第十八話 セーフリムニルのチャーシュー その五
──なんてことがあったのがつい数時間前。今にも何事か起きそうな雰囲気ではあったが、それ以上は何もなく、まるで示し合わせたように両者共にその場を立ち去ったのだ。
その時、シャルリアに目も向けなかった第一王子と違ってアンジェリカは一瞬だけ目を向けてから一言もなく立ち去った。今ならあの『一瞬』に心配とか何とか色々と込められていたのもわかる。わかりにくいったらないのでここまでくるとわざと誤解されたいのではと言いたくなってくるが。
「…………、」
ぐつぐつと鍋の中で肉の塊が煮込まれている。夕方。昨日から休む間もなくタレの中に浸かっているチャーシューにはそれはもう味が染み込みまくっていることだろう。
できることなら『アン』には昨日と今日とで味の違いを食べ比べてもらいたかったが、昨日はそんなことを考える余裕もなかった。
……逆に言えば今はそんなことを考えることができるくらいには心にゆとりがあるということだろう。
あまり好ましくない状況のはずだ。シャルリアの考えなしの行動のせいでこれから先、面倒なことになるのは目に見えている。
それでも、だとしても。
今この瞬間、シャルリアは嬉しいと思ってしまった。
口元が緩んで仕方ない。
(これから大変なことになるのは目に見えているのに私ったら何を浮かれているのよ、ばかばかっ!!)
ーーー☆ーーー
「うっへえーい……! これ、とろっとろでビールに合いますわね、店員さあん!!」
「うん、そうだね……」
「染み込んだタレの味が濃くて、脂がたっぷりで……んんーっ! これならビール何杯でもいけそうですわ!!」
「アンさんが楽しそうで何よりだよ」
ぐでんぐでんだった。
『今日のおすすめはチャーシューだよっ!』と勧めたまでは良かったが、本日のアンジェリカはビールの消費速度が普段の比ではなかったのだ。
次から次にビールを呑むものだからチャーシューを味わう暇もなく酔っ払いが完成したくらいなのだから。
第一王子に真っ向から立ち向かった時の冷徹ながらも凛々しい姿はどこにもなかった。いつもの飲んだくれかくありきである。
(まったく私のトキメキ返してよね。……トキメキ? トキメキって何!? なんっちょっはぁ!? 何考えて、ばっかじゃないの!?)
「んうー? どうしたんですか店員さあん?」
「どっどうもしないわよっばか!!」
「うおう……。今日の店員さんは手厳しいです……ひっく」
「べっ別にいつも通りだけど!?」
誤魔化すように咳払いを挟むシャルリア。酔っ払いのくせに変なところばっか気づいて、と恨みがましく睨むが、酔っ払いがそんな視線に気づくわけもなかった。
ガシガシと頭を掻いて、息を吐いて、色々と湧き上がる感情を飲み込んで、その一言はつい漏れていた。
「ありがとうね、アンジェリカ様」
小さく、決して聞こえないように。
それでいて言いそびれた感謝の気持ちを口にするシャルリア。
こんなものは自己満足で、リスクしかなくて、それでも我慢できなかったから。
どれだけ飲んだくれていようとも、今のアンジェリカからはあの時の格好良さが微塵も感じられなくとも、それでも──
(気がついたらこんなにも……ああもうっ身分の差を考えろっての!!)
店での『アン』がこんなにも距離が近いからだ。
学園でのアンジェリカがどれだけ厳しく見えようとも注意深く観察すればシャルリアを気遣っていることがわかったからだ。
だから、こんなにも好ましく思ってしまった。
トキメキが溢れて止まらない。
単なる店員と客ではなく、普通の友人よりも深く、もっと仲良くなりたいと、そんな身の程知らずなことを考えてしまう。
(……、ちくしょう)
どこぞの飲んだくれと違って一滴も酒を呑んでいないのに、頬が赤くなっているのが鏡を見なくてもよくわかった。
ーーー☆ーーー
「店員さあん……わたくしの悩み、聞いてくださいますか?」
「悩み?」
ええ、と『アン』という女として店に入り浸っているアンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢は一つ頷く。
彼女はどれほど酔っていてもある程度の会話能力や思考は保っており、翌日になっても記憶は残るタイプである。だからこそ『お悩み相談』を活かすことができるし、だからこそ酔って色々とはっちゃけたことを思い返してベッドの上で転げ回ることも珍しくないのだが。
「わたくし、やらかしてしまったかもしれませんわ」
その一言に店員の少女の身体に微かに震えが走ったのだが、幸か不幸かアンジェリカが気づくことはなかった。
「シャルリアちゃんが、その、『身分の高い男性』に絡まれていたので間に入ったのですけれど、果たしてそれが良かったのかと」
「……、どうしてそう思うの? 面倒なことになったと後悔しているとか?」
「そんなことは絶対にあり得ませんわ」
そこだけは酔っ払いのふにゃふにゃなそれではなく、芯の通った声で否定するアンジェリカ。
「そうではなくて、わたくしのせいで問題が大きくなってしまうかもしれなくて……何を話しているのかは聞こえずとも、わたくしの目にはあまり好ましくない雰囲気に感じられましたのでとにかく助けなきゃと間に入ったのですけれど、もしもそこまで緊急性のない状況であったのならば……そうです、下手にわたくしが関わったせいで問題が大きくなって結果的にシャルリアちゃんにまで悪影響が及ぶことになれば、それこそわたくしのやったことは余計なことで……もしかしたらシャルリアちゃんだって迷惑に思っているかも──」
「そんなのシャルリアとやらに聞くしかないよね。ここでどうのこうの悩んでいたって結論は出ないし」
矢継ぎ早にそう言う店員の少女。
迷惑、という言葉にどこか苛立ちさえ滲ませていたのはアンジェリカの気のせいだろうか。
「だけど」
そこで店員の少女は苦笑のような、それでいて安心したような、そんな感情が溢れる笑みを広げてこう言った。
「助けなきゃって駆けつけてくれたアンさんのことを悪く思うわけないよ」
「そう、ですか?」
「うん。ありがとうって、絶対にそう思っているよ」
不思議なものだが、店員の少女にそう言われると先程までの不安な気持ちが溶けてなくなるのだ。
彼女がそう言うならそうなのだろうと、安心する。
その屈託のない笑顔にいつも魅入ってしまう。
この店に足を運ぶのはなぜか。ビールに合う料理が美味しいのもあるだろう。常連たちと馬鹿やって騒ぐのが楽しいのもあるかもしれない。
だけど一番は店員の少女がいるからだ。
最初こそ『お悩み相談』が目的だったが、別に相談することがなくても気がつけばこの店に足を運ぶようになっていた。
どうして、とその理由を明確な形にはできない。
だけど、少なくとも、単なる店員と客ではなく、普通の友人よりも深く、もっと仲良くなりたいとそう思っているのは確かだ。