ノーリスクで健全な取引
「なんでも願いを叶えてくれる……?」
思わず復唱してしまった。
何を言いだすかと思えば、望みを叶えてあげる、ときたか。 とてつもなく胡散臭いじゃないかこれは。 拍子抜けもいいところだ。
「そう! そう! どうかなぁ~? すごい魅力的でしょ!」
しかし、こちらに向けられているほんのりと赤みを帯びた瞳は、ちょっと見惚れてしまうような美しさがあった。赤眼なんて、こちとら見るのは初めてだからな。
「確かに、すごい、魅力的だね」
俺はかなり怪訝な目をしてしまっていたと思うが、自称悪魔の目にはとても悪意のようなものは感じられず、玩具をねだる子供のような無邪気な光を放っていた。 男か女か未だによくわからないが、姪っ子のような可愛さがあって腹が立つ。 姪など実際にはいないが。
だが、この程度で営業職の俺を落とせると思ったら大間違いもいいところ。 そんな瞳には騙されやしないぜ。
「でも、何かあげるっていってもなー…お嬢ちゃんが喜びそうなモノなんて何も持ってないだろうし…」
「な~んでもいいの~! 特別大サービスって言ったでしょ~? ボクがなぁ~んでも叶えてあげるんだよ~? もっと食いついてきてくれないとダメだよぉ~」
ぷんすかぷんすか、というオノマトペが似合いそうな表情を浮かべて頬を膨らませる自称悪魔。 俺はロリコンではないのだが、なんか、こう、くるものがある。
しれっと「お嬢ちゃん」という呼び方をして様子を見たが、否定しないところを見ると、やはり女子なのか。 いや、そもそも悪魔というものは性別という概念がないから、敢えて何も訂正しなかったとか。 ダメだ、この子を悪魔として徐々に認識し始めている俺がいる。
「そうは言われても…ねぇ」
それ以上に一番引っかかるのは“提案”だ。 なんともチープな手口、あくびがでるぜ。
特別大サービス、といった類の意欲を刺激する言い回しは、総じてサービスなどではない。 最初にサービスをチラつかせるやり口というのは、興味を惹かせる動機付けか、よっぽど商品や提案に自信がないのか、焦っているのか、馬鹿なのか、他にもあるだろうがそんなところだ。 なんにせよ下心がある。
「あ~あ~、思ってた反応と違ってつまんないなぁ~? 他の人にしちゃおっかなぁ~?」
口を尖らせながら、自称悪魔はそっぽを向いたような素振りをする。
そのまま「はい、他の人にしてください」なんて言った日には、逆上されそうでたまったものではない。 気分よくお帰りいただく為には、もう少し会話をしてあげた方がいいか。 丁度、顔に引き留めてください、と書いてあることだし。
「うーん、惜しいなぁ…俺に願い事さえあればなぁ…。 でも俺よりも悪魔様の力を必要としている人がいるのであれば、そちらで救いを授けてやって欲しいという気持ちもあるしなぁ…?」
それにしてもだ、特別大サービスとかいう以前に、なんでも願いを叶えてやるなんてセリフ、よくもまぁ言えたもんだ。 関心にも値する。
目の色を変えて、自称悪魔が俺の身体に縋りついてくる。 瞳にはウルウルとした涙を浮かべ、ポカポカと腹を叩き始める。
「やんわり断らないでぇ! な~んでもいいの! なぁ~んでも! お前じゃなきゃヤなの! ねぇ、お願い!! だって……」
だって、なんなんだ?
「断られたとかになったらボク、超ダサいじゃん!!」
……なんなんだ、この自称悪魔は。 プライドもなにもないのか。 いや、プライドを守るために懇願営業をしているのか。 頼むなんていう行為は、営業においてはタブーだというのに、まったく。
「――ちょっと…あんまりくっつくなって…」
しかし、おかしなことに一部の層はお願いされると、無下に断ることが難しくなるのも事実。 諸刃の剣みたいなものだが、効果はなくはない。 それが情に訴えかけるというものなのだろうが、今の俺はさっきより少し断りにくくなってしまっている。 そりゃそうだ、姪っ子だか妹だかかの年齢くらいに見える子供に、泣きつかれてしまうと「やめろ!!」とも言いづらい。
「うぅ…お願い…、いやお願いします…」
ついには敬語になっちゃってるし。 さっきまで史上最強とか言ってたのに、このざまは酷い。
「お金欲しくない…? 大切なんでしょ? …わかった、女でしょ? 性別が男に分類される連中は女に目がないんでしょ? …わかった、ボクが脱げば」
「うるさい」
服の腹あたりがほんのりと冷たくなっている。 自称悪魔の涙なのか鼻水なのかはわからないが、すすり泣きで湧き出た液体が服についてしまっているようだ。 超ダサいとか言っていたが、この状況は超ダサくないのか、基準が不明瞭すぎる。 なんにせよ、悪魔とやらが泣き落としで攻めてくるというのは、完全に想定外だ。
悔しいことだが、提案内容によっては何かしてあげたい気持ちが微量湧いてしまっていた。 だが、「なんでも願いを叶える」類は危険な香りがあまりにもプンプンすぎる。 必ずと言っていいほど裏があるパターンだ。 ましてや、相手は自称悪魔、本当に悪魔の可能性だってある。 不用意なことをすれば不幸が訪れそう感がとんでもない。 魔女になる、とか。
それに提案というものは、他人への利を提示するだけでは成立しない。 この自称悪魔にとって、絶対に見返りとなるメリットがあるはず。
「…あの…悪魔様にとって、この行為をすることはどんなメリットがあるんでしょうか…? あと、俺が今後被ることになるデメリットとかあるんでしょうか」
聞かれなかったから答えなかった、とかはナシで。 と付け加える。 今の段階では何とも返事をすることができない、面倒くさいが聞くだけ話を聞く、そんな姿勢が俺の中で整いつつあった。
俺の腹の中に埋もれながら、弱々しい声を自称悪魔は漏らした。
「ボクにメリットなんて無い……貴方様にデメリットもない…ノーリスクで健全なの。 だって、ボクの趣味というか、気まぐれだし…」
俺に被る不利益はなし、自称悪魔が得る利益もなし、ときたか。 益々怪しい、こんなもの検討にすら値しないじゃないか。 だが、“人間風情”に対して貴方様という呼び方が、なんだかクスッときた。
「じゃあ、悪魔様が悪魔だというのは本当なんですか…?」
「本当だもんっ!! ボク本当に凄い悪魔だもん!! その気になったら世界滅ぼせるもんッ!!」
血相を変えて反論へと転じてきた自称悪魔。 涙やら鼻水やら唾液やらで、見るも哀れなぐしゃぐしゃ顔で口を尖らせてくる。 その姿には“最上級悪魔”の威厳など見当たらない、駄々をこねる小学生にしか見えない。
うわぁーん、と言いながら、また腹の中に埋もれだす。 俺は一切悪い事していないのに、なぜか悪い事しているような気がしてきてしまう。 もう勘弁してくれ。
……なんでこんなことになってしまったのか。
明日のアポイントに向けてさっさと寝てしまいたいというのに。 いや、時間が止まっているんだから、特に問題はないのか。 再度腕時計に目を向けるが、針は凍り付いたまま。
それに、さっきからずっと地下鉄が来る気配が微塵もしない。 やはり物音ひとつしない。 聴こえてくるのは号泣する声だけ。 時間が止まっているというのは、どうやら信じるしかないらしい。 そして、自称悪魔については、こんな超常現象を起こせるくらいなのだから、恐らく本当に悪魔なのだろう。
「でもな…現状で一応満足してるし」
まさか、こんな超生物とお目にかかれる日がくるとは、ある意味貴重な未知との遭遇なんだろう。 俺の腹ですすり泣く悪魔、という未知との遭遇。 でもあいにく、願いもなければ、リスクも取れない。
「まぁ、異世界転移か転生でもさせてくれるのなら、考えてもいいけど…」
脳をすっからかんにして、何気ない一言を適当に漏らした、その時だった。 いや、完全に余計な一言だった。
さっきまで青髪の後頭部しか見えなかった悪魔が、これ見よがしに水を得た魚のように息を吹き返してきたのだ。
「――いいよ!! 異世界、ボクが連れてってあげる!!」
パァっと光を取り戻していく瞳。 やべぇ、何かスイッチ入っちゃったよこの子。 鎮火しかけていた火に、油を注いでしまった瞬間であった。