有刺鉄線と壁
疑いが一時的に晴れた俺は、呪縛を解かれてなんとか自由の身となった。
しかし、記憶もなければ次に行くアテもないという話を考慮してくれ、なんだかんだ同情的な目線を向けられることになり、ロウが自身の住まいへと案内をしてくれることになった。
「…どこから来たのかしら」
「危ない奴じゃねーのか? あれ」
「ロウさんが言うなら、まぁ…」
ロウやメイビたちと歩いていると、さっきまで姿を隠していたと思われる人々が少しずつ現れ始める。 人がどこにもいなかったのは、完全に気配を消してしまっていたからだったのか。
もう安心だ、とロウは周囲へ伝えながら闊歩する中、俺は大人しく後続する。
やはり、なんとなく居心地がよくないのは、仕方がない。
隣を見ると、メイビが心配そうな目で俺を見ていた。 まったく、幼女に助けられるとは思いもしない。 それにこんな憂慮な顔をされてしまうと、心がズキズキと痛んでくる。
生き残るためには、多少の方便は仕方がないのだ。 …そんな目で見ないでくれ。
ほとんど変わらない景色の中、つらつらと歩いていくと、やがてロウの家だと思われるところが見えてきた。
この街は全体的に統一感が強く、建物の区別がつきにくいのだが、外壁や窓は他と比べると綺麗だった。
――それにしても、ルシファーは未だに姿を現さない。 無責任というか、期待した俺が馬鹿だったのか。
玄関を通されると、そばにあった木製の椅子を勧められる。 言われるがまま腰をかけると、ギィという軋む音が鳴った。
「記憶がないというのは、本当にやっかいなものだな」
俺の向かい側の椅子に、ロウは腰を降ろす。
先ほどまでの険しい表情は嘘のように消えてなくなり、物憂げな眼差しをしていた。 この顔だけ見ると、怒ったことなど人生で一度もない、温和が服を着て歩いているような人だというのに。 明王のような形相が頭から中々離れてくれない。
屋内は意外にも広く、学校の教室一つ分くらいはあるのではないか、というゆったりとした間取り。 テーブル、椅子がドンと中心に鎮座しており、本棚がいくつか並んでいるくらいで、広さの割に家具が少ない。 奥には階段が見えており、2階に続いているのだろう。
メイビは「はい、どうぞ」と言い、俺の目の前にコップを置いてくれる。 透明な液体は、おそらく水だろうと思われた。 小さく会釈をした後、唇を淵につける。
「誤解を与えてしまってすいませんでした…自分でも何が何やらさっぱりで…」
身体を出来るだけ小さくして、慎ましさアピールを試みる。 良心が痛むが。
この家を慣れた様子で歩き回っているところを見ると、ロウとメイビは親子と見てもいいだろう。 さしずめ、愛娘ってところか。 可愛くて仕方がないんだろうな。
「お名前、覚えてないの? どんなところに住んでたとか、ちょっとでも思い出せそうなことはない?」
向かって左側の椅子にちょこんと座るメイビは、顔と腕を机の下からひょっこりと出して言った。
「――名前、ですか…」
俺は思惑した。
記憶喪失という設定を貫くのであれば、ここはもちろん「記憶にございません」というのが模範解答だろう。 早々にそれを言い放とうとしたが、少し思いとどまってしまった。 だがだが、ここは敢えて、名前は憶えている、というのもアリかもしれない。
――その心は“反応”だった。
ダラダラと歩いていた時、一応いくつかの候補は考えていたのである。
だが今一つしっくりくるものが無く困っていたのだ。 ジョナサン、マイケル、アリオンティウス、湧き出てくるのは、なぜかビビッとこない名前ばかり。
そうなってくると、シンプソンという名前はベタすぎず、奇抜すぎずで意外と良いんじゃないのか、という気になった。
名前を名乗り、スッと通過すれば、俺は今後もシンプソンで行く、そう心に決めたのだ。 ルシファーの命名を採用するのは本当に癪だが。
「実は名前だけ、それだけは憶えておりまして…」
ボソリと、静かに口火を切る。
目の前の2人が、俺の次に発する言葉を待っていた。 さぁ、どうなるのか。
「――シンプソン、確かシンプソンという名前だったのです。 それだけ、記憶に残っているのです」
なんとか拙い記憶を掘り出してきた、という雰囲気に見えるように、しかめっ面で言ってみる。 我ながら、この場面は名演技だったように思う。
しかし、想像していた反応というのは得られなかった。 釈然としない、小さな間が空いた。 視点はコップへと一点に向け、ドキドキとしながら第一声を待つ。
……やはり、変な名前だったのか、大人しく田中勉で行けばよかったというのか。
それか、名前の記憶が残っているというのが不信感を煽ったのか!? そうなると非常にマズい。 逃げるのはまず難しいだろうから、またしても弁明の言葉を探さなくてはならない。
しかし、そんな予想は杞憂に終わり、2人は目を見合わせて感心するような声を出した。
「国の英雄と同じ名前とは、これは珍しいなぁ」
「えぇ~!? お兄さんって英雄なの!?」
俺は目を丸くしていた。
一体なんのことだ、そんな疑問は瞬時に拭われることになる。
「シンプソンといえば、アールメイラを建国した英雄の名前だよ。 あまり見かけない名前だからね、俺も同性と会ったのは初めてだ」
ロウは髭を撫でながら、珍妙なもの見るように眉を持ち上げる。
記憶が無いという設定の俺に優しく教えてくれたのだが、どうやら、この国の名前が「アールメイラ」と言うらしく、この国を1000年ぐらい前に作った建国者がシンプソンと言う男のようだった。 都市へ行けば必ず石像が置いてあるという、超有名歴史上の人物といったところ。
「かっこいい~! シンプソンさんっ!」
メイビが身を乗り出し、こちらに羨望の目が向けてくる。 建国主と同じ名前というだけで、俺がかっこいいわけではないのだが。
変わった名前の歴史人物と同じというと、元の世界に例えるのなら、長宗我部とかその辺になるのか。 知らないが。
とはいえ、あんまりメジャー過ぎる名前だと少々気恥ずかしさというのもある。 今後名乗るのは少し躊躇ってしまいそうだ。
きっと、ルシファーの奴はこのことを知っていて発言したに違いないな。 この光景もどこかで見ていて、ケタケタと笑っているのだろう。 性悪悪魔め。
「まぁ、記憶が戻るまで、この街でゆっくりしていったらいいさ」
ロウは鷹揚に立ち上がると、棚から何かを取り出して机の真ん中においた。 目を輝かせたメイビがそれを手に取り、ぱくぱくと食べ始める。
頂きますと言い、俺もそれを手に取って一口齧る。 何の原料からできているのかわからないが、粉系をこんがり焼いた焼き菓子。 なんにせよ、昨晩から何も食べていない俺にとってはご馳走に違いなかった。
「ねぇねぇシンプソンさん! お友達にシンプソンさんのこと紹介してもいい? 皆きっと喜ぶの!」
口元にお菓子の欠片をくっつけながら、メイビは閃いたように口を開いた。
それを見て、ロウは「行儀が悪い」と注意をしている。 微笑ましい親子の会話。 ついさっきまでは不審者だった男を、友達に紹介して大丈夫なのか。 まぁ、俺に好感を抱いてくれているのだろう、そこについては嬉しくもあるが。
「僕なんかでよければ…」
名乗ってしまった以上は仕方がないので、シンプソンで通そう。 それに、どうせ今のところは行く宛も向かう先も何もないわけだし、暫くここで厄介にならせてもらうのは俺としても渡りに船だ。
◇
それからしばらく、俺の記憶がどれほど残っているのか、色々と質問を投げかけられることになった。 もちろん「覚えていない」を繰り返していたのだが、記憶を取り戻す切り口を探そうと親身になってくれる2人の姿に、俺は罪悪感でてんこ盛りになってくる。
やり取りしている中、俺も俺で、この世界のことについて幾つか尋ねてみた。
ロウは質問にわかる範囲で答えてくれた。
「この世界にはそんなに多くの国はない。 俺たちが今いるこの国、アールメイラ。 それと、そこにあるどデカい山「ベートル」の向こう側にある、ルズって国の2つが、大国として存在している。 他は吸収されたり、従属したりといった感じだね」
正直、俺は記憶喪失を自称したことについては、かなり正解だったと改めて感じていた。
どんな質問をしたとしても、不審に思われることはないからだ。 気づかぬ内に地雷さえ踏まなければ、これほど便利なものはない。
「平和かって? 残念ながらそうじゃない、今まさに大国同士でぶつかり合っているところだよ。 そう、戦争だ」
ルシファーに聞いたとしても、こんな情勢については教えてくれないだろう。 正確には、知らないのかもしれないが。 興味がないとか言って、おごり高ぶるのが関の山だ。
要約すると、このアールメイラって国と、大きい山の向こうにあるルズって国が戦争していて、今は停戦中。 いつ戦いが始まってもおかしくない緊張状態ってところ。 大きい山というのは、たぶん空を飛んでいた時に見えた山のことを指しているのだろう。
今、この場だけを見ているとそんな風には一切見えないが、侵入者として俺を見ていた時の警戒具合を思い出すと、その通りなのだと納得してしまう。
「さっきは驚かせてすまなかったね、山の向こう側が敵国なだけあって、外から来た者には敏感になってしまっているんだ。 まぁ、ベートル山はそう簡単に超えられるような山ではないんだがね…」
申し訳なさそうに謝罪するロウを見て、俺は頭を上げてくれと懇願した。
話を聞いていけば、住民の反応は当然と言えば当然だったのだ。
見慣れない格好の奴が、フラフラと街を歩いていたらそりゃ警戒されるというものだ。 東洋系顔の俺に対して、ロウやメイビは目鼻立ちのくっきりした西洋系の顔。 俺は上下スーツ着用に対して、2人はどこか民族的な装束を着ている。 もう外見からして浮いているのだ。
最後に、俺は気になること一つ聞いた。
質問の答えについて、「直接見た方が早い」とロウが言った。
ロウの家を後にして街へ繰り出すと、道案内をメイビが名乗り出た。 先頭を意気揚々と走りながら、「早く」と言ってロウと俺を急かす。
景色をよく見てみると、既視感があった。
思い出せば、この道は俺とルシファーが最初に歩いてきた道のり。 先ほどまでいた街の中心部と変わらない、老朽化した街並みが続く。
そして、ルシファーの翼で降り立った場所を超えた先へと、メイビは手を広げて走り抜けていく。 俺を助けてくれた時はどこか凛とした表情をしていたが、今の彼女はどこにでもいる子供といった感じだ。 きっと、今の姿が本来の性分なのだろう。
やがて、目的のものが姿を現し始めた。
爆弾で爆破してもビクともしなさそうに見える、高さ数メートルはあろうかという頑強な門と扉。 それを支えるように、巨大な岩を積み上げて作られた塀。
よく見ると、扉や塀の頂上には棘を有した紐のようなものが、雁字搦めに括り付けられている。 少し体重を加えただけで、肉を引き裂いてしまいそうな、元の世界でいうところの有刺鉄線。 もしかすると、こんな塀が街を丸ごと囲んでいるっていうのか。
「外は何かと物騒だからね…こうでもしないと安心して生活することなんて出来ないんだよ」
メイビは到着するや否やロウの後ろへと走っていき、隠れるように身を潜めていた。
これがあるからこそ、俺の侵入経路を詳らかにしたかったのだろう。
ロウに「門とは何だったんですか」と問うたのだが、その答えがこの棘が生えた扉ということ。
これだけ重厚な壁に囲まれて生活しているのだから、侵入者に敏感になるのも、なおさら理解できるというものだ。
俺はロウとメイビに礼を言い、また街の中心部へと戻り始める。 さっきまでと打って変わり、メイビは元気に先頭を走っていた。