第三十二話 ブレアグス=ザクルメリア
世間一般では第一王子は完治不能な病に蝕まれたために王位継承権を捨てざるをえなかったという話が広まっていたが、もちろん真相は違う。『雷ノ巨人』に憑依されていた後遺症などはなく、健康体そのものなのだから。
メイドという護衛が復活したために融通がきくようになった直後に『彼』はアンジェリカのもとにやってきた。
銀髪赤目の美男子、すなわち第一王子ブレアグス=ザクルメリアが、である。
王都南部の一角、平民の客が多く繁盛している喫茶店でのことだ。ある程度服装を平民に寄せているとはいえ、第一王子とヴァーミリオン公爵令嬢に周囲の人間は誰も気づいていなかった。
「アンジェリカ。意外と気づかれないものだな」
「意識の死角といったところでしょうか。社交界の中心や公的な式典であればまだしも、こんなところに高貴な身分の人間がいるわけがない。そう思い込んでいるうちは気づかないものですよ」
もちろん完全に擬態できるわけでもないのだろうが、これだけ多くの人間がいれば紛れることもできる。
付け加えるならば、平民は第一王子や公爵令嬢の顔を見ることはほとんどない。見ることができたとしても何かの祭典で遠目にといったところだ。だから記憶に残らず、気づかれない。
その実例が『アン』として飲み屋に通っているアンジェリカだ。彼女もまた何度もあの店に通っていてもヴァーミリオン公爵令嬢だとは気づかれていない(とアンジェリカは思っている)。
……流石に公爵家の護衛が気づかないわけがないのだが、そちらについてはメイドが復活したので基本的には当主等の護衛に回している。先の事件で人員が減ったのもあるし、そうでなくてもアンジェリカは『身につけるもの』には他の貴族と比べても人一倍こだわりがある。
普段からよほどのことがないとメイド以外の人間を護衛として近づけることも嫌っているのだ。
こういったお気に入りしか認めない我儘なところは公爵令嬢『らしい』のかもしれない。
「それで何の用ですか?」
「いやなに、色々と迷惑をかけたと思ってな。きちんと謝罪をしておきたかったんだ」
「必要ありませんわ。わたくしはあくまであの巨人から売られた喧嘩を買っただけですから。それに、謝るならわたくしのほうですわ。あのような薄汚い者に操られていたことにも気づいてあげられませんでした。もしも気づいてあげられたならば、もっと違った結末もあったかもしれませんのに」
「俺が弱かったせいだ。アンジェリカが気に病む必要はない」
「しかし、殿下はそのせいで──」
「だったらお互い様ということで。どうだ?」
「……、殿下がそれでよいのであれば」
ブレアグスは店員から渡された紅茶で喉を潤してから、
「それはそうと、俺はもう殿下ではないのだがな。王位継承権を失ったことは知っているだろう?」
「それで、本当によろしかったのですか?」
「だから俺はここにいるんだ。というわけで気軽に名前で呼んでくれよ」
「…………。わかりました、ブレアグスさん」
しかし、とアンジェリカは一つ息を吐いて、
「表向きは病のせいで、とありもしないものをでっち上げていますけれど、本当は自ら放棄したのですよね。よくもそんな思い切ったことをしましたね」
「操られていたとはいえ、俺はこの国を内側からかき乱しすぎた。水面下で積み上がった恨みは、操られていたから許してくれなんて一言で拭えるものでもない。現に俺は直接的にも間接的にも命を奪い過ぎた」
「…………、」
「そんな俺が新たな王となれば、余計な騒乱の火種になりかねないからな。それなら余計なしがらみも含めて『特別』なものは全て捨てるのがこの国の安寧のためだ。それに、妹と入れ替わる形で辺境でスローライフを送るのも悪くないしな」
「表向きは王位継承権を、それでいて実は第一王子としての特権を全て捨てる。それによって『雷ノ巨人』がつくり出した国家を内側から腐らせて殺す『勢力』を黙らせる、と」
「好き勝手してきた連中も前提として第一王子という神輿があるからこそ好き勝手できたんだ。その神輿から完全に力が失われれば少しは大人しくなるだろう。他にも……ああ、なんだ。諸々の細かい対応は妹が何とかするだろうしな」
「やりようによってはそこまでせずとも済むとわかっていますよね? 望むなら、わたくしも力を貸しますわよ?」
「ありがたい申し出だが、俺は玉座には興味がなくてな。ここだけの話だが、『雷ノ巨人』が横槍を入れなくても王位継承権は放棄していた気がするな。妹が玉座を欲しがっていたし、プライドを刺激しない自然な形で譲り渡していたはずだ」
そこまで聞いたアンジェリカは手元のコーヒーに口をつけて、意を決してこう告げた。
「……、ヴァーミリオン公爵家にとって『特別』でなくなった貴方との婚約を継続する理由はありません。表向きは適当な理由をつけて、わたくしとの婚約は解消されるでしょう」
「まあ、そうなるだろうな」
ふと。
『ただの』ブレアグスは僅かに目を細めた。
そして、だ。
「またな、アンジェリカ様」
いつか、機会があればこうしてゆっくりお茶でもしよう、とそう言ってブレアグスは立ち去った。軽く、最後まで何の未練も見せずに。
どこまでいっても愛することはできなくて。
しかし高貴な身分である者の義務であれば共に歩むことに忌避感はない。そんな距離感であったがために。
「ええ、またいつか」
その一言だけは。
どういった感情を込めたのか、アンジェリカ自身も説明できなかった。
それでも、決してネガティブなものではないと断言できた。
ブレアグス=ザクルメリアらしいと、ようやく幼い頃の彼が帰ってきたと、そう思えたから。
ーーー☆ーーー
喫茶店を出たブレアグスの足取りは軽やかだった。
次期国王という立場を捨てた。表向きにも、そして内々にも理由は示している。多少の反対意見はあったが、ほとんど無理矢理に近い形で通した。
わざわざそこまでする必要もなかっただろう。
適切に立ち回ればどうにか己の立場を守ることもできただろう。
それても彼は責任を取る形で『特別』を捨てた。
これだけの隙を見せれば虎視眈々と王位を狙う第一王女の攻勢によって混乱が広がり、国全体の被害が大きくなるから早々に退いた、というのもある。現に第一王女などはそう考えていることだろう。
『雷ノ巨人』を撃破した次の日にガルドとかいう男を寄越して安い脅し文句を伝えてきたのもブレアグスなら余計な被害を出すくらいなら自分が身を引くと考えるかもしれないと思ってのことだろう(どうしてあの男があんなにも早く、詳細まで知り得て接触できたのかは気になるところではあったが)。
表にも裏にもそれっぽい理由は並べている。
そのどれもが正しく、間違いなのだ。
彼が『特別』を捨てたその理由は──
(まだ何も終わっていない。目立たない魔族の男、そして『魅了ノ悪魔』。『雷ノ巨人』と結託してこの国を脅かそうとしている奴らは必ずやこの手で叩き潰す!! そのためなら『特別』なんてくれてやる!!)
それは『雷ノ巨人』に長い間憑依されていたがために染み込んできた知識。少なくとも二人の味方が『雷ノ巨人』には存在していた。
詳しい今後の『計画』まではわからないが、このままこの国から手を引くなどという展開にはならないだろう。
だから備える。
ブレアグスの行動の理由にそれ以上も以下もなかった。
そもそも、だ。
初めから次期国王などという立場に固執していないのだから捨てることにも躊躇はなかった。彼の固執するべきものはアンジェリカと婚約したその日にはとっくに示されている。
俺はこの国をもっと豊かにしたい。皆がこの国に生まれてよかったと、幸せだと、そう思えるように、と彼は確かにそう言っている。
であれば、次期国王などというものは枷にしかならない。戦うべき時に立場が邪魔をして行動できないという展開も十分にあり得るのだから。
だから捨てよう、と即決できるからこそ彼はブレアグス=ザクルメリアなのだ。
こんな自分は王にはふさわしくないと常々思っていたのだから、自然な形で常に王の座を狙っていてまたその能力も十分な妹に王位を譲れたのは運が良かったと思う。
(とりあえずガルドと名乗ったあの男と接触するか。あの男は妹の子飼いで収まるような奴とは思えないからな。あの感じは絶対に俺たちが知らない『何か』を隠しているはずだ)
ブレアグスは強く、固く、拳を握りしめる。
悪知恵だけは最高峰、と一部ではそう評されるくらいには頭脳戦に優れた妹に王位を譲り、直接戦闘のほうが得意な兄が前線で暴れる。そちらのほうがこの国を脅かす奴らを撃破できる可能性は少しでも上がるだろう。
……なんだかわたしだけ意地汚い悪者みたいではありませんか、と拗ねるだろうから妹には本心は明かせないが。
(一度くらいは妹と顔を合わせることもあるだろうし、その時は王様になれなかったことを悔しがっているよう演技しないとだな)
王様とか向いていないと思っているので玉座を欲しがっていて能力も十分な相手に渡すのはむしろ喜ばしいことだ。なのできちんと悔しがれるかは自信がなかった。あんな面倒なもの、なんだって妹は欲しがっているのだと思うくらいである。
もちろんこんなことを言えば絶対に地団駄を踏んで暴れるので本当の本当に隠し通さないといけない。