第十九話 魔物肉のつくね その一
シャルリアという平民が第一王子に少なからず好ましく思われていることは学園中の噂になっていた。
それだけでも『火種』としては十分だったが、そこに『平民の少女と共にいる第一王子にヴァーミリオン公爵令嬢が口を挟んだ』というのが追加されればどうなるか。
……あの日の出来事は当事者以外は知らないはずだ。だが現に噂として流れている以上、第三者が目撃していたか当事者のうちの誰かが噂という形で流布したのだろう。
噂の出所がどこであれ、一度流れてしまったものを止めることはできない。
何より、ヴァーミリオン公爵家を中心とした派閥、その一角である侯爵家の令嬢から噂の真偽を聞かれて、アンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢はこう即答したのだ。
「ええ、それは事実ですわ。わたくしの婚約者としての自覚のなさを指摘することに何かおかしなところがあって?」
くだらない駆け引きとは無縁だった。
噂の出所は間違いなく第一王子だろうとわかっていて、なお一歩も引かずに受けて立つのがアンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢という人間なのだから。
あくまで同じ学舎に通う学生同士親睦を深めていただけ、なのに相手が平民だからと高圧的にシャルリアに接して傷つけた、見当違いの勘違いから醜い嫉妬心を燃やすなど淑女の風上にもおけない……などと『火種』から燃え広がるように噂が流れていたが、それでも攻撃としては弱いくらいだ。
婚約者のいる男性が不用意に異性に接触する。平民ならともかく、血筋や伝統を重んじる貴族であれば普通そのような迂闊な真似はしない。どこから『家』を傷つけるような攻撃の起点にされるかわかったものではないからだ(真偽は問わずにとにかく『攻撃』できればいいので、デマでもなんでもでっち上げる起点をなくすのが貴族の基本、当たり前の作法なのだ)。
だからこそ第一王子自ら噂という形で攻撃の起点を与えたのは不自然だった。逆にアンジェリカを攻撃しようにも、これでは自滅以外の何物でもない。
暗黙の了解、『作法』も身についていない愚鈍だと自ら明かすようなものなのだから。
(迂闊にも程がありますわね。昔の殿下であればあり得ないですわよ)
若気の至り。ちょっと魔が差しただけ。単なる火遊びだった。そんな軽い気持ちで目についた異性にちょっかいをかけていたのなら、婚約者にしてヴァーミリオン公爵家の娘に『注意』されればとりあえず身を引いてもいいはずだ。
シャルリアを巡って対峙した時は頭に血がのぼったのもあるだろうし、王族としてのプライドから対立という形を選んだとしても、時間が経てばお互い程よいところで終わらせて、今後の関係に致命的な傷を入れないよう立ち回るべきだろう。
婚約してすぐの第一王子ならそうしたはずだ。まだ幼くとも、王族としての責務をしっかりと理解していた彼であれば。
(そう、そうです。殿下はここまで愚かではなかったはずですのに)
わざわざ婚約者と敵対するメリットはない。それが王族を除けば国内でも随一の権力を誇るヴァーミリオン公爵家の娘ともなればいかに第一王子といえども敵に回すのは避けたいはずだ。
シャルリア。
光系統魔法という珍しい才能がありはしてもできるのは小さな傷を治す程度。そこらの治癒系統魔法の使い手よりも劣る彼女にはヴァーミリオン公爵家の娘を敵に回してでも手に入れるだけの価値はない。
であれば、なぜ?
シャルリアに対して一目惚れだと第一王子は言った……らしいが、一夫多妻が認められていないこの国では第一王子といえども建前上アンジェリカ以外の女を娶ることはできない。
あくまで建前であり、秘密の『愛人』であれば囲っている貴族も多いが。
そう、『愛人』として手に入れるにしても、ここまで噂になるほど大胆に動けば秘密のという冠も意味をなさなくなる。どれだけ考えても第一王子の行動から『最終的にどうしたいのか』が見えてこない。
まさかヴァーミリオン公爵令嬢を切り捨てて、光系統魔法の使い手とはいえ身分は平民である少女を正式な婚約者にするつもりだ……などと考えてはいないだろう。
そんなものは前例がなさすぎるし、無理に押し通そうとすれば様々な思惑から多くの貴族がぶつかり合う『大規模な政治的闘争』に発展してもおかしくない。そうなればいかに王位継承権第一位とはいえその地位も危うくなるだろう。それこそ残る王族の血筋にして辺境に引きこもっている王女を女王にしよう、ということになっても不思議はない。
(殿下)
あの時はシャルリアを助けたい一心でカッとなって対立してしまった。だからといってアンジェリカとしても決して第一王子と争いたいわけではない。
愛することは絶対にないだろうが、いつかは共に国を支えるパートナーになるのだから。
(わたくしにはもう殿下のお考えがわかりませんわ)
十年ほど前に婚約が決まってからの付き合いではあるが、そこまで親密ではなかったから『いつから』第一王子が変わってしまったのかはわからない。あくまでそれくらいの距離感だったから。
ーーー☆ーーー
「…………、」
「…………、」
昼休み。
シャルリアが校舎裏の目立たない場所で弁当を食べ終わって、ちょっと眠くなってきたところでいきなり踏み込んできたアンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢。
黄金から切り取ったような煌く金髪、宝石を埋め込んだのではと思うほど綺麗な碧眼、スレンダーなシミひとつない身体、豪勢な真紅のドレスが霞むほどに美しい令嬢が何やらじっと見つめてくるものだから変に緊張して背中に汗が浮かぶ。
これが『アン』であれば何を難しい顔をしているのよっ、と気軽に声をかけられるのだが、アンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢となるとまだそこまで気軽に話しかけることはできなかった。
一応同一人物なのだが、こうも『違う』のか。
とはいえ嫌悪などではなく、何なら前よりも好意的な感情を抱いているからこその緊張なのだが。
(トキメキ……いやいや、そんなんじゃないから!! ああもう、飲んだくれのくせに無駄に凛々しい顔してるんじゃないわよ!! ばかばかっ!!)
色々と思い出して心臓がバクバクなシャルリア。
そんな彼女にアンジェリカはこう切り出した。
「わたくしが問題を大きくしたせいでこれからシャルリアさんには迷惑をかけるかもしれません」
…………。
…………。
…………。
(あ。そういえば変なこと気にしていたっけ)
すっかり忘れていたが、『アン』からの『相談』があったばかりだった。
あの時、シャルリアを庇ったことは余計なことだったかもしれないと、迷惑に思っているかもと、そんなふざけきった心配をしているからこその問いかけなのだろう。相変わらず説明不足だし、酔って本音を吐き出していた時のような素直さとは無縁な『まあ一応これくらいの言葉はかけてあげるけど?』と言わんばかりな強気な声音ではあったが。
というか、あの台詞を堂々と胸を張って、顎を上げて、見下すような冷徹な目で言うのがアンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢らしいとも言える。
もう何も知らなかった頃のシャルリアではない。
アンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢とはこういう女なのだというのは十分わかっている。
だからこそシャルリアはしっかりとアンジェリカの目を見つめてこう答えた。
「そんなの気にしないでください。私だけじゃもうどうしようもなかったですしね。本当に感謝しかないですから! だから、ええっと、迷惑をかけるとか気にせずに第一王子様がもう二度と私のような平民に構うことのないよう徹底的に懲らしめちゃってくださいよっ!!」
ぽかん、と。
『あの』アンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢がほんの一瞬とはいえ呆気に取られていた。『アン』ならともかく、公爵令嬢として気を張っている彼女のそんな姿を見られたのは貴重で、それくらい気を許してくれているのだろうかと嬉しくもあった。
「ふん。言われるまでもありませんわ」
踵を返すアンジェリカ。
だけどシャルリアは気づいている。踵を返すその瞬間に微かに見えた口元が安堵に緩んでいたことに。