いもの試しになっていたが。
『ありがとう……いただきます』
と、熱々に熱せられた鉄鍋を直に掴んで、口元まで運ぶリアルル。唇が熱々の鉄鍋に触れても表情を変えずに汁を飲んで、ふうと一息つく。
『あったかくて……おいしい』
『そっか。それはよかった』
それにしても、と。
シャルリアはこう言った。
『よくそんな熱々で辛いの表情一つ変えずに食べられるよね』
『わたくしもそれくらいできますけれど!?』
『……へ?』
アンジェリカは色々と我慢の限界だった。
そんな風に突拍子もないことを叫ぶくらいには。
『さあ、店員さん! わたくしにもその料理をもってくるのですわ!!』
『は、はあ。アンさんもキムチ鍋食べたいんだ。これめちゃくちゃ辛いけど大丈夫?』
『余裕ですわよ!!』
『そっか。じゃあ、まっててね』
もうすれ違いにすれ違った有様にメイドは口元に手をやって笑いを堪えるのが大変だった。
ーーー☆ーーー
溶岩のように真っ赤であった。
熱せられた鉄鍋の中でこれでもかと唐辛子やら何やらとにかくありとあらゆる辛味が詰め込まれている。それこそ食べてもいないのに目に染みて涙が浮かんでくるほどには。
キムチ鍋。
客層に合わせた結果、怖いもの見たさや度胸試しのために用意されたような──つまり普通に美味しく食べるためというよりは辛さに悶える反応を楽しむ用途のほうが大きくなった料理である。
『アンさん、無理する必要はないからね? これを美味しく食べられるの、リアルルさんくらいだろうし』
『っ!? ふ、ふんっ。この程度余裕ですわよ!! それでは、いただきますわ……っ!!』
どろり、とスープが粘性を帯びていた。液体にならないくらい唐辛子やら何やら混ぜ込んでいるからだ。
アンジェリカは公爵令嬢だ。ゆえにこれまで素材の味を活かす貴族の食事を食べてきた。この店に通ってきたことで味の濃い料理にも多少慣れてきたとしても、こんなゲテモノへの耐性は一般人以下なのだ。
というか、一般人でもちょっと湯気に目が刺激されて涙が溢れるようなゲテモノを食べられるわけがない。
普段ならば、この時点で無理だと思ったかもしれない。だけど嫉妬やら何やらで引くに引けなくなった彼女は肉ならまだマシだろうと、勢いに任せて口に運ぶ。
そこから先の記憶は飛んでいた。
令嬢らしくもなく悶えまくったような気がするが、とにかくアンジェリカの主観ではそこから少しの間、時間が飛んでいた。
だから、どうしてそうなったのかわからなかった。
わかるのは今現在、自分が店員さんの膝の上に頭を乗せているという事実だけだ。
膝枕。
店員さんの太ももの柔らかさが後頭部に伝わって──
『……っっっ!? な、なな、なんなに、えぇっ!?』
『あ、起きた。もう、だから辛いって言ったのに。激辛大好きなリアルルさんでもなければあんなの食べられないって。ぶっちゃけあのキムチ鍋はネタというか馬鹿騒ぎするための話題がほしい馬鹿どもに合わせてメニューに並べているだけだし』
『いやあのそのええっと』
『でも私ももっとちゃんと止めればよかったよね。ごめんね、アンさん』
『いえ、そんな』
言いたいことは色々あった。
ちょっとリアルルとやらと仲良くしすぎではと詰め寄りたい気持ちだって。
だけど全部吹き飛んだ。
その一言だけが今のアンジェリカの気持ちだった。
『もう少し……このままでもいいですか?』
『うん、いいよ』
口を緩ませるアンジェリカは気づいていない。
平気な風を装いながらも、店員さんの耳が赤くなっていることには。