メロンパンとマグカップ(3)
金曜日。閉店まであと一時間にせまった午後六時。遠慮がちに店の扉が開いた。アヤネちゃんだった。
「きのうはごめんなさい」
アヤネちゃんは頭を下げる。わざわざそのひと言のために来てくれたのだったら申し訳ないなと思っていたら、
「お母さんが食パンを買い忘れちゃってて」
と、アヤネちゃんは苦笑い。おつかいだったとわかってほっとした。
会計を終え、食パンを包んで渡したけれど、アヤネちゃんは何か言いたそうな表情のまま動かない。そこで私は、シュウトくんと何があったのかをそれとなく尋ねてみる。
ゆうべシュウトくんからは聞いたのであらましはわかっているつもりだけど、アヤネちゃんからみたらまた違う話もあるかもしれないし。
「シュウトがわたしのマグカップを壊したのが、そもそもの始まりだったんだ」
イートインスペースのいすに座ったアヤネちゃんはそう切り出した。このスペースなら話もしやすいし、お客さんがいらしたときに私もすぐに対応できるので、レジ前から移ってもらったのだ。
「シュウトが無理やりわたしから取り上げたときに、はずみでマグカップの持ち手が取れちゃって」
「なんで、シュウトくんはアヤネちゃんの手から取り上げようとしたんだろう?」
私が疑問を口にすると、アヤネちゃんはさあ?と首をかしげた。
「シュウトはずっと新しいのに替えたら、って言ってたんだよね。長いこと使っててイラストが色あせてたり、洗うときに流しに落として縁がちょっと欠けちゃったりもしてたからかな」
「長く使ってたのなら、ショックだったろうね」
私は眉尻を下げたが、アヤネちゃんはしずかに首を横に振る。
「壊されたことじたいはそれほどショックでもなかったんだ。シュウトが言うとおり古ぼけてたし」
でも、とアヤネちゃんは言葉をつなぐ。
「マグカップを捨てちゃえ、ってひと言はどうしても許せなくって。わたしにとって、すごくたいせつな思い出のマグカップだったから」
「たいせつな思い出って?」
「そのマグカップは、シュウトがわたしに初めてくれた誕生日プレゼントなの」
ああ、それでアヤネちゃんはそのマグカップにこだわってたんだ、とひとり納得する私に、
「それなのに、シュウトはわたしにプレゼントしたことすら忘れて、そんな古ぼけたマグカップなんて捨てちゃえって」
ひどいと思わない?と同意を求めてきた。
「そうだね。マグカップはアヤネちゃんにとって、シュウトくんとのたいせつな思い出だってことだものね」
うん、とうなずくアヤネちゃんに、私は持ちかける。
「だからこそ、それをシュウトくんに伝えてみるのはダメかな。思い出してくれるのを待つんじゃなくて」
でも、私の提案にアヤネちゃんはかぶりを振る。
「言えないよ。言いたくないし。やっぱりシュウトにはじぶんから気づいてほしいし、思い出してほしい」
そっか、と私はアヤネちゃんの言葉を受け止める。
「無理にとは言わないけどね。ほんとうに相手に伝えたいこと、伝わってほしいことは、伝えられるときに伝えるべきだと私は思うんだ」
そうでないと、なにも伝わらずにすれ違ったままきもちは離れていってしまうものだから。と言葉を結んだ私に、アヤネちゃんは小さくうなずいた。
あくる日、土曜日。
開店直後のまとまった客足も落ち着き、私はふと二人との会話を思い出した。
要点を拾っていくと、マグカップはアヤネちゃんにとってたいせつな人からのプレゼントで、プレゼントしたのはシュウトくん。そして、シュウトくんはアヤネちゃんのことで知らないことなんてないって思っていたのに、アヤネちゃんにたいせつなほかの誰かがいたと思ってショックを受けている。…あれ、ということはもしかして?
そんな私のもの思いは、店の扉が開いたことでひとやすみ。
「いらっしゃいませ」
声をかけた先にいたのは、シュウトくんとアヤネちゃんだった。
「仲直りできたみたいでよかったね」
私がかけた言葉に、二人は照れくさそうな表情を返す。
ゆうべ、アヤネちゃんは店を出たあと、シュウトくんと話し合ったらしい。
それで、はっきりしたことがいくつかあって。
まず、シュウトくんは、アヤネちゃんにマグカップをプレゼントしたことをちゃんと覚えていた。でも、プレゼントしてから何年も経ち、古ぼけてボロボロになっているのをみて、つねづね新しいのをプレゼントしたいと思っていたのだと。
その挙句、持ち手が割れるトラブルのあとの売り言葉に買い言葉で、シュウトくんのほうも、アヤネちゃんがプレゼントしてくれた相手を取り違えていると誤解してしまった。まさかアヤネちゃんの言うたいせつな人が、じぶんだなんて思ってもみなかったらしい。
「いつも一緒にいるから、言わなくても伝わってるとつい思っちゃって」
「わたしもこんなことですれ違っちゃうなんてびっくり」
顔を赤らめて視線を合わせる二人。さらに、
「背中を押してもらえたから、アヤネと話す勇気を持てたんだ」
「おかげでわたしも、シュウトにきもちを伝えようと思うことができたし」
なんて持ち上げてくるものだから、私はいたたまれなくなる。私は二人の話をただ聞いていただけで、何もしてないと思うけどなあ。
そんな二人はいま、イートインスペースで向かい合って、一個ずつメロンパンにかぶりついている。一日遅れるごとに一個追加、という約束はどこへ行ったのやら。
テーブルの上には、今朝二人で選んだというおそろいのマグカップが二つ。
私は、仲直りの記念に二つのマグカップにとっておきの紅茶を注いであげた。