第五話 ママンはノイローゼ
あの日から、さらに二月が経過していた。
この異世界に転生してから、ずいぶんと日数が過ぎた。
あの日に大泣きしたことは、いまだに心の奥にはりついて離れない。
まさかあんなふうにボロ泣きするとは思わなかった。自分でもびっくりだ。
おそらくホームシックだろう。
自分の名前を知ったことがキッカケとなり、前世の記憶やできごとを思い出して感傷的になったのだ。
体は赤ん坊でも精神年齢は立派なオヤジだ。
オヤジになると涙もろくなる。
赤ん坊の体に転生してまで、ああも大泣きするとは思わなかったが心と体のつり合いもある。
この異世界に転生して、満足に動けない生活が数ヶ月も続いたのだ。
気が滅入っていたのだと思いたい。
「思い悩んでもしかたないか」
あの日の出来事は、早く忘れようと思う。
嫌な記憶は忘却すればいい。
毎日を健康的に過ごすためにも。
だが、非常に間の悪いことに、あの日のことは外的要因で忘却できない日々が続いている。
よりにもよって、あの日あの時あの瞬間に、前後の見境もなく子供のように泣きじゃくる赤ん坊(俺、精神年齢36歳)の奇行の場面を、獏が目撃していやがったのだ。
確かに直前まで精神感応で会話をしていた。
とはいえ、不思議技能の無駄遣いもはなはだしい。
リアルタイムの心の声もそのままに、赤裸々な部分までじっくりと観察されていようとは、誰が思うものか。
「家政〇は見た!」は、よそでやれ。
俺は声を大にして言いたい。
俺にもプライバシーはあるはずだと。
そして人の秘密を覗き見たからには、罰を受けるべきだと思う。
あいつが俺の妹として産まれたら、ぜったいにおしめをかえてやる。
優しいお兄ちゃんの姿を演じつつ、隅から隅まで余すことなくのぞき込んでくれよう。
不浄の穴をのぞかれる気持ちを、その心にトラウマとして刻み込んでくれるわ!
俺は獏に復讐を誓った。
あれから獏が、俺にめちゃくちゃ気を使ってくる。
気を使われるたびに羞恥心がよみがえってきて、いらぬお世話もいいところだ。
しかし、それよりも大きな問題が身近に浮上する。
俺のママンがノイローゼになりました。
原因はわからない。気が付いたらママンはノイローゼだった。
(ママン、大丈夫? 俺がついているから安心してね)
ノイローゼのせいだろうか?
ママンはソファに座り込んだまま、妙に険しい目つきで俺を見つめている。
あの優しいママンが、俺をこんな目で見るなんて。
ノイローゼとは、かくも恐ろしきかな。
俺が赤ちゃんスキルをマスターしたころから、ママンはおかしくなり始めた気がする。
そうだ。あれはたしか、俺が高速ハイハイをマスターしたころだったか。
「タタタタタッタタタタッ」
クレヨン〇んちゃんのひま〇りのように、俺は擬音を口ずさみながらわが家を駆け抜ける。
我ながらいい感じだ。
これは赤ちゃんハイハイ選手権で世界をねらえる。
地道に努力を重ね、ハイハイを極めた成果がこれだ。
この世界で頑張ろうと決めたあの日から、俺は起きていられる時間は、朝も夜もなくハイハイの鍛錬を重ねた。
そう、朝も夜もなくだ。
赤ちゃんの睡眠時間は不規則だ。
真夜中でも突然に目が覚めたりする。
いくら深夜とはいえ、目はぱっちりと開いているのだ。ただ寝ているだけなのはもったいない。
空いた時間を有効活用するべきだ。
そう考えた俺は赤ちゃんハイハイを極めんと、親の目を盗んで連日連夜にわたり努力した。
親に見つかりそうなときは寝相が悪いふりをして乗り切った。
俺が無事に高速ハイハイを極めたころには、もはやママンは敵ではなかった。
俺の前に不沈艦のごとく立ちはだかった、あのママンを高速ハイハイは置き去りにできる。
毎日のようにママンは七転八倒しながら、俺を追いかけてきた。
俺はそれをあざ笑うかのように置き去りにする。
とても楽しい日々だ。
追いかけてくるママンは髪を振り乱して、まさしく般若のごとき形相だ。
しかし、俺は後ろを振り返らない。
あれは見てはいけないものだ。
振りかえってしまえば、いずれ追いつかれてやられるだろう。
みずからの直感を信じて、俺はママンの暗部を覗かない。
油断大敵、火が亡々
三十六計逃げるに如かず。
この般若から逃げきれれば、俺の胆力と逃走力はめきめきと上がっていくはずだ。
ママンと追いかけっこをする日々は、数日間ほど続いた。
そして気がつけばママンはノイローゼの魔の手のかかり、体力まで削られて力尽きていたのである。
ちくしょう、なんたる非道な現実よ。
「……あ、ああ」
まるでサキュバスに生気を吸い取られたかのように、ママンはげっそりと痩せてしまった。
あれでは出がらしのお茶だな。
たまに意味のない言葉を発しながら近づいてくるし、マジでやばい気配をびんびん感じる。
「あう~、きゃーお」
ママンが近づいた分だけ、俺はじわじわと距離を広げる。
気分は草食動物だ。
肉食獣に狙われる獲物の気持ちが、最近よく分かる気がする。
おのれノイローゼめ! 俺の身が危ういだろ。あの頃の優しいママンを返せ!
最近は授乳の時間が憂鬱だ。
ママンの俺を抱く力が強くて困る。
表情にも余裕がなくて、鼻息も荒い。
俺を見る目は血走っていて、まるで山姥のようだ。
ここのところ授乳の時には、必ずパパンが付き添っている。
よほどママンは重篤と見える。
ママンの病状を改善するためにも、俺はこの世界の言葉の習得せねばらない。
かつてないほど意欲的に、俺は言葉の習得に取り組む日々を送った。
そのかいもあり一歳の誕生日をむかえるころには、両親の会話を聞き取るのに不自由はしなくなっていた。