ライトノベル
「――人間よ! それは実にいい考えだねぇ~? いや素晴らしい発想力だよ!」
頭の固い親父が遊園地へ連れて行ってあげる、とようやく白旗を上げた後の娘の顔というのは、おそらくこんな感じなのだろうか。 現実には中学生くらいの思春期の女子が、親父と遊園地など行きたがるはずもないだろうけど。
「いやいや、今のはナシ! うっかりってやつで、こんなもので取引成立だなんて認められないからな!」
「いいじゃ~ん、せっかく願いが叶うんだよ~? この世界の人間が誰一人として叶えることができない望みを、お前は叶えることができるんだからぁ~? しかもノーリスクでぇ~」
このガキ、俺の完全な余計な一言で完全に生き返りやがった。
さっきまで腹でメソメソしていたくせに、最初のペースに戻りやがって。 もちろん、悪魔は俺の腹からは、とうの昔に離れており、気持ちの悪い粘り気だけを置いていってしまった。
それに、なんでこいつ急にこんなに盛り上がってんだ。
「楽しいよ~きっと? 非現実的な世界がお前を待ってるかもしれないよ~?」
「いーや!! 俺には明日仕事があるんだ、異世界なんてものにうつつを抜かしてらんないの! それに、絶対なんか裏があんだろうが!?」
俺は気が付いたら、相手が悪魔だということもお構いなく喰ってかかっていた。 元気になった悪魔を見ていたら、なんだか無性に腹立たしく見えてくる。 涙補正というのは末恐ろしい。
…だが俺は、自らの失言でありながらも、異世界という言葉にどこか惹かれてしまっていることに、一応は気が付いていた。
「本当に裏なんかないのに~! 信じてよぉ~!」
悪魔はジタバタとその場で地団太を踏む。 もちろん、その言葉を信用なんてすることはないが。
「俺には大事なお客様と会社があるんだ、空想ファンタジーなんてものに付き合う暇なんて…」
あるわけがない、俺はそう言いかけて口をつぐんだ。
本当か? 本心なのか?
躊躇している俺に、目の前の悪魔は、頬を膨らませながらこちらを睨みつけてくる。
まさか、俺の精神に干渉してきている、なんてことはないよな。 いや、俺は正常だ。 でも、相手は時間を止めることができる存在、何ができても不思議はない。
俺はファンタジーなんて夢物語は、とうの昔に卒業している、はず。
社会人3年目、俺は25歳を迎えている。 小・中・高・大をなんとかダブることもなく卒業し、そこそこ厳しい就職活動を乗り越えて今がある。 今は必死で仕事に食らいつきながら親元を離れて生活をしているが、今後の人生をずっと仕事をして生きていかなくてはいけない。
だが、それは仕方がないことというか、当たり前の常識だ。
働かなくては生きていけないし、社会は回っていかないのだ。 そう割り切って生活すれば、仕事だって案外苦にならない気もする。 そう、苦しい事ばかりじゃない、楽しい事だってあるんだから。 そう考えて生きてきたし、生きていくつもりだったのに。
それなのに、なんでこんなに、気分が高揚しているのか、俺は。
「ふっふ~ん、迷っていますねぇ~おきゃくさ~ん? 仕事が気になるんでしょう、明日の予定もギッシリでしたもんね~? でも大丈夫ですよ~? なんたって目の前にいるのは最上級悪魔様でやんすからね~~過ぎてしまった時間なんて元に戻してご覧にいれますよぉ??」
得意げな顔を浮かべ、横髪を指先ででクルクルと弄りまわしている。 これ見よがしに甘い言葉を繰り出す。 流石は悪魔、ここぞという場面で誘惑することについてはそこそこ上手い。 確かに、俺は明日の仕事を気にしていたが、こいつの言う通り、時間はなんとかしてくれそうだ。
「――とはいってもだな、俺に対するデメリットがやはり不明瞭すぎる。 魂を抜かれるとか、お前の支配下に置かれるとか、寿命が縮まるとか、なんかあるだろう絶対!」
指先を突き付けながら捲し立てる俺だったが、そんな指摘など意に介さず平然と反論をしてくる。
「自惚れないでほしいなぁ~? ボクみたいな超絶崇高な存在が、お前のような微小な存在の何かをほしがるとでも~? バカバカしくて笑っちゃうよぉこんなの」
うはははは、と腹を抱えて悪魔は大笑いしはじめる。 なんなんだ、この敗北感に似た感情は、無性に悔しくなってきた。
悪魔という存在が、どれくらいヒエラルキーの上に君臨しているのか知らないが、悪魔に言わせれば下等な存在ということなんだろう。 極端に例えるなら、道端の蟻がパンくずをせっせと運んでいるのを、俺が奪い取ってやろうと思うか? ってとこになるのか。 って、何を自己補完して納得してるんだ俺は。
「ふんふん、自意識過剰もここまでくれば可愛くみえてくるねぇ~」
悪魔は歯をむき出しにして、品定めをするように俺を見る。 だが、こいつにだけは「自惚れ」とか「自意識過剰」ということは言われなくない。
そもそもだ、俺から欲しいモノがないのなら、俺が話に乗ったとしても差し出す物がないじゃないの。 それって取引に乗ったとしても合意に至らないってことじゃん。
…しかし、やはり本音を言ってしまうと、すごく魅力的な言葉だ。 異世界。 言葉で必死に否定したところで意味はない。 その裏付けが、鞄の中に入っているんだから。 そりゃそうだ、この世のものではない何かに触れたい、という願望は誰だってあるんだ、俺だって例外じゃない。 下心を出すなら女の子に囲まれたい、男の子なんだからしょうがないじゃないか?
こいつが思春期真っ盛りの10代半ばに現れていたら即決だったろう。 しかし、この年齢になると勢いで行動することができなくなる。
――だが、本当にそれでいいのか。 前に踏み出すには勇気が必要だ。 多少先行きを見通すことができなくても、前に進まないと何も得られない。 躊躇している間に、希少な物件はどんどんと売れていく、そうやって落胆していたお客さんを俺はそこそこ見てきた。
「……本当に、何もデメリットはないんだな?」
重複して確認をしている俺がいる。 こんな質問に、何の意味もないということがわかっているにもかかわらずだ。 この心理の裏には、やはり気持ちが傾いてしまっている自分が心の中にいるんだろう。
「ないよ~んだ! そーだ、わかりやすく言うとねぇ、お店でお金を払ってお菓子を買うみたいな感じかなぁ~」
「…なんだ、それ」
今一つ説明が足りていない気がするが、「わかりやすいでしょ」と言いたげなドヤ顔で言い放たれてしまうと、とても聞き返しにくいし、質問もしにくい。 説明下手な上司や先輩にありがちな喋り方だ。
ようは、代金と商品の受け渡しで取引締結、そこで完結しているから、その取引についてはそれ以上の何かが発生することがない、とでも言いたいのか。 なんにせよ、これ以上ここで問答をしても、あまり意味はなさそうだ。 何を聞いたとしても「大丈夫」くらいしか返答は帰ってこないことは見え透いている。
「ねぇ~行こ~よ~! なんかあってもボクがついてるんだから大丈夫だよ~」
ほら、大丈夫って言った。
普通に、冷静に、判断をすれば答えはやはりノーだ。 この判断は絶対に揺らがない、とても正しい。 さっさとあしらってしまって家に帰る。 これしかない。
――だが、それはとてもつまらない判断でもあるのだ。 正しい考えだが、面白くない。 人生には「遊び」が必要、皆口をそろえて言う言葉だが、俺もその考え方に同感している。
それに、このまま繰り返すだけの毎日を送ることを無意味だとまでは思わないが、想像すると息が詰まりそうになるというのも本音だ。 幸い、仕事を投げ出すことになるわけではなく、元の時間に帰ることだってできるんだ、たぶん。
今回は悪魔の取り扱う商品がよかっただけ、決して口車に乗せられたわけではない、俺は浮足立つ心を落ち着かせながら、肯定的な考え方を並び立てていた。
「2点確認したいんだが……1点は、異世界っていうのは魔法とか使えて、亜人間とかいたりして、この世界とは違った世界なんだよな? ……もう一点は、本当に俺から手渡せるものがない」
「や~っとその気になってくれたんだね~~! ボク嬉しいなぁ~」
ニヘラとはにかむ悪魔。
「そ~だね~、魔法もあるし、色んな見た目の奴がいっぱいいるかなぁ~? まぁボクからしてみれば違いなんてあんまりわかんないけどねぇ~! あと、ボクが貰うものなんて本当になぁ~んでもいいんだよぉ~?」
なにか考えているような仕草をする悪魔。 自分以下だという生物に対しては興味などない、おそらくそんなところだろうか。 俺の想像する異世界のイメージとどこまで合致しているのかは不明だが、それについては行ってみないと流石にわからないか。 こいつの語彙力ではこの辺が限界だろう。
俺の中で、悪魔の誘いに乗る決心がつき始めていた。
異世界転移・転生はある意味では夢のような存在、普通は手を伸ばしても届かない境地。 リスクを考え始めれば尽きないが、それ以上に興味が勝ってしまっていた。 感情の前では理屈など容易に覆る。
「――なるほど…ねぇ」
「悪魔に魂を売ってでも」という言葉があるが、今まさにそんな状況か。 まぁ、こいつ曰くデメリットはないらしい。 信じたくはないが、ミリだけ信じてみるしかない。 さきほどまで否定的な考えしか浮かんでいなかったのに、どんでん返しのように意見がひっくりかえってしまった。 そんな自分がなんだか可笑しく思える。
「…とはいっても、悪魔が欲しがるものなんて思いつかないな…」
俺は鞄の中をあさりながら、めぼしいモノを探してみる。
財布、筆入れ、名刺入れ、電卓、書類諸々…後は
「あぁ~! これでいいよぉ!」
横から鞄を覗き込んでいた悪魔が、意気揚々と一冊の本を取り上げた。 俺は少しだけ気恥ずかしくなり、「ちょっ」と変な声が出てしまった。
「可愛い絵って、ボク好きなんだぁ~! ってうわ! 中は文字ばっかじゃん」
会社の人間や、他の連中にも内緒にしているのに、悪魔に弱みを握られてしまった気分だ。 ヒラヒラと手の中で舞っているのは、こないだ買ったばかりのライトノベル。 もちろん異世界モノだ。
俺は思わず取り返そうとするが、悪魔はキャーとか叫びながら追いかけっこ気分で逃げ出してしまう。 だが、案外気に入った様子で本をパタパタしているので、どうやらあれで大丈夫な様子ではある。
「あの、ほんとにそれでオッケーなの?」
「ぜ~んぜんおっけーだよ! これで望みを叶えてしんぜよう、えっへん!」
悪魔は鼻高々で胸を張っている。 胸部の膨らみなどは無いに等しいのだが。
なんにせよ、これで取引とやらが成立したのか。 想像していたより、何もない。 ただ本を手渡しただけ。
だが、俺は思い出したように言葉を付け加える。 後出しと言われようが、知ったことか。
「俺にデメリットがあったら、すぐに元に戻してもらうからな、いいな?」
そう言った瞬間、いや言い切る前ぐらいのことだった。 まばたきをした0.何秒間という刹那に、視界がガラリと切り替わってしまったのだった。
こうして、呆気なく俺は異世界に転移することになった。 鼻息を荒くして自ら望んだことではあるが、この選択が列車の片道切符になるとは、この時は思ってもいなかった。