第十五話 セーフリムニルのチャーシュー その二
例えば、一人で教室に向かっている時とか。
『感涙に咽び泣け。俺様が貴様と共に行動してやろう。……おい、歩くのが遅いぞ。早くしろ』
例えば、一人で休み時間を過ごしている時とか。
『俺様の話し相手を努めさせてやろう。早く何か面白い話をしろ。……何だそれは? アンさんなどという酔っ払いの話の何が面白いというのか』
例えば、一人で帰ろうとしている時とか。
『俺様の帰宅に付き従う名誉をくれてやろう。馬車に乗るがいい。……なに? 王城からは歩いて帰ればよかろう』
例えば、例えば、例えば。
第一王子と出会ってからの日々を思い返して、シャルリアは思わず天を仰いでいた。
「何が一目惚れだこんにゃろーっ!! 本当に私のことが好きならちょっとは優しくしろぉおおおおお!!!!」
セーフリムニルだか何だか知らないが、とにかく巨大な肉を切り分けて『下処理』をしている途中に耐えられなくなって絶叫するシャルリア。
開店準備の最中であった。
ボサボサな茶髪を後ろで一本にまとめて、目元を覆う前髪を純白の百合を模した髪飾りで留めて、エプロンのようでいて動きやすい青を基調とした店の制服に着替えている彼女は『下処理』もそこそこに大きくため息を吐く。
銀髪赤目の誰もが見惚れるほどの美男子である第一王子ブレアグス=ザクルメリアには王位継承権第一位という金看板があり、血筋的にも能力的にもザクルメリア王国の次期国王としてふさわしいだけのものがあり、と世の女性が思い描く理想の王子様そのものである。
そんな男に言い寄られるだなんて貴族令嬢でもほとんどあり得ないことだというのに、平民がともなればそれこそ絵本の中のキラキラとした物語、つまり娯楽の中でだけの話……のはずだった。
まさか自分が一目惚れしてやるなどと言われ、以来あんなにもしつこく付き纏われるとは予想できるわけがなかった。
何かしらの嫌味、あるいは軽い思いつきであり、そのうち終わるだろうと思っていた。それがここ一週間は第一王子に付き纏われる日々が続いていた。
……今のところアンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢にその現場を見つかっていないのが救いか。噂は耳に届いているかもしれないが、それでも彼女の婚約者がシャルリアに付き纏っている様を見られたらどんな反応が返ってくることやら。
激怒される、ならまだマシだ。色目を使って人の婚約者を誑かしたのではと失望されるのだけは嫌だった。少なくとも今のシャルリアは公爵令嬢の怒りを買うよりも嫌われて疎遠になるほうが百倍嫌だと即答できた。
どうしてか、具体的に言葉にはできないにしても。
「第一王子相手に鬱陶しいから近づくなとも言えないし、だからといってこのままだと絶対にアンジェリカ様に見つかって面倒なことになるし……これ詰んでない?」
まさしく詰み。どう転んでも平民の少女ではどうしようもない面倒ごとになるのが目に見えている。
「ああもうっこんなのただの平民にどうしろってのよ!!」
ーーー☆ーーー
ぐつぐつと鍋の中で巨大な肉が煮込まれていた。
ギトギトに脂の乗ったセーフリムニルのチャーシュー。醤油ベースのタレで煮込むことで味の染みた肉は舌で蕩けて美味しいに決まっている。
チャーシューに合う『ほどよい脂身の大きな肉』が手に入って、なおかつ手間暇かける余裕がなければチャーシューを作ることはない。
そんなチャーシューは不定期でありながら熱心なリピーターが多い料理であった。
「店員さん、今日のおすすめは何ですか?」
だから。
だけど。
「えっ、と……何だろうね。とりあえずやきとりにでもしておく?」
アンジェリカの問いに普段のシャルリアが聞けばブチ切れそうなことしか言えない彼女の頭の中は第一王子という爆弾のことでいっぱいだった。
目の前の公爵令嬢が自身の婚約者がシャルリアに付き纏っている光景を見ればどうなるか。どう転ぶにしても、絶対に事態は大きくなる。それこそ貴族間の派閥だとか力関係だとか名誉だとかそんなものまで絡んで『王族や公爵家を含む貴族社会の問題』にまで発展すれば、最終的にどこぞのお偉いさんの都合によって『不慮の事故』コースに乗っかるのもそうあり得ないことでもない。
それに、何より、アンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢とは『勉強会』の間だけとはいえ前よりも嫌味のない話もできるようになったのだ。このままいけば『アン』だけでなくアンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢とだって仲良くなれるかもしれないのだ。
まあ、それもアリかなと、最近ようやくそう思えるようになったのだ。
それが第一王子『なんか』のせいで壊れてしまう。
そう、人の都合を無視して振り回す様さえも『格好いい』と評されるほどに理想の王子様かくありきな第一王子であろうとも、シャルリアにとっては『なんか』でしかなかった。
世間一般でどうかは知らない。
次期国王という金看板。理想の王子様という評判。それらが世の多くの女性を虜にしていようとも、シャルリアにとっては迷惑な存在でしかないのだ。
だからこそどうにかして波風立てずに一目惚れとやらを錯覚だったと思わせて、付き纏ってくるのをやめさせたいのだが、肝心の方法が思いつかなかった。
「てっ店員さんっ!!」
「……、ん?」
と、上の空だったシャルリアにアンジェリカはこう言った。
「なっ何か悩んでいることがあるんですか!? わっ、わわっ、わたくしでよければ相談に乗りますわよ!?」
その言葉に思わずシャルリアは口の端を緩めていた。
ある意味において目の前の令嬢もまた悩みのタネではあるのだが、それでもこうして心配してくれるのが嬉しかった。
「ねえアンさん。顔が良くて、お金持ちで、身分が高い男の人に言い寄られたらどうしたらいいと思う?」
気がつけばそんなことを言っていた。『相談相手』として『アン』ならまだしも、ヴァーミリオン公爵令嬢がどれだけ不適切かはわかっているだろうに。
「わ、わたくしは」
そこでアンジェリカの声がどこか震えていることに気づいた。どうしてだと疑問に思った時にはこんな言葉が耳に入ってくる。
「店員さんがその男の人を好きだというなら、悩むまでもないと思いますわ。もしもその人と結ばれるにあたって何か障害があるのならば、わたくしが全身全霊をかけてぶっ壊して差し上げます。ゆ、友人のためですもの、いくらでも頼ってくださいな」
…………。
…………。
…………。
「あ、いや、好きでもない人に言い寄られていて、どう対処したらいいのかなって話なんだけど」
とんでもない勘違いだ。そもそもシャルリアは一目惚れはもちろんまだ誰かを家族や友人とは違った意味で好きになったこともないのだから。
少なくとも。
仮にも惚れた相手を気遣えないような人を好きになることはないだろう。
それこそ第一王子を好きになるくらいなら──
「……………………、」
ゴヅンッ!! と思いきり机に頭をぶつけるアンジェリカを見て、頭の中で浮かびそうになった『誰か』が霧散していた。
慌てて冷えたタオルを持ってアンジェリカの額に押し当ててと忙しくしていくにつれてついぞその『誰か』のことを思い返すことはなくなった。