前
見ているだけでもいいと思っていた。
手を伸ばせば届きそうで、なのにもう伸ばすことは許されないというのは、思っていた以上に苦しかった。今、これ以上一緒にいるのは無理だと思った。これが普段なら他のことに集中して気にしないでもいられるけれど、目の前でデートを見せられているようで今ほど苦しいことはない。
ここは土曜の夜の花火会場。進むのも難しいほど人が溢れている。一人はぐれるのはとても簡単だった。後ろを歩いているのだから、4人が3人になったってどうせすぐには気付かれない。すぐに見えなくなってから、花火から遠ざかるように反対に歩いた。
人混みを歩くのは浴衣を着ているせいもあって暑い。
そういえばまだ食べてなかったなと、近くのかき氷の屋台に一人で並んだ。
無料通話アプリの着信が近くから聞こえたけれど無視する。この人ごみの中の半数以上は同じアプリのお世話になっているのだろうし。しばらくしたら後ろから「もしもし」という声が聞こえた。
ほら、やっぱり私じゃない。
三回目に聞こえた時は、かき氷のシロップをかけていた。
どこかで食べられるところはと、土手へ行くと、ところ狭しとビニールシートが敷かれて、たくさんの人が座って空を見上げていた。花火はどーん、どーんと単発的に夜空を彩っている。その一瞬一瞬の光を頼りに、土手のコンクリートに奇跡的に座れるところを見つけ、一人で座ってかき氷を食べる。
お腹に抱え込んだ巾着から、着信音が聞こえた。これはどう聞いても私宛だ。スマートフォンを取り出すと、表示画面の名前を確認してから画面を消して巾着へしまった。今その名前は見たくない。また花火の音を聞きながら、かき氷を突き始める。食べ終わる頃、また着信音がした。今度は別の名前だったから、まあいいかと通話ボタンをタップした。
「由鶴だけど」
「知ってる」
「今どこにいんの? いきなり消えててびっくりなんだけど」
「はぐれたみたい。ごめんね」
「いいけど、どこ? 迎えに行くから」
「いいよ。花火見てるんでしょ。私もね、探すの難しくて、諦めて花火見てたんだ」
「俺が、迎えに行くから」
ああ、知ってるんだ。
『俺が』と強調した言葉に、この人は私が他の二人に会いたくないことを知ってるんだなと思ったら、終了ボタンをタップしていた。
画面には履歴が表示される。今の通話とは別に5件、赤い不在着信のマークが付いていた。そのうちの3件はあえて無視した名前。2件は由鶴だった。
また着信画面。名前は由鶴。これは怒られるなぁと思いつつ、通話ボタンをタップした。
「いきなり切んな」
「ごめん。ボタン間違えた」
「嘘つけ。悪いと思ってないのに謝んな」
「ごめん」
「……もういい。和臣たちとはもう別れた。だから、どこだ。場所を言え」
「稲田橋の西側。川は渡ってない」
「橋越えたらまた連絡する。いつ鳴っても取れるようにスマホ持っとけ。頼むから」
今度は向こうから切れた。「頼むから」といった声がなぜか泣きそうに聞こえて、やけに耳に残った。
今いる場所は座って花火を見る人だらけで、花火が花開いているときは顔が照らされるけれど一瞬だ。すぐに真っ暗になって、誰も顔なんか見えない。こんなところに由鶴が来ても、私も向こうも探しようがないだろう。
食べ終わったかき氷のカップを左手に、スマートフォンを右手に握りしめて、屋台の立ち並ぶ場所まで行った。ゴミを捨て、橋に向かって歩いていく。人ごみを縫いつつ屋台のそばを離れずと歩くのは、少し進むのにも普段の倍は遅い。けれど歩いていれば、明るくて顔が見えるはず。
着信音が鳴った。予告があったから、それにしては早いと思いながらも、私かもしれないと画面を見る。表示画面には由鶴の名前。
「早いね」
「誰かさんが迷子だからな。どの辺にいる?」
立ち止まったところはちょうど金魚すくいとフランクフルトの屋台の間だった。偶然だが、屋台の邪魔にはならないだろう。橋まで近いとは言い難いけれど。
「金魚すくいのところ」
「わかった。そこを動くなよ」
厳命されたようだ。通話は切れて、動くこともできないから、金魚を見ていた。
水の中でゆらゆら尾ひれがなびく。水槽が青いから、金魚がとても可愛く見える。
脆弱な網を持った子供が、追いかけて、逃げられて、捕まえたら、穴が開いて水に戻る。あの金魚は今のでどれくらい息苦しかっただろう。掬い上げられた金魚は、家で飼ってもいつもすぐに死んでしまう。息苦しさを何度も重ねて、寿命が縮まってしまうのだろうか。それとも、もともとの命が長くないのか。
「お姉ちゃんもやるかい?」
屋台の店主に声をかけられ、驚いて顔を上げると、ポイを目の前に差し出された。
「一回500円だよ」
「いえ、私は…」
「おい」
店主に断っている途中で、肩を叩かれる。弾かれたように叩かれた肩を見ると、手が置かれていて、その先には由鶴がいた。若干息が上がっているようだ。息が上がるほどのスピードを、この人ごみの中で出せたことにまず驚いた。
「なんでこんな反対方向までいってんだよ。はぁ、疲れた…」
「お手数をおかけしまして、申し訳ありません」
私は頭だけを軽く下げた。
「まったくだよ。無事でよかったけど」
私たちの間の空気を無視して、屋台の店主が声をかける。
「おや、彼氏かい? 彼女のために金魚すくいやってかないかい?」
屋台の店主は私に向けていたポイを由鶴に向けた。彼氏じゃないし。好きな人でもないけれど。そのどちらも口に出す前に由鶴が口を開いた。
「金魚、好きなの?」
「まぁ……でも、すくっても」
かわいそう、と言いかけて結局言えなかった。由鶴が店主に「いくら?」と声をかけたからだ。
支払いを済まして、ポイと水の入ったお椀を受け取ると、由鶴はしゃがんで構えた。真剣に目で追っている。さっき見ていた子供とは大違いの動きでお椀に2匹すくい上げた。三匹目をすくい上げる途中で穴が開き、金魚は水槽に落ちた。
「2匹か」
まだ半分ほど網は残っている。
「もういいや」
「もういいの?にいちゃんならもちょっと掬えそうだと思ったけどなぁ」
「2匹でいいんだ」
店主はお椀を受け取って、ビニール袋に入れた。水を足して口を閉じる。
「はいよ」
「どうも」
店主から由鶴が受け取ったビニール袋を、今度は私の目の前に掲げた。
「…優子が持ってて」
「え?」
驚いている間に、由鶴は私の左手を持ち上げてビニール袋をかけた。
普段は名字でしか呼ばれないのに、どうして名前で呼ぶんだろう。
「名前……なんで?」
「今、俺、彼氏らしいから」
意味わかんない。店主の話に付き合っただけなんだろうけれど、付き合う必要ある?
「もうスマホ片付けていいよ。俺から連絡いれとくから」
由鶴は店の脇へよけて、スマートフォンを出して電話をかけた。その間も、私がどこにも消えないようになのか、しっかり見張られている。そんなことしなくても消えたりはしないけど。
頭まで腕を上げて、ビニールの中で泳ぐ金魚を見つめた。金魚すくいの水槽の中にはぶくぶくと空気が送られていたが、いまは何もないビニールの中だ。息苦しくないのかな。
「あぁ大丈夫、見つけた。人に流されたみたいで、だいぶ離れたとこにいるから、俺らはそっち行くのやめるわ。……帰りか?待ち合わせるったって、人、すごいし……別々に帰ってもいいだろ?……ちゃんと送ってくよ。俺、方向も同じだし。……責任持って送ってくって伝えとけ。じゃあな」
由鶴がスマートフォンを切った。どうやら私の行動は私の意思に関係なく決定されたらしい。
「なんで本当のこと言わなかったの?」
「ん? 聞こえてたか?」
「知ってるんでしょ、私がわざとはぐれたの。私が梨香たちと一緒に居たくないって、知ってるんでしょ」
「いや、わざととは思わなかったけど。和臣と柳原の二人とは離れたいんだろうなとは思った。でも、ふたりともすっげー心配してた」
「わかってる」
あのふたりなら絶対に心配するだろうなって思ってた。ふたりとも優しいから。不器用で人間関係を作るのが苦手な私はそこに救われて、友達になったし、好きにもなった。だからこそ、ダメな私はふたりが付き合っているのを見ていられなくて逃げた。見ているだけじゃ、苦しいだけだった。
「明日にでもメールいれとけば?」
今日じゃなくて?と不思議に思ったけれど、二人と離れたい心情を察してくれたのかな。今送れって言われても、電話しろって言われても、ごめんと一言言えたらいいんだろうけれど、送信ボタンも通話ボタンも押せる気がしない。
「そうする」
由鶴は私の手首を隙間なくがっちりと掴む。
「どこ行く?」
「どこって…」
「花火が見たきゃ見えるとこ行くし、もう帰りたいなら帰るけど。もしなんか食べたかったら、このまま屋台のそば行けばなんかあるだろうし」
今日の花火はもともと私が来たくてきたわけじゃない。誘いを断りきれなかっただけだ。来たからにはかき氷は食べたいと思っていたけれど、それはもう完了した。それよりも気になったのはビニールの中を泳ぐ金魚。かわいそうだからすくいたいとは思わなかったのに、今は私の目の前にいる。
「……ねえ、この子たちって苦しくないのかな」
「さぁ?」
「息ができなくて、息苦しくて」
でもここにいなくちゃいけなくて、行き場がなくて。私みたいだと思うのは金魚にとって迷惑かな。付き合い始めた梨香と和臣といるだけで苦しくて居てもたってもいられなくて、逃げてしまった私に似てると思うのは。失恋で死ぬことはないっていうから、私は息苦しいだけで死なないけれど。
「この子たちは……そっか、だからお祭りですくった金魚はすぐに死んじゃうんだね」
「うちにいた金魚は3年くらい生きてた気がするけど」
「長生きだね」
子供の頃すくった金魚は、一年どころか半年も経たずにお別れを何度も繰り返した。だから金魚は掬わないことに決めたのだ。
「気になるなら、もう花火はいい?」
花火は好き。金魚も好き。かき氷も大好き。けれど本当は、今日は来たくなかった。浴衣を着ても、髪をアップしても、とっておきのアクセサリーをつけるのをためらうくらい本当はみんなで花火に来るのは嫌だった。どうしても言えなかっただけで。だから由鶴の問いかけにうなずいた。
由鶴は腕時計で時間を確認した。私たちがこの人混みを歩き始めたのは、色付きの煙が漂う、夕日が沈んで空が暗くなる前。これから始まる期待感が空気を漂っていた。そして私が一人になったのは、空が真っ黒のキャンバスになった頃。花火がうち上がり始めて、歩く人々が時々足を止めて見上げていた。まだ花火の本番が始まってから1時間も経ってはないと思う。
「じゃあ、帰ろうか」
由鶴が人混みをすり抜けていく。手を掴まれている私もその後を追って、なるべく人にぶつからないように、金魚が潰されないように歩いた。一人で歩いていた時よりなぜか歩きやすい。花火は私たちの背中を照らす。
「由鶴くんはいいの? 花火見ないでも」
「いいよ」
「私、一人で歩けるよ」
「わざとはぐれたんだろ? 信用されると思うな」
言わなければよかったな。
由鶴の背中を見ながら思った。もともと人と関係を築くのが苦手なのに、信用までなくしてしまうとは。
駅から花火会場まで輸送するバスは、花火が始まってもたくさんの人が乗っていて、当然のことながら花火会場でその全ての人を降ろした。そのバスに乗って帰るのだから当然中は私たち以外にいなかった。由鶴は隣に座っているのにまだ手を離さない。私は窓側にいて、由鶴が退かなければ降りることも出来ないのに。
由鶴は駅に向かう途中で私を連れたまま下車し、かつて百貨店だった建物へ入っていく。今も百貨店なのかもしれないけれど、ディスカウントストアと100円ショップが入っているのを百貨店と呼んでいいのか私にはわからない。
「どこに行くの?」
「その金魚を死なせないために、いろいろ買うんだよ。わた…優子の家には水槽だってないだろ?」
「一人暮らしの部屋に魚がいるわけないよ」
確かビニール袋を渡された時は持っていろと言われただけのはずだが、この金魚は私が飼うことになるらしい。家に反対する誰かはいないのだけれど、押し付けられただけのような気もする。それに名字を呼びかけて名前で呼び直す理由もわからない。もうここはあの金魚すくいの店じゃないのに。
花火のせいかお客の少ない店内を歩き、由鶴がネットで得た情報を見ながら金魚を飼うのに必要らしいものを揃えていった。水槽じゃなくて金魚鉢なのは、部屋に置くならどちらかと聞かれて私が選んだのだ。買い物中は離されていた手も、買い物が終わればまた捕まえられる。
「もう一人で反対方向行ったりしないよ」
駅に向かうのはバスを待つよりも歩く方が早いとのことで、早々に閉めた店が並ぶ歩道を歩いた。開いているのはコンビニとファーストフードとカラオケくらいだ。こんなところで反対方向へ行っても帰れるわけではないし、どこかで無駄に時間を潰すのも嫌だから、もう離してくれていいのに。
「だめ」
結局、家に着くまでほとんど離れることはなかった。