体育祭の朝。 鈴木さん襲来。
僕の友人は少し変わっている。
田中という名前を持った、ごく普通の高校に通う、ごく普通の17歳なのだが、どういうわけだか周りから、自分が嫌われていると思っているのだ。
そんなこと無いだろう。僕がそう言うと、田中は決まって『特に、同世代の女子に嫌われている』と返してくるのだ。
この言葉を口にするとき、アイツは少しだけ目を潤ませ、悟ったような顔をするわけだが、いい加減、そのやり取りにも嫌気が差していた。
今日だってそうだ。
体育祭当日の朝である。いつものように田中と校門をくぐり、教室までの廊下をくだらない話でゲハゲハ笑いながら歩いていると、――呼び止められた。無論僕ではない。田中が呼び止められたのだ。
聞き覚えのあるその声に、ふたり揃って振り向くと、とても華奢で小柄な西洋人形のような少女がひとり。予想通りA組の鈴木さんだった。
以前、彼女が妙な輩に誘拐されそうになったところを、たまたま居合わせた僕ら二人で止めに入ったことがあった。
今思い出しても、アレはキツかった。それまでは彼女と全く面識なんてなかったわけだけど、
『さっさと逃げろ! 』
田中はああいうヤツだからな、後先なんて考えちゃいない。威勢良く犯人グループのひとりにタックル。なんとか足止めしようと試みて、結果、ボコスカ殴られるし、
『頼むから走ってくれよ! 』
僕は怯えて動けない鈴木さんを担ぎ、
『で、でも、彼が……』
なるだけ遠くを目指し全力疾走。いやはや、彼女が小柄だからとはいえ、人ひとり分の重量だ、あの時は肺が破れるかと思った。
数分後、『お嬢! 』と、血相変えて飛び出してきた黒服の集団に、半ばついでのように助けられ、その場はなんとか事なきを得た。
顔面をパンパンに腫らし、ボロ雑巾のように地面へ転がっていた田中には悪いが、その日から妙な輩の姿を見なくなったので、まぁ良しとしよう。
そんなこんなでそれ以来、彼女は毎朝、田中へ声をかけてくるのだ。
「おはようございます、田中。今日もまた一段と貧しそうでなにより」
「うるせぇ、金持ちは向こう行け」
この会話も、もはや毎朝の日課である。
「ちょっと、朝の挨拶は礼儀でしょう! 」
「あぁはいはいそうですね。おはよーおはよー。ほら、これでいいんだろ、金持ち娘」
「ふふ、おはようございます」
鈴木さんは暴言を吐かれたにもかかわらず、嬉しそうにはにかむと、腰まで届く黒髪を弄んだ。ちなみに、彼女はこの辺一帯を所有する大地主の一人娘であり、自他ともに認める金持ちである。ただ、相対的にみるとそうなのかもしれないが、別に田中の家が目立って貧しいわけではない。
「じゃぁな」
「あ、ちょっとお待ちなさいな」
そういう教育を受けたのだろうか、どこか時代がかった口調で、鈴木さんは田中を呼び止めた。
これまた面倒くさげに顔だけを向け、田中は僕に聞こえるほどイヤミったらしく溜息をついた。鈴木さんは気付いていないのだろうか、ヤツの溜息なぞどこ吹く風で、鼻息荒く満面の笑みをこぼした。
「今日は待ちに待った体育祭。せっかくなので、賭けをしませんこと?」
「は? やんねーよ。そんじゃあな」
にべも無く田中が言い捨てると、とたんに鈴木さんの顔が悲しげに曇った。
あ~あ、泣くぞ。これは泣いちゃうぞ。
しかも彼女がこういう顔をする時、決まって僕に面倒ごとが降りかかる。
やっぱりと言えばやっぱりで、そうなるよなと言えばそれまで。
鈴木さんは僕の袖口を僅かに引っ張ると、
「……彼を止めてくださいまし。お話を聞いていただきとうございます」
でしょうね。……涙目で懇願してきたのだ。
自慢ではないが、こちとら上に姉と下に双子の妹を持つ生粋の女系家族出身である。しかも隣の家には幼馴染みの少女付き。父親は単身赴任で滅多に帰ってきやしないわけで、僕の毎日は、幼馴染みを除き、血を分けた女どものワガママで阿鼻叫喚の地獄絵図。
そんな幼少期からの刷り込み教育の賜物か、女子に泣きつかれると、断るなんて出来やしない。
僕は、立ち去ろうとする田中の右腕をつかみ押しとどめる。ヤツもこっちを見て、僕の袖を引っ張る彼女がしょんぼりとしているもんだからさ、渋々と観念したのだろう。諦めたように、ぼりぼりと頭をかいた。
「ったく、なんだよ」
「……賭けをしませんこと? 」
「だから、なんの賭けだよ」
「聞いてくださいますの? 」
「聞かないとお前泣くし、後でコイツにお小言をくらうんだよ」
僕を指差すな。田中の手を軽く叩き落とす。その隣で、鈴木さんはまるでピーカン晴れのお日様も顔負け、百点満点の笑顔を振りまいた。
「今日、偶然にも私は赤組、田中は白組なので、ここはひとつ、負けた方が勝った方の言う事を聞くというのはいかがでしょう」
「はぁ? 」
もちろん、敗者に拒否権などはありません。なんて、無邪気に笑う彼女から何か良からぬ企みが見え隠れしているが、田中もそれには気づいているようで、
「いったい、何を命令するつもりなんだよ」
「ふむ、なんと言いましょうか。そうですね、」
その問いかけに、鈴木さんは少し言葉を探すような素振りを見せ、
「……私の小間使いになっていただこうかしら。私が白といえば白になり、黒といえば黒になるような、そんな小間使いに」
「相変わらずえげつねぇなホントに」
田中と共に、流石の僕も引いてしまった。
お金持ちは、発想まで庶民とは違うものらしい。学校の廊下で、同級生に奴隷になれと彼女は言ったのだ。
「あら? もしかして逃げますの? 殿方のくせに情けない。あぁ情けない。いっそのこと犬猫のように去勢してしまいなさいな」
さっきまでメソメソしていたのに見事なまでの早代わりである。口に手を当てて、さぞ滑稽なモノを見たかのように彼女はあざ笑う。とうぜん、単純バカの田中には有効で。
「誰が逃げるかってんだ! やってやろうじゃねぇか! 」
沸点の低いバカが吼えたとき、鈴木さんがほくそ笑み「計画通り」と呟いたのを僕は聞き逃さなかった。
「後から言い訳は聞きませんことよ? 」
「おぅ! 負けたら何でもいう事聞くさ! 一生小間使いをやってやらぁ! 」
「毎朝、お味噌汁を飲んでくださいます? 」
「ん? 朝は味噌汁だろ? まぁ、べつにいいけどな、絶対負けないからな! 」
僕は、あぁなるほどそう言う魂胆かと。そして、そういう意味じゃないだろうと、無駄に燃え上がる友人に、苦笑いするしかなかった。
なんせ、むざむざと釣り針にかかったバカだけが、自分が罠にかかったことに気付いていなかったのだから。