私は妻に精霊の泉に身を投げろと言った
精霊の泉にほど近い森の小屋に移ってから、ジョーセフは何度も何度も考えた。
自分はどこから間違えていたのだろう、と。
アリアドネを仮初ではなく正式な妃にしたのは、彼女の望みに応えることでデンゼルへの恩返しになると思ったから。
その時アリアドネは12歳、閨ができる訳がなく、けれどそれが可能になる頃には今度はジョーセフの気持ちが捻れていて。
女性に興味がない、もしくは淡白なのかもしれない、ジョーセフのそんな自分に対する評価は、カレンデュラを抱いて雲散した。
カレンデュラの身体は素晴らしかった。抱いても抱いても飽きることはなく、夜毎に彼女を抱いた。
子が3人生まれ、そのうち王子が2人。
ジョーセフはもちろん嬉しく思ったが、宰相の喜びはひとしおだった。
そんな時、ジョーセフは毒に倒れ、その後にカレンデュラも倒れた。
カレンデュラ付きの侍女の証言で、毒の送り主はアリアドネと分かった。
ジョーセフは激昂し、すぐに排除に動いた。
けれどアリアドネは頑なに罪を認めない。
業を煮やしたジョーセフは、確実に処刑へと持っていく為に、ある言い伝えを利用する事にした。そう、精霊王の裁きだ。
浮けば有罪で処刑、沈めば無罪。
これで、どちらにせよアリアドネは死ぬ事になる。
そうしてジョーセフは言ったのだ。
「精霊の泉に身を投げよ」と。
あれはジョーセフの最大の罪だった。
そして、引き返せる最後の機会だった。
侍女ひとりの証言を鵜呑みにせず、カレンデュラがわずか半日で回復した事を疑問に思っていれば。
カレンデュラが散歩と称して出る先を、後の報告だけで満足せずに確認していれば。
毒で意識を失っていた間、ジョーセフを看病していた本当の人物の名を伝えてきたメイドを解雇しなければ。
アーロンの言葉に、もっと真剣に耳を傾けていれば。
デンゼルの忠義を、アリアドネの心を、疑いさえしなければ。
間違えすぎて、ジョーセフが犯した過ちを数え始めたらキリがない。けれど、もし、たったひとつだけやり直す事ができるとしたら。
あの時の命令を、精霊の泉に身を投げろという言葉を取り消すだろう。
けれどジョーセフは、自分の罪が明らかになった時も、それを認める事ができずに夢に逃げた。
夢の中のアリアドネは幸せそうで。
ジョーセフもまたそんなアリアドネの隣にいられて幸せで。
ジョーセフの失態をアーロンが尻拭いしている事も知らず、ジョーセフはただ幸せな夢に浸った。
そんな資格は自分にはないと、きっと心のどこかでは分かっていたのに。
精霊の泉の前でアーロンが泣きながら叫んだ。まだ自分は何も間違ってなどいないと言うのですか、と。
過ちを認め、贖罪の道を進む為に何をすべきだろうか。
考えた末に、ジョーセフはアーロンに頼んだ。
精霊の泉近くにある管理小屋に住みたいと。
火おこしも薪割りも水汲みも洗濯も、何もかも知らない事ばかり。塔に幽閉されて三食掃除世話人付きの方が遥かに楽な事は言うまでもなかった。
それでもまだ王族籍があるジョーセフを飢えさせる訳にはいかないと、食材は定期的に運ばれ、ヨバネスが様子を見に来た。
森の家に移って約半年後、アリアドネの命日に偶然に見かけた泉周辺の光は、ジョーセフの心に希望を灯した。
妖精になって生きているというアリアドネに会えるかもしれない。
もしかしたら、直接アリアドネに謝罪できるかもしれない。
毎朝、泉の淵に跪いて懺悔するより、アリアドネの前で謝りたいと思った。そうしたらきっとアリアドネは許してくれる。
けれどその翌年も願いは叶わなかった。
泉の上を舞うように光の一つを指したセドリックが「こちらに来ます」と驚きの声を上げた瞬間、全ての光が消え、泉は再び静寂に包まれた。
ジョーセフはアリアドネに会えなかった。
他の皆が去った後も、ジョーセフはそこに留まってただ泉を眺め続けた。
しかし、それからも何も起きず。
いつの間にかその場で眠ってしまったジョーセフは、夢の中で男に話しかけられた。
男は自らを精霊王だと言った。
『お前を試すとしよう』
精霊王は泉の水で人の形を作った。
髪色、目の色、背の高さ、全てがジョーセフにそっくりの水人形だ。
それは精霊王の手を離れると、ふらふらと歩き出し、森の中へと消えた。
次に精霊王はジョーセフを水で包んだ。
『彼奴らは再び生まれる事はない。もう二度とあれが怖い思いをする事がないよう、わたしが魂を潰した。さて、お前はどうだろう』
すっぽりと水で包まれた向こうで聞こえる精霊王の声は、くぐもってはいたがきちんと聞き取れた。そして不思議な事に、全く息は苦しくなかった。
水の膜の向こう、ぼやける視界の先に、泉に向かって歩いて来るアーロンたちが見えた気がした。
だが、その後の事は分からない。
ジョーセフの意識はそこで途切れたからだ。
目覚めた時、ジョーセフは寝台の上にいた。
いつもと同じ森の家、同じ部屋、同じ寝台。
けれど外に出てみると、そこにいる筈の人たちがいなかった。そう、慰霊訪問の一行が。
森はいつも通りの静けさで、物音ひとつしない。
まるでこの世界にジョーセフただひとりしかいないようだ。
ジョーセフは、ふと振り返った。
誰もいないのに、セドリックとリゼットの声で、さようならと言われた気がしたからだ。
もちろん、振り返った先に人はいなかった。
アーロンたちは知らないうちに出発したのか、結局、その日ジョーセフは誰にも会わずに終わった。
けれどその後も誰にも会う事はなかった。
2週間に1度来る筈の食料配達人も来ない。ヨバネスが様子を見に来る事も、アーロンからの手紙が届く事もない。
ジョーセフから手紙を書こうにも、監視の為の騎士がいる筈の場所にも、森の番人が住む管理小屋にも行けなかった。
行こうとしても、いつの間にか自分の家に戻ってしまうからだ。
最初は困惑したジョーセフも、やがて諦め、考えるのを止めた。
食料は自分で調達する事にした。
当然ながら足りずに毎日腹を空かせたが、不思議な事に餓死には至らなかった。
腹は空くし、動き回れば疲労は溜まる。
けれど、どこまでしても体は動いた。
精霊の泉には自由に行くことができた。
だからジョーセフは泉に行く。
毎朝、毎夕、懺悔を捧げに。
ジョーセフは泉の淵に膝をつき、頭を垂れて懺悔する。
どこかでアリアドネが、そして精霊王が聞いていると信じて。
ジョーセフは知らない。
あの日、ジョーセフの体は精霊王に取られ、彼の知る世界から離されたことを。
泉の底にアリアドネはもうおらず、懺悔する姿を見るのは精霊王だけだということを。
ジョーセフは知らない。
タスマとカレンデュラの魂は、彼らを憎んだ精霊王により捻り潰され、もう二度と人として生まれる事はない事を。
ジョーセフは知らない。
彼もまた今、精霊王に試されており、その審判によっては魂ごと消滅する可能性があることを。
ジョーセフは何も知らず、何も気づかず、今日も、精霊の泉への道をとぼとぼと進む。
そして泉の淵に膝をつき、懺悔をするのだ。
「私は妻に精霊の泉に身を投げろと言いました・・・」と。
【完】
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