後
一人暮らしの部屋に、男の人を上げたのは初めてだった。引っ込み思案の私はまず同性といえど友人が少なくて、異性となると自分から友人すら作ることはできなかった結果だ。そもそも親から「男の人を家にあげてはいけません」と言われているのだけど、金魚の延命処置なのだから許されるだろう。
由鶴は洗面器を用意させると、ビニール袋の中から金魚を解放した。エアレーションという名前の機械を作動させ、洗面器の中へ空気を送る。
君たちよかったね、息ができて。洗面器の中の浅い水の中で泳ぐ金魚に、心の中で言った。
由鶴は私に金魚鉢を置くスペースを作らせた。考えた結果、壁際の本当は別目的で買ったはずなのに結局アクセサリーを置くだけになっていた台の上にした。金魚鉢には水を溜め、中和剤を入れてしばらく置いておく。それからはやることがなくなったようで、由鶴は私の頭からつま先までを一通り眺めてから言った。
「浴衣、着替えたら?」
確かに普段洋服ばかりだから浴衣はとても窮屈だ。エアコンのおかげで冷えてきてはいるが、外はとても暑かったから、そのまま服を着るのも気持ち悪い。
「ごめんけど、シャワーも浴びてくるね。テレビ見ててもいいし、そこの本なら読んでてもいいから」
「いや、俺、腹減ったから、コンビニでなんか買ってくるわ。この近くだとどこ?学校の方行かないとない?」
「そんなことないけど……」
この家から一番近いコンビニは学校へ行くのとは反対方向にあるが、どうやら知らないらしい。押し付けられたような金魚だけど、延命処置をしてくれている由鶴にお礼もしなくてはと思った。
「ちょっと待ってて。一緒に行く」
「え、いや。だって、シャワー浴びるんだろ? 着替えるんだろ?」
由鶴が動揺しているのが不思議で首をかしげた。
「その間、俺、ここで待ってるの?」
「ダメなの?」
「いや、ダメっつーか、ダメじゃない…のか?」
なんで疑問系? ここでテレビ見ててくれたら別に問題ないのに。
「ダメじゃないのか……じゃ、待ってる」
何かを諦めたようにうなだれる由鶴を不思議に思いながら、急いで着替えを準備し、いつもの倍速でシャワーを浴びた。髪を乾かす時間はどうしても短縮されず、半乾きのままトリートメントをつけて洋服を着た。
「ごめん、お待たせ」
斜めがけのバッグに巾着の中身を移し替えていると、由鶴が髪を触って眉をひそめた。
「風邪ひくぞ」
「大丈夫だよ、すぐ乾くし」
「ドライヤーを持ってこい」
有無を言わせない言い方に反論できず、洗面所からドライヤーを持ってくると、由鶴は私からドライヤーを取り上げて私を前に座らせてドライヤーをかけ始めた。
「ちゃんと乾かさないと傷むだろ。せっかくきれいなんだから、手入れを怠らない方がいい」
私の髪は一度も染めたことのない真っ黒。私は髪を染めることに憧れを持ってはいたけれど、高校を卒業してもどうしても踏み切れなかっただけの髪だ。引っ込み思案で、新しい何かを始めるのが苦手な私の負の象徴の一つにしか見えない。それを傷みのないきれいな髪だと言われても、いつも素直に褒められているとは受け取れなかった。
由鶴は終わったと言いながら手櫛で私の髪を梳かす。正直、ヘアサロンで乾かされているのと同じくらい心地よかった。
「ありがとう。気持ち良かった」
「いや…いいんだ」
行こうか、と促されて二人でコンビニへ向かった。なぜかまた手をつながれている。きっとさっき家に帰るときみたいに、何を言っても離してはもらえないんだろう。仕方なくそのままにして歩いた。
「何飲む?」
籠を持って一番奥まで行くと、ドリンクコーナーだ。入り口から遠ざかるとアルコールも冷えている。
「酒でもいいよ。ヤケ酒したいなら付き合うし」
「ヤケ酒なんかしません!!」
知られているとは思ってたけど、まるでからかわれているみたいで怒ると、由鶴は笑った。
「怒ったとこはじめて見た」
そんな風にからかうところ、私だってはじめて見た。そういえば、今日はいつもの由鶴と何か違う。名前を呼んだり、手をつないだり、髪を梳かしたりそんなことをするような人には見えなかった。だったらどんなひとに見えていたのかと言われると難しいけれど。
「飲むだろ? 何がいい?」
クラスメイトからも意外だと何度も言われたけれど、私はお酒が弱くはない。強いかと言われるとそうでもないと思うけれど、見た目よりは飲める。それに、どちらかというと飲むのは好きな方だった。瓶入りカクテルを2本籠に入れると、由鶴はいいねと笑った。由鶴はビールを2本入れた。それならと、おつまみを幾つか買い、サラダと素麺と蕎麦を買った。素麺は私が食べるためだ。
「デザート、食べないの?」
レジへ向かう私をデザートコーナーで引き止めた。
見たら食べたくなるから通り過ぎようとしたのに。今日はもうかき氷も食べたし、あんまり食べたらダメだと思うのに。
「好きだろ?」
好きだけど。
誘惑するのはやめてほしいと思いつつ、目に入ってきてしまったティラミスを見つめる。見てただけなのに、悩んでまだ買うとも決めていなかったのに、由鶴はカゴの中に入れて誰も並んでいないレジへ行ってしまった。
「ねぇっ」
「好きだろ、ティラミス」
好きだけどさ。なんで知ってるんだろう。そんなに物欲しげに見つめていたかな。隣にあったわらび餅も好きだよ? 射抜くほどティラミスだけを見つめていたわけじゃないと思うんだけど。
支払いは私がすると申し出たけど、由鶴は自分のもあるからと結局私には小銭しか要求しなかった。細かいお金がちょうどなかったらしい。コンビニを出ると、重いだろう袋を全て由鶴が持って、また私の手を捕まえて家に帰る。
「デザートさ、好きなら買えばいいんだよ。すぐに手を伸ばせば」
「でも悩むんだよ。遅くに食べたら太るとか、今日はかき氷食べちゃったとか」
「可愛い悩みだなぁ」
私の心の葛藤を由鶴は一笑に付した。
こっちは真剣だったのにひどいな。
「由鶴くんだって好きなものが選びきれない時や、買うか買わないかで悩んだりすることあるでしょ」
「まあ、あるけど。好きなものは早く手に入れないとな、と思うよ。今実践中だし」
「何かほしいものあるの?」
「まあね」
由鶴の言葉に他意はないと思うものの、「好きなものは早く手に入れないと」という言葉が少しだけ胸にささった。
まだ20年くらいしか生きていない私の人生は、好きなもの−−あるいは人−−を眺めるだけで手に入らなかったものばかりだ。いつだって、本当は欲しかったと諦めるばかりだった。聞き分けがいいわけじゃない。引っ込み思案の私が言い出せなかっただけだ。
家に着くといつもご飯を食べて宿題もするローテーブルに買ってきたものを広げた。お互いに1本目を開けて、どちらともなく「乾杯」とそれぞれの容器を合わせると缶を叩く鈍い音がした。グラスだったら様になったのに。そもそも、何に乾杯しているのかさえわからないけれど。
パッケージを破って素麺を食べる。向かい側では由鶴が蕎麦をすすっていた。なんだか不思議だった。なんで由鶴は私と今、向かい合って蕎麦を食べてるんだろう。
時計を見ると、9時まであと少し。クライマックスで一度にたくさんの花火が上がっていることだろう。
「せっかくの花火だったのに、ごめんね、私のせいで」
由鶴は蕎麦を食べ終わって、サラダを開けている。食べるなら野菜を先にしたほうがいいよって、もっと前に言えばよかった。
「別に。なんとも思ってない。花火がめちゃくちゃ好きなわけじゃないし」
じゃあなんでと思ったけど、梨香が強引に誘ったのだろう。梨香と仲のいい私、由鶴と仲のいい和臣は、由鶴と梨香が席が隣同士ということで、課題をやったり、昼食をとったりと自然と4人でいることが多かった。遊びに行くのもこの花火が初めてというわけじゃないから、私は嫌とは言えなかったし、由鶴もきっとそうなのだろう。
二人とも食べ終わると、金魚鉢に金魚を移した。金魚をすくう網を買い忘れていて、二人で頭をひねった結果、排水溝ネットで捕まえて移し替えてやった。金魚にはかわいそうなことをしたと思う。普通の金魚なら漁業の水揚げのように引き上げられることなんてなかっただろうから。
移し終わった金魚鉢にエアレーションを入れて完成だ。ぶくぶく次々に泡が上へと上がっていき、動いていないはずなのに揺らめて見える水草を背景に金魚が泳ぐ。なんというか、金魚鉢の正しいあり方を見せられているようで、なんだか笑ってしまった。
「なんか面白いことあった?」
手を洗ってきた由鶴が、私の隣に腰を下ろした。はい、と言って、飲みかけの瓶を渡される。
「面白いわけじゃないんだけど、金魚の飼い方のイメージ通りだなって」
「金魚鉢選んだからね」
「100円ショップとディスカウントストアで揃っちゃうんだからすごいよね」
100円ショップは台所や掃除用品、収納、ノートでよくお世話になっているが、なんでも揃うんだなぁと驚きを禁じ得ない。
「由鶴くん、ありがとう。金魚の延命処置してくれて」
「延命処置って、あんまりいい響きじゃないけどな」
「でも金魚は息ができるでしょ。きっと苦しくないよ」
おつまみを食べて一気に煽って、瓶を床の上に置いた。由鶴が机の上の袋からもう一本瓶を取り出して、わたしに差し出す。ありがとうというと、栓を開けて渡してくれる。至れり尽くせりに感謝してぐいっと飲んだ。
「渡辺はさ、息できてる?」
今日の花火以来ずっと名前を呼んでいた由鶴は、ここへきていつものように名字でわたしのことを呼んだ。質問の答えは簡単だけど、質問の意味は難しい。どう答えるべきかわからなくて少し茶化した。
「わたし、死んでたの?」
「確かめる?」
そう言うが早いか、由鶴はわたしの手の中の瓶を取り上げてテーブルの上へ置くと、わたしの肩を後ろへ押した。倒れる、と思った時には体はもう傾いていて、床で頭を打つのを覚悟して目を閉じた後に頭が感じた感触は床のような硬いものではなくて、少し湿った温かなもの。恐る恐る目を開けると、天井はいつもより高くて、やはりわたしは床に転がったのだと思った。由鶴は横からわたしの胸に耳を当てていた。
「ちゃんと心臓は動いてるし、胸郭も動いてる。生きてる」
「そんなことしなくっても生きてるのなんかわかるでしょ」
「俺がこうして確かめたかっただけ」
なにそれ。確かめる方法なんて、手首か首で脈をとればいいだけだ。わざわざ心音を聞かなくても。というか。
「冗談ってわかってるのに、なんでこんな」
「ね、優子って呼んでいい?」
さっきまで勝手に呼んでたくせに、とは言えなかった。由鶴の声が今まで聞いたどんな時の声よりも甘く聞こえた気がして。小さな声でいいよと許可した。
「優子はさ、苦しくない?」
答えるのなら、苦しい。4人でいた時はとても息苦しかった。きっと明後日も苦しいに違いない。けれど何も言わずに、少し開いていた口を閉じた。
「無理して花火に行くことなかったんだよ」
「無理なんか」
してたからはぐれたくせに、口から出るのは否定の言葉だ。でもそれも由鶴は気づいているらしい。
「和臣と柳原。一緒にいるの、嫌だったからはぐれたんだろ?わざとって言ったもんな」
事実でも肯定したくはなかった。二人とも友達だから。
「あいつらはいいやつだけどさ、優子の気持ちはわかってないよな」
「由鶴くんがわかってるみたいに言わないでよ」
わたしが怒ったら由鶴は笑った。笑い事じゃないんだよ。
「和臣のこと好きだっただろ」
「過去形じゃない」
「柳原と別れればいいのにって思ってる?」
「思ってない」
「じゃ、なんて思ってる?」
なんて思ってるんだろう。見たくないと思ってるのは確かだ。二人だけで花火デートでもすればよかったんだ。わざわざ私たちを誘わなくても。付き合って初めてのイベントなんだから。
「なんで私のこと誘ったのって思ってる」
言いながら泣けてきて、語尾はそのまま嗚咽になった。
梨香がいつから和臣を好きだったのかは知らない。けれど打ち明けられたのは、私がとっくに和臣を好きになってからのことだった。聞いた後では、私も好きだとはどうしても言えなかった。自分の気持ちをずっと隠したまま友達でいて、恨んだりするのは間違ってると思う。付き合うことになった時にはちゃんと「おめでとう、よかったね」と言えたのだ。私ができなかったことをやった梨香を、羨ましいと思ったり尊敬したりしながら。好きな人が幸せなら、なんて綺麗事を並べたりして。
昼休みでもないし、学校帰りでもないのに、どうして二人のデートに一緒にいなくちゃいけないんだろう。こんな風になるとは思ってもみなかったけれど、祝福をした手前、断るのもおかしくて、結局一緒に花火を見に行った。これから先もこんな風になるのなら私はずっと苦しいままなのかもしれない。いつか苦しくなくなる日が来るのだろうか。
「確かに、優子にとっては残酷だよな。あいつらは良かれとしか思ってないけど」
唇を噛み締めて、涙を流すわたしを見ながら由鶴は言った。
「でも、和臣なんかに優子はもったいない」
由鶴が体を起こした。それまで由鶴はわたしの胸の上で鼓動にずっと耳を当てながらわたしと会話していた。頭は重たい。その重みがなくなって、少し息が楽になった気がした。
由鶴はわたしの顔を正面から見ると、わたしの頬の涙を指先で拭った。
「そんなことない。わたしじゃダメだってわかってる」
届きそうな距離にいたのに、一度も手を伸ばそうとしなかった。好きでいても叶うはずない。
また涙がこぼれた。そばから由鶴がまた拭ってくれる。
わたしはずっと言えなかった。小学校の時も、中学でも高校でも、好きな人はできたけど一言も誰にも言う勇気はなくて、いつも遠くで眺めているだけだった。好きな人が誰かと付き合うことになっても、悲しいと思っても遠くで眺めて憧れていただけだった。今までは遠かったからそれでよかった。
今はあまりに近くて、眺めていられなくなっている。同じ場所にいるから、息苦しさを感じる。ビニール袋の中の金魚に自分を重ねるくらい。
「優子は和臣じゃダメだよ」
由鶴は言い聞かせるように優しく微笑んだ。
「なんでそんなこと言うの?」
「和臣を好きな優子はずっと苦しそうだった」
それは梨香が和臣を好きだって知ってたからだ。
「ずっと見てたから知ってる」
由鶴は顔を近づけると、手をわたしの目にかざす。反射で目を閉じたら、唇に温かな熱が触れた。ビールの苦い香りがした。
「なんで……唇……」
由鶴の顔はアルコールのせいではなさそうな赤みがさしていた。
「なんでって……優子のことが好きだからだよ。和臣じゃなくて俺にして。そしたら息も楽になるから」
突然のことにむしろ息が止まる思いがした。
「息を止めた後は、吐いて思いっきり吸うしかないだろ。俺といれば何度でも息の仕方を教えてあげるよ」
「それってどういう」
「つまり、何度でもキスしたいだけなんだけど」
わたしは未だに和臣が好きで。キスなんか人生初めてで。由鶴は仲のいい4人組の一人で。今押し倒されてるのってどうなの。男の人を家にあげちゃいけないはずなのに。由鶴と歩いた時間は息苦しくなかった。
色々ととりとめもなく浮かんでくる頭の中はぐちゃぐちゃで、現実についていけそうもない。
「とりあえず付き合おうよ、俺たち」
「でも」
わたしは梨香と付き合っていてさえ、和臣が好きで。
「すぐに忘れるなんて思ってない。でもさ、俺なら、優子もこの金魚も面倒見てあげる」
簡単に切り替えることはきっとない。それなのに誰かと付き合うだなんて。わたしにそんな器用なことができるわけない。
「難しく考えるなよ。付き合ったからって全部が変わったりしないから。俺に優子のそばにいる権利をあげるだけだと思ってさ」
「でも」
わたしの側にいる権利なんているの?
「優子、いいよって言って」
ああ、まただ。
由鶴は名前を呼んでいいかと聞いてきた時と同じ、優しくて甘い声で強請る。耳から頭に優しく染み込んで、こんがらがって頑ななわたしを溶かすみたいだ。そしてダメという言葉はどこかに消えてしまったらしい。
「いい、よ」
小さな声は、それでもわたしの耳にも由鶴の耳にも届いた。
由鶴はわたしをぎゅうっと抱きしめた後、またキスをした。
「これ以上はしないから、キスはさせて。息の仕方を忘れないように」
そう言ってまたキスをする由鶴は、今まで見たうちで一番嬉しそうに笑った。
息継ぎのようにキスを与えられるわたしは、エアレーションで空気を与えられながら泳ぐ金魚のように延命処置を受けているのだろう、きっと。