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「あら今日はお弁当なんですね。じゃあちょっと待っててください」
そう言って椎名さんは財布片手に事務所を出ていった。多分コンビニへ行ったのだろう。私はデスクの上を片付けてから給湯室へ行き二人分のお茶を淹れた。
事務所の中には私以外誰も居なくてシンと静まり返っていた。所長はじめ営業さんたちは皆ランチに出たか取引先か、とにかく外出している。
電話も鳴らない静かな事務所の中で、私はぼんやりと昨日の出来事を思い出していた。
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イライラした気持ちを少しでも晴らそうと、私は内側が青空の絵になっている傘を買った。閉じてしまえば地味な紺色の傘だから普段使いも問題ない。
雨の中を青空柄の傘をさし、不本意にも当初より軽くなってしまった荷物を片手に家路を急ぐ。
走り去る見知らぬ人の背中に先程の男の影を見た気がして思わず声をかけそうになるが、思い直して歩き進んだ。あの時の男はもっとガタイがよかった気がする。真っ黒の短髪で、背が高くて、顔は…よく思い出せない。
「はぁ…ツイてない」
大きく溜息を吐き出して首を振る。済んでしまったことにいつまでも腹を立てていても仕方がない。顔も思い出せないような相手が弁償してくれるとも思えないから、諦めるしかないのだ。本当に不本意だけど。
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「本当にツイてない」
「何がですか」
ポツリと呟いた言葉に返事があり驚いて顔を上げるとそこには、予想通りのコンビニ袋を下げた椎名さんがいた。
「おかえり」
隣の席に腰掛けた椎名さんに声をかけ、私もお弁当の包みを開いた。
「それで、何があったんですか?」
コンビニの袋からおにぎりを取り出してフィルムを剥がしながら問いかけてくる椎名さんに、私は箸で摘んだ玉子焼きを口に入れてから一つ頷いた。
「聞いてくれる?昨日の帰りにね…」
そうして二人、事務所のデスクで肩を並べてランチを食べながら、私は昨日の出来事を順番に話した。椎名さんは相槌を打ちながら聞いてくれる。人に話すことで私の昨日からの苛立ちも少し緩和した気がした。
「日暮先輩、昨日が誕生日だったんですね。おめでとうございます。言ってくださればお祝いしましたのに」
「イヤイヤ、この歳で誕生日もなにも、お祝いしてもらってもねぇ」
自嘲気味に笑う私に椎名さんは首を振る。
「いくつになってもお誕生日はおめでたいものですよ」
そう言う椎名さんは私よりも八歳も若い。それに見た目も可愛らしく本人もかなり努力しているらしいから、二十歳そこそこに見えなくもない。そんな彼女にいくつになっても、なんて言われても素直に納得出来ないのは私が拗ねているだけだろうか。
それに誕生日云々よりも、私にはワイン事件のほうが重要なのだ。そう言うと椎名さんは口の中のごはんをゴクリと飲み込み、その後ニヤリと悪そうな笑みを浮かべた。
「日暮先輩、それって出会いじゃないですか」
「は?」
一瞬、椎名さんが何を言っているのか分からなかった。口に入れようと箸で持ち上げたふりかけごはんが、ポトリと落ちて弁当箱に戻る。私は首を傾げて椎名さんの顔をマジマジと見つめた。
「ヤダ、本当に分からないんですか。だって、背の高い男性だったんですよね。必ず弁償するって仰ったんでしょう。だったら、きっとまた会えますよ。それって運命の出会いっぽくないですか」
運命の出会い、そうなのだろうか。ここ数年、恋愛からは遠ざかっていた私はその辺のアンテナが錆びついているらしい。もっとも、運命なんて信じてはいないし、恋愛だけならまだしも、その先は私には考えられない。そうなると恋愛すら面倒に思えてくる。
私が無表情で先程取りこぼしたふりかけごはんを箸でつついていると、呆れたような溜め息が聞こえた。
「恋愛は女を美しくしてくれるんですよ。まだまだ枯れてる場合じゃないですよ」
毎日の晩酌が唯一の幸せだと感じている干物女の私には、恋愛体質リア充女の椎名さんの言葉が宇宙語のように聞こえた。