第十話 思い出のだし巻き卵 その二
馬車にあるほんの僅かな隙間から入り込んできた謎の光がアンジェリカ=ヴァーミリオンの全身を貫く。痛みはなかった。温かな心地だけが広がった。
そして、全身を覆う鱗が剥がれ落ちた。
醜い化け物という冠を拭い去って、白い肌が覗く。
ある日、目覚めた時に化け物に変貌したように。
その日、いきなり彼女は元に戻ったのだ。
ただし化け物に変貌した時と違って元に戻ったのは謎の白い光によってだ。偶然この場で自然現象的に発生した何かによってというのはいくら何でも可能性が低いので、どちらかというと『誰か』の力が彼女を救ってくれたと考えるべきだろう。
そう、あの光は外から注がれた。
ならば彼女を救ってくれた誰かは外にいるはずだ。
『っ!? 馬車を止めてくださいっ。早く!!』
返事はなかった。それもそうだろう。外にいる者たちはまだアンジェリカが醜く変貌したままだと思っているのだからいかに公爵令嬢が何を言おうとも決して外に出して誰かに目撃されるわけにはいかないのだから。
だから彼女は魔法で馬車を爆破、人が通れるくらいの穴をあけて外に飛び出した。馬車と並走していた公爵家所属の護衛たちが慌てるが、元に戻った彼女を見て驚き固まっていた。
そんな彼らを無視してアンジェリカは自分を救ってくれた誰かを探したが、ついぞ見つけることはできなかった。
『……、お礼くらい言わせてくださいよ』
その日からアンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢は何かが変わった。
ヴァーミリオン公爵令嬢として周囲の期待に応えながらも、アンジェリカという一人の女の子としての時間もつくった。
ある日全てはひっくり返ることもある。その時もうあんな風に後悔しないように『両立』を目指して。
だからアンジェリカは公爵令嬢『らしさ』に縛られない。もちろんヴァーミリオン公爵家に生まれた者として果たすべき責務は果たすが、必要以上に自分を追い込んで無理はしない。
一日のうちのほんの数十分、普通の女の子のようにお菓子やおしゃれを楽しんでもいいはずだ。
……できれば公爵令嬢『らしく』振る舞う必要のない、あの拾ったメイド以外のお友達と仲良くお喋りしたりもしたかったが、どうしても公爵令嬢である以上それは難しかった。
そんな時、学園に入学してから出会ったあの平民の少女にアンジェリカは目を奪われた。不思議とどうしても仲良くなりたいと、すぐにそう思った。
真っ白で温かな光と同じような雰囲気を纏うあの平民の少女に固執するのは公爵令嬢『らしくない』だろうが、そんな『らしさ』に必要以上に縛られるつもりはない。
自分の幸せは自分で掴むと決めた。
もう二度と後悔しないためにも望むものは『両立』して、きちんと掴み取るべきだ。
とはいえ肝心なところで素直になれずに未だにまともに話すことも難しいのだが、それもまた公爵令嬢『らしくない』アンジェリカだからこそだ。
苦労もあるが、それ以上に毎日が輝いていた。
あの真っ白で温かな光と同じような雰囲気の平民の少女、つまりシャルリアのことを考えるだけで胸が熱くなって幸せな気分になるのだから。
……最近ではあの店員さんのことを考えても同じような気分になる。シャルリアとは正反対の人間だろうに、どことなく雰囲気が似ているからだろうか。
ーーー☆ーーー
「ん……」
目覚めたアンジェリカは(最後のほうは別として)久しぶりに嫌なことを思い出したと言いたげに小さく唸り声をあげていた。
化け物のようだった自分の姿がまだ脳裏に焼きついており、最悪な目覚めだと公爵令嬢らしくもなく何事か吐き捨てようとしていたのだが……、
「あ、おはようアンさん」
ボサボサな髪を後ろで一本にまとめて、目元を覆うほどに長い前髪を純白の百合を摸した髪飾りであげるように留めた店員さんがなぜか目の前にいた。
唯一いつもと違うのはひらひらと揺れるスリットから肌色が見え隠れする大胆すぎる格好をしていることか。
「てん、いん……さん?」
どうして店員が目の前にいるのかとか化け物に変貌した時の嫌な夢を見たこととか何もかもが吹き飛んだ。
「…………………………………………、」
「さっ流石に見過ぎだと思うんだけど!?」
そんなことを言われても、寝起きにこんなものを見せられては思わず色々と大胆過ぎるアレソレに見惚れてしまうのも仕方ないことだろう。
ーーー☆ーーー
「うう。頭が痛いですわ……」
「二日酔いだね。そりゃあれだけ呑んでいれば二日酔いにもなるよ」
「わかっているのですけれど、つい」
「ほら水でも飲んで、ね?」
「ありがとうございます、店員さん」
シャルリアから手渡されたグラスを両手で持って口に運ぶアンジェリカ。
居間で机を挟んで公爵令嬢と向かい合う平民という普通ならあり得ない構図であった。いつもは父親が腰掛けている椅子に高貴にして嫌味たっぷりだけど実は不器用なだけで優しいところもあるアンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢が座っているのだ。違和感がすごかった。もう今にも心臓が飛び出しそうなくらいには緊張していた。
店で接するならまだしも、いつも過ごしている場所でとなるとまた違うものだ。
それに、アンジェリカもいつもと違ってどことなくしゅんとして元気がなかった。起きてすぐはそうでもなかったのだが、みるみるうちに元気がなくなったのだ。
二日酔いのせいでもあるだろうが、それ以上に酔い潰れて朝まで二階のベッドで眠っていたことを気にしているからだろう。
「店員さん、今回は迷惑をかけて申し訳ありません。いつもはメイドが迎えにくるからと油断して眠ってしまって……」
「い、いやいや、気にしないでいいよ。アンさんがよければいつでもベッドくらい貸すからこれからも遠慮なく飲み食いしてよっ。そのほうがこっちも儲けられるしね!」
「そう、ですか……。あ、昨日のお支払い……いつもお金を預けているメイドに任せているもので……今手元にお金がなくて」
「だっ大丈夫っ。ツケておくから次払ってくれたら全然大丈夫だよっ」
「本当に申し訳ありません……」
「いや、本当大丈夫だから。あは、ははは……」
「…………、」
「…………、」
やはり店ではないからか、それともアンジェリカが酔い潰れて朝まで世話になったことを予想以上に気にしているからか、どうにもぎこちなくなってうまく会話が弾まなかった。そんな重い空気に耐えられず逃げるようにシャルリアはどうにか『店員モード』でこう提案した。
「と、とりあえず朝ごはんにしよっか。軽く作ってくるけど、アンさんも食べていく?」
「……、え? 店員さんの手作りですか?」
「うん。あ、過度な期待はしないでよね。お父さんには遠く及ばないし。それともそろそろ帰ってくるお父さんに作ってもらったほうが──」
「店員さんの手作りでお願いします!!」
「うおっ、そ、それでいいの?」
「ええ、ええっ!!」
何でそんなに鬼気迫る顔なのかと疑問だったが、それ以上にぎこちなく重い空気がなくなって良かったと思いながら二階から一階の厨房に移動するシャルリア。
そして膝から崩れ落ちて頭を抱えた。
「うわあん!! 私のばかっ、何を言っているんだよぉおおお!! 公爵令嬢に私の手料理を振る舞う? クソまずいってバッサリ切り捨てられるだけに決まっているじゃん、もお!!」
その場のノリというかあそこから逃れるための理由づくりというか緊張してテンパっていたというかいつもこの時間は朝ごはんを食べているから深く考えずに口から出た言葉というか、とにかく冷静になってみると自殺行為にもほどがある。
父親が帰ってくるまで待って代わりに作ってもらおうかとも考えたが、下手に待たせて機嫌を損ねられても困る。
それに、あり得ないことではあるが、自分の料理を万が一にでもあのアンジェリカ=ヴァーミリオン公爵令嬢が美味しいと誉めてくれたら……。
「くっそう。しゃーないから頑張りますか」
人間、いきなり覚醒してこれまでできなかったことができるようになるなんてことは滅多にない。ここは下手に背伸びせずいつも作っているものを作るのが一番だろう。
というわけで卵を手に取って調理開始である。