第八十話 再来
一日前。
『白百合の勇者』の力の余波で覇権大戦で刻まれた瘴気が一掃された大陸中心部、その地下でのことだ。
『生き残りの魔族の本拠地』。
魔法で隠匿された地下空間では『魅了ノ悪魔』……を喰らって成り代わっていたクルフィア=A=ルナティリスが珍しく困り顔を晒していた。
先の戦闘で吹き飛んだ片腕は未だ生やす目処も立っていない。そんな腕の断面を当事者であるクルフィアよりも悲痛な顔で心配そうに撫でる女の子が一人。
ラピスリリア=ル=グランフェイ。
魔王の娘……ということになっていたが、その正体は魔王と勇者の遺伝子情報を組み合わせて生み出された生物兵器、通称『娘』である。
魔王の魂を刻み込むための器として『創造ノ亡霊』によってつくられた存在ではあるが、今はもうその役目は事実上失われたに等しい。何せ魂を刻み込むための秘奥はクルフィアの手で破壊しているし、『創造ノ亡霊』でなければあの秘奥は作れない。
つまりこれ以上彼女が本来の目的で使われることはない。禍々しいダークスーツを捨てて透き通るような薄い蒼のドレスを纏う今の彼女は『特別』でも何でもない一人の女の子でしかないのだ。
『女王陛下あ。ワタシはもう大丈夫だから──』
『腕を吹き飛ばしておいて何が大丈夫だゾ!? こんなになるまで無茶をしテ! 死んじゃったらどうするつもりなんだゾ!?』
『まあまあ』
『そんな軽く流せると思うんじゃないゾォ!!』
これは『彼女本来の肉体』は魔王に操られたラピスリリアに背後から貫かれた時に失ったというのがバレたら絶対に面倒なことになるだろう。というか泣く。自分を責めて三日三晩は引きこもるだろう。
そんなラピスリリアは見たくなかった。
絶対に。
『そうは言っても女王陛下が気にするほど悲惨な結末でもないしねえ』
クルフィアはこうして生き残った。
『ナタリーを含む勢力』もラピスリリアを人質にでもしてクルフィアを殺すなり拘束するなりすればいいものを何の要求もなく解放している。
クルフィアという女がどれだけの悪辣か知っているだろうに。
一度共闘したからもう敵対することはないとでも? そんなわけがない。クルフィアが生きているならば何度だって悪意をばら撒く。悪魔が素直に退くわけがない。
そんなことは向こうもわかっているだろうに。
『そうだとしてモ……だケド……』
『はあ。悪かったわねえ。もう怪我しないよう気をつけるからあ、そんな泣きそうな顔するんじゃないわよお』
手を伸ばしてラピスリリアの頭を撫でる。
魅了……とはまた違う。これは計算された行為ではない。なし崩し的に、慰めるために、気がつけばそんなことをやっていた。
『……ウン』
そんな顔をされたら、対応に困る。
魅了と一言で片付けて流れ作業で対応できない。
なぜか。
その辺りを深く考えると駄目だと、とにかく他の話題で頭を埋めるためにクルフィアは口を開いていた。
『女王陛下あ』
『そうそうソレッ!』
『んう?』
『わらわは自分の正体はガルドに聞いているゾ! そうやってクルフィアが敬うような存在じゃなくて単なるつくられた存在だってことモ』
『ガルド……あの野郎は他に何か言っていたわけえ?』
『エ? 別に何も言ってなかったケド』
(あの裏切り者ならワタシがラピスリリアを言葉巧みに操るために懐かせていることくらいは読んでいるだろうしい、てっきりそのことを教えて内部から切り崩すために危害を加えずに解放したんじゃとも思ったけどお)
そこでラピスリリアは何か思い出したのか、こう続けた。
『そういえばぼそっとさっさと恋だの愛だのを自覚すれば手っ取り早いみたいなことを言っていたケド、アレは単なる独り言だったと思ウ。話が繋がっていなかったシ』
『…………、』
何とも言えずに苦虫を噛み潰したような表情で黙るしかなかった。
善意? そんなわけがない。あの裏切り者はそこまでお人よしではない。
そういう形でクルフィアを封殺することで彼女の支配下にある生き残りの魔族もまとめて無力化しようとしているのだろう。
クルフィア=A=ルナティリスが恋だの愛だのにかまけて悪意をばら撒くことをやめるとでも? それともラピスリリアという存在が明確な足枷となり、彼女を狙われるだけでおとなしくなるような甘ったれになるとでも思われているのか。
そもそもその考えに至った情報はどこで手に入れた?
流石にラピスリリアがクルフィアを迎えにきたあの一瞬でそこまで確信できるわけがないし、そんな不確かなものに賭けるほどあの男は甘くない。
よほど強固な情報源があった?
それこそ『ナタリーを含む勢力』がやけに先読みして七つの大罪の悪魔を退けることができていた根本の情報源と同じように?
いいや、そもそも、だ。
(舐められたものねえ。このワタシが都合のいい肉人形に愛着をもつとでもお? そんな形でこれまで世界に王手をかけるために暗躍していた魔族四天王の一角が封殺できるとでもお!?)
『ン? どうかしタ?』
『あっは☆ 何でもないわよお』
適当に答えながら、頭の片隅でこう思う。
もうラピスリリアに魔王の力を出力する肉の器という価値はなくなった。今の彼女は並の魔族よりも弱いのだからわざわざ言葉や態度で魅了していいように扱えるようキープする必要はない。廃棄処分したとしても戦力的にはなんら困らないのだ。
女王陛下?
よくよく考えれば使えなくなったガラクタをどうしてそんな風に敬う必要があるのか。
『それデ、そのウ、わらわは女王陛下なんてご立派なものじゃなくテ、だからこれからはラピスリリアって呼んでほしいんだゾ!!』
顔を真っ赤して。
何も知らずに魅了されたままの哀れな姿を晒して。
簡単にクルフィアの掌の上で転がるメスでしかなくて。
こんなの望めばいくらでも『つくれる』。適当に似た女を魅了してもいいし、見た目だけなら『創造ノ亡霊』の秘奥なしでも適当な生物の形を変えて再現することだってできる。
こんなのは気が向けば再現できる玩具でしかなく、わざわざこの個体にこだわる理由なんてもうどこにもない。
だから。
だから。
だから。
『……わかったわよお、ラピスリリア』
『っ!? ワッ、ワワッ、照れル、これすっごく照れるゾ!』
そんな一言で簡単に喜ぶ姿に、しかし悪い気はしなかった。
どうしてそう思えたのか、クルフィア自身理解できなかったが、とにかくいつでも廃棄処分できるならわざわざ今すぐに破棄する必要もない。
……あの裏切り者の思惑に乗るわけではない。絶対に。
なぜならクルフィアには野望がある。
サキュバスという誰かの想像通りの生き様では終わらないと。
仕草や言葉、魅惑的な肉体でもって他者を魅了する悪魔。そう定義されて、だけどそんな枠にハマるだけなのは絶対に嫌で、だからこそサキュバスとしての幸せではない『何か』を手に入れると誓った。
世界の全てを手に入れればまさしく何の文句もない幸せな結末が掴み取れるはずだ。全て。何もかもが手元にあれば不足はあり得ず、不満もないはずだから。……そこまでして、ようやく、生まれてからずっと感じていた飢えだって満たされるはずなのだ。そのためならサキュバスとしての力を振るうという矛盾だって必要な過程だと我慢できた。
だけど、もしかしたら。
彼女が本当に欲しかったのは大陸全土の支配権でも絶対的にして好きに操れる強大な『力』でもなくて──
ぐっばぁっっっ!!!! と。
その瞬間、彼女たちの正面の景色が引き裂かれた。
(これはあ、二つの世界の座標を擬似的に同一化させて壁を壊すことなく世界間を渡る召喚術のようなあ……ちょっと待ってよお。召喚だってえ!?)
それは。
つまり。
ぎゅるんっ! と床が盛り上がる。形を作る。
六。その数はまさしく色欲を除いた大罪と同数であった。
つまりは七つの大罪の悪魔。
その集結。
例えば六枚の漆黒の翼を生やした美しい男、例えば二本の角に黒い翼を生やした赤髪の男、例えば下半身が巨大な蛇の尾の女、例えば片眼鏡に白衣の気怠そうな女、例えば頭上の王冠だけが燦然と輝く全身咬み傷だらけの女、例えば金銀財宝に塗れた幽鬼のようでいて目だけはギラついた人影。
七つの大罪を司る悪魔の群れ。
その中でも六枚の漆黒の翼を生やした美しい男が口を開く。
『よお』
『……ッッッ!?』
大罪の悪魔は確かに倒した。
だがそれはあくまで魂を内包する土の器を破壊したり、退去の呪文でもって現世から追い出しただけだ。大罪の悪魔の魂には傷一つついていない。
だから。
だけど。
『どこの誰が召喚なんてしたのよお!?』
『誰と言われれば、吾だな』
『…………なあ、ん』
思わず。
大罪の悪魔を前にしているのも忘れてクルフィアは唖然とした声を出していた。
今、この男は、なんと言った?
『だから吾が召喚したんだ。悪魔を召喚することは昔の人間にもできたんだ。吾にできないわけがない』
『何をお、馬鹿じゃないのお!? そんなことができるなら悪魔は外界に留まっていないはずよお!! いつでもやろうと思えばどんな世界でも侵略できたはずう!!』
『だからこうして顔を出した。これまではわざわざ出向く理由もなかったが、随分と舐めた真似をされたからな。俗に言う報復というヤツだ。とりあえずあの日に吾に刃向かった者は皆殺しにしてやろう』
六枚の漆黒の翼を生やした美しいその男──『傲慢ノ悪魔』グリファルド=L=ライピーファは宣言した。淡々と、それでいで明確に。
つまりは、
『というわけでまずは貴様からだ』
七つの大罪の中でも最強。
そんな怪物の言葉に呼応するように他の大罪の悪魔が動き出す。
そこで純白の光が弾けた。
最強以外の五体の悪魔が純白の光に貫かれたのだ。
クルフィアがそれを認識した時にはもう終わっていた。
パンッ、と。軽い音と共に呆気なく五体の大罪の悪魔が消し飛んだ。
土の器を破壊されて元の居場所に退去したのではない。魂、その根幹を破壊されて死んでいた。魂喰いのように、その存在そのものを抹消する形で。
一瞬だった。
ここまで理不尽で圧倒的な存在をクルフィアは二人しか知らない。
一人は『黒滅ノ魔王』。
そしてもう一人は──
『久しぶりね、クルフィア。百年ぶりくらい?』
『「白百合の勇者」あ!? 確かにあの時似たような力の波動は感じたけどお、それにしても本当に生き返っていたわけえ!?』
慌てに慌てているクルフィアに『白百合の勇者』は軽く手を振って、
『あたしは「白百合の勇者」じゃなくて単なる母親なんだけど、そんなことより何やら物騒なのが出てきたわね。魔族四天王よりも踏み台としては使い勝手よさそう』
『なあ、にをお』
『本当はクルフィアをぶち殺しに来たんだけど』
そこでクルフィアを庇うようにラピスリリアが前に出るのを見て『白百合の勇者』は肩をすくめる。
『はいはい愛しのサキュバスには手ぇ出さないからそんな睨まないでよ。過去がどうであれ、これから先シャルリアの障害にならないならどこでどう生きていくとしてもどうでもいいし。……というか経緯はどうであれ「娘」を殺すのは気分が乗らないしね』
だから、と。
『白百合の勇者』は言う。
『これから先、クルフィアがこの世界に住む生命体を傷つけるために暗躍しようとしたらラピスリリアには命をかけて止めてもらう。そう約束してくれたら明らかに物騒なあの悪魔をぶっ殺してあげる。どう?』
『お願いするゾ』
即答だった。
クルフィアに楯突くような契約でも、他ならぬクルフィアを救うためなら迷う理由はなかった。
『そんなことでお姉ちゃんが救えるならいくらでも約束してやるゾ。だからお願いだからお姉ちゃんを助けて欲しいゾ!!』
『だってさ。さて、お利口さんなその子なら約束を守るためにクルフィアが悪さしようとしたら馬鹿正直に止めに入ると思うのよね。口約束でも何でもね。それを振り切ってくだらない暗躍はできる?』
『ワタシも舐められたものねえ。魔王の力を出力することができなくなった肉の器にこのワタシが止められるとでもお?』
『できなかったら、その時は二人まとめてぶち殺すだけよ。わかる? 二人まとめて、よ。後悔したくないならきちんと覚えておくことね』
『「娘」を殺すのは気分が乗らないんじゃなかったわけえ?』
『気分が乗らなくても必要なら殺すわよ。もっと大切なもののためならね。もちろんできることなら「娘」のためにも賢い選択をしてほしいものだけど?』
『……ちいっ』
そこで。
ようやく『白百合の勇者』は傲慢を司りし悪魔に目を向ける。
『あ、ごめんごめん。待たせたわね』
『構わん。何であれ立ち塞がるなら殺すだけだからな』
『わー怖ぁーい。傲慢の悪魔だっけ? 七つの大罪だか何だか知らないけど、ついさっきお仲間が瞬殺されたのもう忘れたの?』
『同じ枠組みでくくられていようとも彼奴らが吾と同等とは限らない』
『きゃーかっこいいー。それじゃあ何がどう違うのか見せてもらおうかな』
瞬間。
力が解放された。




