アリアドネへと、祈る
ジョーセフはかつて、自尊心を守る為だけにアリアドネの手を振り払い、死に至るまで追い詰めた。
そんな彼にとって、ソニアの言葉をすぐに呑み込むのは難しかった。けれど、激昂するほどの愚か者でももうなかった。
真実を知った日以来、話すことも顔を合わせることもせず遠ざけた子どもたちは、そんなジョーセフの反応をじっと窺っていた。
何年かぶりに向けられた子どもたちからの真っ直ぐな瞳にも戸惑い、ジョーセフは結局、曖昧な返事を返すだけでその場を後にした。
歩を進めるジョーセフの頭に、先ほどのソニアの言葉が過ぎる。
―――親の罪は親のもの、子どもには何の罪もない―――
そんな事は分かっている、とジョーセフは呟いた。
悪いのはジョーセフ。
そして、元宰相の誘導に乗ったカレンデュラとタスマだ。
姦通の果ての子だとしても、セドリックとリゼットが罪を犯した訳ではない。
今ならそうと分かるのに、あの時のジョーセフはそうではなかった。セドリックとリゼットの姿を目に入れるのも忌々しく、腹が立って気が狂いそうだった。
あった筈の愛情は、事実を知った瞬間にあっさりと消えてしまった。
その時6歳と4歳だった幼子は、父と思っていたジョーセフの豹変に何を思っただろうか。既に母親が罪人として処刑されたばかりだったのに。
けれど、そんな事を考える余裕すらあの時のジョーセフにはなかったのだ。
ただ自分の身に降りかかった出来事に怒り、嘆き、そして逃避した。
―――加害者だったのに、まるで被害者であるかのように。
「・・・血の繋がりだけが親子を作るなど戯言、か」
全ての真実を知っている訳でもないくせに、ソニアの言うことはやけに核心をついていて。
それが余計にジョーセフを情けない気持ちにさせた。
やがて午後3時を回り、アーロンたちは泉の淵に立った。
設営を終えた騎士たちも、泉へと集まった。
「お祈りは、声に出して言うのですか?」
セドリックの問いに、アーロンは少し考えて口を開いた。
「どちらでもいいと思うよ。お前たちの好きなようにしなさい」
セドリックは頷くと、地面に膝をついて胸の前で両手を組み、目を瞑った。それを見たリゼットが、兄を真似る。
アーロンもまた膝をついて目を瞑り、心の中でアリアドネに語りかけた。
伝えたい事はたくさん、たくさんあった。
助けられなかった後悔、自分の力が足りなかった事への無力感、側にいてくれた事への感謝など。
義姉上、あなたは僕の初恋の人でした。
隣の女性が見えますか? 彼女は僕の妻です。
やたらと気が強く、意外と鋭く、でも実は色々と配慮する人です。
よくなんだかんだと注文をつけられますが、不思議と腹は立ちません。
しかも大抵のことは間違っていないから、文句も言えないのです。
見ましたか? 先ほどは兄上がやり込められていました。
この人となら、王国を立て直せるかもしれないと思っています。
義姉上が王家に嫁いでまで守ってくれたこの国の民を、これからは僕が何とかして守っていきたいと思います。
でも、その守るべき存在の中に、もう義姉上がいない事を寂しく思うのです。
もう叶わない願いですが、出来る事なら義姉上、あなたにもう一度会いたい―――
ソニアが聞いたら女々しいと笑うだろうか、ふとそんな考えが頭を過った時、「はじめまして、義姉上さま」と、隣から彼女の呟きが聞こえた。
「テマスより参りましたソニアと申します。縁あってアーロンさまの妻になりました」
小さな小さな声だった。
彼女は続けた。
自分は母国で疎まれていたこと。
母が正妃に殺されたこと。
父王は何もしなかったこと。
「信じた人に裏切られた母は、さぞ悲しかったと思います。もしかしたら、この泉に身を投げた時のアリアドネさまと似た気持ちだったかもしれません。愛妾だった母と比べるなど烏滸がましいですが、どうしても他人事とは思えず無理を言って来てしまいました」
ソニアの声は囁きにも似ていて、隣のアーロンでも聞こえるか聞こえないかの小ささだった。
それほどにソニアの声はか細く、微かに震えてさえいて。
こんな弱々しいソニアを見たのは、初めてだった。
「今は精霊となられたアリアドネさまに、お会いすることは叶いません。きっとあなたさまとなら、何をしても何を話しても楽しかったでしょうに」
「あ!」
厳かな空気を破った声は、リゼットのものだった。
リゼットは泉の上を指さし、「何かキラキラ光ってる」と言った。
その指す方向へとアーロンたちもまた視線を向ける。
今は夏の終わり。
日差しはまだ強く、泉の上から陽の光が水面を照らし、反射光は眩しいほど。
だから気のせいだと言おうとした。
光を見るとしても、それはきっと夕方近くになってからの筈だから。
けれど今度はセドリックが声を上げた。
そして2人が同じ方向を指で示す。
それは明らかに水面ではなく、それよりもずっと上。
しかも、2人の指が示す先はひと所に留まらず、彷徨うように絶えず動き続けるではないか。
アーロンやソニアもまた目を凝らすが、まだ4時を過ぎたばかりのこの世界は、忌々しいほどに明るく、眩しく。
だからアーロンもソニアも、また他の者たちも、ただ黙って2人の子どもが示す指の先を目で追うことしか出来なかった。




