その人はもういない
頭を抱えてぶつぶつと呟くジョーセフは、もはやどこにもアリアドネの姿を見なくなったようだ。彼女の名前はそれきり口にしなくなった。
アーロンは振り返って精霊の泉に一礼し、精霊王への感謝とアリアドネを助けられなかったことの詫びを口にした。
その時、心のどこかで、自分の前にも小さな光の玉が現れはしないかと期待したけれど、そんな奇跡は起こらなかった。
騎士の1人がジョーセフを抱える様にして騎乗し、城へと戻る道を進む。相当な揺れにも関わらず、いつしかジョーセフは眠っていた。
今回アーロンに同行したのは、かつて西の塔に向かった時に共に行動した騎士たちだ。アーロンが最も信頼する者たちで、あの日西の塔での惨劇を目撃した関係上、王家の闇も知っている。
そう、ジョーセフが種無しであることや、タスマとカレンデュラの関係、それに表向きはジョーセフの子とされている王子王女の本当の父親についても。
彼らの忠誠をアーロンが疑ったことはないが、他からの不要な横槍が入らぬように、それら騎士たちとはその後に誓約魔法を交わした。
ジョーセフの処遇に関しては、既に議会で何度も意見が交わされていた。
この時もやはり「王家の血を持つ者が」との理由で、幽閉が一番無難とされた。
ジョーセフに子種はないが、それを知る者はあの日西の塔にいた者たち以外は誰もいない。
タスマとカレンデュラの姦通は処刑の時に明らかにしたが、まさかジョーセフの3人の子ども全員がタスマの種とは誰も思ってはいない。
実はこの時、本当にごく一部の貴族からだが、ジョーセフを精霊王の裁きにかけるべきという意見も出た。だが、すぐに反対の声が上がった。
アリアドネの時に身に染みたのだ。
精霊王の裁きは、単に願い出た者の罪の有無を見定めるものではない。
有罪である者の命が支払われて漸く終わるものだ。
もしジョーセフを泉の裁きに委ねたとして、それがアリアドネの死への責任を問うものであるならば、彼は間違いなく水面に浮き上がる。つまりは有罪だ。
精霊王による有罪判決は死を意味する。
幽閉や他の刑罰では裁きが遂行されたとは見做されず、また国全体に、アリアドネの時のような天変地異が臨むかも分からない。
精霊王は、人と見るところが違う。
自分たちの秤で計れる存在ではないのだ。
それに何より、アーロン自身がジョーセフの処刑を望まなかった。
ジョーセフには、アリアドネへの仕打ちを、自分が起こした行動の結果を、長く深く悔いてほしい。
罪の重さを感じ、一生アリアドネの死の責任の一端を負って生きていってほしい。
そう思いつつ、それが最適解なのかとアーロンは迷う。
自分が兄であるジョーセフを生かしておきたいだけではないか。
もしジョーセフが正気に帰ったとして、アリアドネへの贖罪の方法を自分もまた死ぬことだと考えるなら、どう判断するのが正しいだろう。
誰か答えを教えてほしいと願って、自分は今その立場にいないと気づく。
アーロンは国王代理。自分の決定が国全体の決定となる。
もう慣れたつもりでいたのに、ふと気づけば心が弱音を吐きそうになる。
そしてまた思うのだ。
兄はずっとこんな風に決断を迫られていたのかと。
相談する相手はいるとしても、最終的な決定は自らの肩に置かれ、その重さに思わず膝をつきたくなる。
孤独で、これが正しいかと不安で、怖くて堪らない。
国王は孤高の存在、だからこそ心を許せる伴侶が必要なのだと、臣下が言うのは尤もなのだと身をもって知った。
たとえその言葉の裏の理由が、王家の血の存続にあるとしても。
「心を許せる伴侶・・・か」
アーロンは馬を駆りながらぽつりと呟いた。
兄と似た状況に置かれた今、その存在の重さが分かる。
けれど悲しいことに、そう呟いただけでアーロンの脳裏に浮かんでしまう女性は、もうこの世にはいないのだ。
―――少なくとも人としての姿では。
でも、とアーロンは小さく独り言ちた。
兄上、あなたの時にはいたじゃないですか。
いつだって手を伸ばせば触れられる場所に、アリアドネはいてくれたじゃないですか。
往路とは打って変わった速さで進む復路。
愛憎と哀惜と、嫉妬と怒りとやるせなさ。
複雑な感情に翻弄されながら、アーロンはぎりりと歯を噛みしめた。




