第十六話 子供教室
俺に家庭教師がつけられることになった。
各地の冒険者ギルドに、家庭教師を募集する張り紙がはられたのである。
ギルドの掲示板にはられる前に、俺はちらっとパパンに張り紙の内容を見せてもらった。
なかなかにパンチのきいたジョークがちりばめられていた。
募集要項
冒険者ギルドに登録しているA級以上の冒険者で、とにかく我慢強い者。
体術や戦闘技術、または上級魔術に通ずる者。
教え子にやや難あり。覚悟されたし。
報酬は月額でロマニア銀貨5枚~金貨1枚程度。
雇用期間は三か月ごとに更新。できるかぎり長期の者を優遇する。
その他、細かい内容は要相談。
ん~?
教え子にやや難ありって、なによ?
我慢強さとか必要ないだろ。
(これだとまるで、俺が超問題児のような扱いにならないか?)
こんなプリティなショタボーイの家庭教師だぞ。
むしろ家庭教師の方から率先して頼み込んでくるレベルの、破格の好案件だと思うんだが。
どうせならもうちょっと踏み込んで、
〈みんなが笑顔の明るい職場です〉
とか、たいていは大ウソな一文くらいつけて然るべきだろう。
命の危険は少ないのに、こんな大金がもらえる仕事なら俺だって受けたいぞ。
「お父さん、ありがとうございます。どんな人が来るのか楽しみです」
「ちょっと報酬を奮発しすぎたかもしれないね。これは応募者が入れ食いかな?」
お互いに内心を隠しつつ、パパンの冗談にハッハッハッと親子二人で笑い合う。
我が親ながら、よけいな心配のし過ぎじゃなかろうか。
(はてさて、どんな人がくるのやら)
しかし、張り紙をして数ヶ月が過ぎても、俺の家庭教師は現れなかった。
やはり張り紙の内容に問題があったせいだろう。
王都ローレルの冒険者ギルドは沈黙をつづけ、まっさきに来るはずの応募者すらこなかった。
それどころか近隣の村や町からも、誰一人として応募する者は現れず、
「孤高の浣腸王、冒険者ギルドに惨状! 孤高に散る!」
という不名誉な落書きまでされる始末。
『ッ……クックック、参上ではなく、惨状ときたか。ここに孤高をかけるとは、じつに的確に兄様を表しておるのぅ』
「トウマちゃん、良い子良い子してあげる。一緒に寝んねしようね~。だから泣かないで」
その噂は風のように王都中をかけ巡ったのである。
さんさんとお天道様が輝く、お昼寝びより。
王都ローレルにある冒険者ギルドの建物が、俺の目の前にそびえたっている。
石造りの立派な建物だ。
きっと汚い大人たちが蠢く、悪魔の巣窟に違いない。
「ケッ」
建物の壁には、見事な彫刻が施されている。三人の女神が絡み合う、どこか神々しさすら感じる彫刻だ。
どんな方法で金を集めたのか知らないが、不正の温床のような建物じゃないか。
(チッ、気にくわねぇ)
俺は自作の覆面で顔を隠しつつ、ガラの悪いヤクザ歩きで建物に近づいていく。
覆面のおかげでお子様らしからぬやさぐれた表情を、誰かに見とがめられることはない。
だが、整然と石畳の敷かれた大きな通りだ。
道を行き交う人々の視線はうざったいほどに集まっていた。
「カー、ペッ」
俺は建物の壁にタンを吐きつけると、道端で拾った石でゴリゴリと石壁に文字や記号を書き連ねていく。
見事な彫刻そのものを傷つけるのはためらわれたので、そこだけは避けつつも日本語でバカ、アホ、マヌケとはじまり、小さな子供から大きな子供にまで好かれる記号の数々を刻み付ける。
「うーむ、素晴らしい出来栄え。これぞ力作」
どこぞの芸術家みたいに、鷹揚にコクコクとうなずく。
あたかも前衛芸術を作り上げたように装ってみるが、荘厳な雰囲気をまとった三女神にシュールストレミングをぶちまけても許されるなら、きっと神も仏もいらない気がする。
「……」
うん。これは間違いなく「冗談でした。テヘペロ」では済まされないな。
子供でもやっていいことと悪いことがある。
だが、ここまでやってしまったからには、もはや後には引けないのだ。
俺は数秒で手早く作業を終えると、呆然とする衆目をしり目に、おもむろに冒険者ギルドの扉の前に立つ。
そして漢らしくも潔く、自らの履いているズボンに手をかけた。
ゴソゴソッ。ジョ~、ビチビチビチッ……ピッピ。
黄金色の聖なる水が見事な放物線を描き、重厚な木製の扉を濡らす。
ふんっ、いい気味だ。ざまーみろ。
『……………………』
シーンと恐ろしいほどの静寂が、辺り一帯を支配する。
ここまでやっても無反応とか、ちょっと予想外である。
ピーヒョロロロロロ。
どこからかトンビの鳴き声が聞こえた。
うーん……まだかなー。
(は・や・く。は・や・く)
新しいおもちゃを催促をするように、俺はタンッタンッタンッと足踏みを繰り返す。
周りの人間が、ようやくハッと正気を取り戻していく。
「こっ……このガキィィィ、なにしてる!」
「おい、だれかぁぁぁ! 誰でもいい! あの悪がきを捕まえろぉ!」
『おう!』
あまりのことに、あっけにとられていた周囲の人々がようやく騒ぎだした。
ごついやつらが、雪崩をうって突っ込んでくる。
(遅すぎるぜ、かわいこちゃん)
皮の鎧を身にまとった冒険者風の若い男や、髪の毛に見捨てられた頭をした黒のアイパッチ男。
上半身は裸で盗賊の親分みたいなヤバいやつまでいる。
だが、こんなやつらに捕まる俺ではない。
正気に戻るのが遅すぎるのだ。
「ウインド!(最強)」
ゴウゥッと練り上げられた初級魔術の突風が、俺を中心にして吹き荒れる。
烏合の衆と化した暴徒の群れが、次々とドミノ倒しのように風に押し倒されていく。
ついでに舞い上がった砂埃とお姉さんたちのスカートが、ひらひらと否応なく男どもの意識をひきつける。
「追い風ダーッシュ!」
その隙をついて、俺は素早い動きで大人たちの間を駆け抜けた。
背中に受ける風は強風ぐらいに弱まっている。
これなら逃げるのに、ちょうどいい風だ。
周囲の大人たちはいろいろな理由で、まだ男女ともに動けないご様子だ。
白にピンクに赤に黒。
色とりどりのなごり絵は、まさに雪のごとく。
そりゃあ、動けないよね。
だって男たちは絶景を目に焼きつけるのに忙しいし、女たちも絶景の丘を押さえるので忙しいもん。
「クックック、しかと堪能するがいい。これが俺からのプレゼントだ」
そうつぶやくと、俺は難なく目指す建物の中へと逃走を遂げた。
その頃には風もおさまっていた。
ようやく大人たちは行動を再開するが、気がつけば騒ぎの元凶は消えている。
つまり責任を擦り付ける新たなイケニエが必要になってくる。
そういう場合、たいていの責任は大人の男たちが被るものである。
いわゆるリーダシップってやつかな?
「こぉのスケベッ、なに見てるのよ!」
「アッー!」
「いきなり押し倒すなんて、こいつ最っ低!」
「違う、違うんだッ、アッー!」
扉の向こうは大乱闘の乱痴気騒ぎのようだ。
……しまったな。
男たちのリーダシップが足りなかったか。
「まあ、任せればいっか。良いもんが見れたんだから本望でしょ」
あとのことはおっちゃんたちに押し付けて、俺は悠々と歩き去ってゆく。
「はい。みなさん、こんにちわ。大きな声であいさつをしましょう」
『はーい、こんにちわー』
子供たちのあどけない声が、円形闘技場の空に響きわたる。
ここは国が管理する施設の一つである。
剣の鍛錬や魔術の訓練が行える、数少ない子供専用の施設。
この施設に集まった子供たちは、円形闘技場の四方にまとめられている。
何組かの集団に分けられて、いまは大人の話を座って聞いているところだった。
本来は年齢ごとに組み分けられるのだが、なぜか俺は三歳なのに六歳から九歳の子供の組に入れられていた。
俺がここにいる理由は、じつに単純明快だ。
せっかく買ってもらった中級の魔術教本。
すぐにでも中級の魔術をためしてみたい。
だが、家の近くで中級魔術をぶっぱなすわけにもいかず、パパンの知り合いに頼んでもらい、剣と魔術の鍛錬ができる場所を紹介してもらったのだ。
本当はシェリルが送り迎えをしてくれるはずだったが、今日はちょっとした用事があったようなので、俺は一人でここまで歩いてきたのである。
ついた早々にシェリルに見つかって「メっ」をされたが、あれはむしろご褒美だな。
俺はニヨニヨする頬を押さえつつ、大人たちの言葉に耳を傾ける。
「今日もみなさんに、木剣で剣の扱い方を教えてくれる先生と、魔法の使い方を教えてくれる先生がついてくれます。大きな声でよろしくお願いしまーす、ってお願いしましょうね」
『はーい。よろしくおねがいしまーす』
俺たちの前に立ち、笑顔で話しかける人間の女性。
黒目黒髪の素朴なそばかす顔。
教会のシスター服を爆乳で盛り上がらせる、そのアンバランスさが素晴らしい。
まるで幼稚園のようだが、幼稚園とは決定的に違うところがある。
闘技場の土の上に積みあがった木剣や、先端に小さな赤い石がついた短い魔法の杖の数々。
子供のおもりにしては場違いな格好の二人が、シスターの前に歩みでる。
「ハッハッハ、ガキども。今日もよろしくな」
「フォッフォッフォ、みんな元気で可愛い子供たちじゃ」
真っ赤なざんばら髪に、狼の耳と野卑な人間ベースの顔つき。
半獣人のイケメンが、片手をあげて俺たちに笑顔を向ける。
服の上に鉄の胸当てと、関節部を守る部分鎧を身にまとっている。
その声に遅れて、樫の杖をついた人間の爺さんが焦げ茶色のロープをひるがえした。
白髪をうしろになでつけた頭に、しわくちゃな笑顔の好好爺だ。
正直、こんな場所にいるより、縁側でお茶でも飲んでいたほうがいいと思う。
のんびり小鳥と会話するイメージが似合っている。
「えへへ♪ 楽しみだね、トウマちゃん」
円形闘技場の中に入った俺の姿を見かけるなり、暴風雨は抱っこちゃん人形になった。
かってに訓練に参加するわ、腕に抱きついたまま離れないわで、もう手が付けられない。
嬉しそうに腕に抱き着いて、これ見よがしに密着してくるモニカの事は、とうの昔にあきらめた。
いまさらどうしようと無駄である。
相手は子供だ。
そのうち飽きる。
勝てない勝負はするべきではない。
『チッ、このマセガキどもが』
……気のせいだろうか?
爺さんとシスターが一瞬だけ暗い表情で、何事かつぶやいた気がする。
イケメンは変わらずに、ほがらかな表情で笑っているが。
「ハッハッハ、坊主たちは初めてか。オレはガラファルトだ、よろしくな!」
「わしはハラルドという。よろしく頼もうかのう」
「ララノアです。よろしくお願いしますね」
『コローイルリウェリルアでだす』
半獣人のイケメンがガラファルトで、爺さんがハラルド、シスターがララノアね。
後半のガキどもは声が聞こえなかったので、ガキ1、ガキ2、ガキ3と他でいいな。
「僕はトウマといいます。皆さん、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる。
この世界でもお辞儀は、一般市民の間で通じるのだ。
やはり俺が一番のチビか。
全員を見上げて話しをするのは骨が折れそうである。
「わたしはモニカでーす。いっぱいいっぱいよろしくね」
モニカが両手を広げて、まぶし過ぎる笑顔をはなった。
パァっと、満開の桜を見上げるような笑顔だ。
これはもう武器だな。
老若男女の区別なく、全員に効いている。
『……おお』
『……わぁっ』
周りの人間に笑顔の花畑が広がっていく。
この笑顔があれば世界平和も可能かもしれないな。
まあ、モニカが俺の腕に引っ付くなり、すぐに花はしおれて枯れたが。
……あの、これって目の錯覚ですよね?
『……チッ』
「ハッハッハ、良い笑顔だ。さあ、みんなはじめようか!」
先ほどから俺の耳がおかしい。
いまイケメン以外の全員が、揃って舌打ちをした気がする。
どことなく視線の圧力が痛いですよ?
ちょっと周りの雰囲気が怖いし、つーか……ねぇ、やめよう?
俺を睨むのやめよう?
俺は何もしてないでしょ?
「……これは提案なんじゃが、トウマ君はすごい魔術の腕前らしいのう。ぜひとも、その腕前を見せてはくれぬか」
「あらー、それは面白い提案ですね。私も見てみたいわ」
『ぼくたち(わたしたち)もみたーい』
「ハッハッハ、みんな仲が良いな」
……うん。この嫌な流れは、あれかな?
みんなで誰かを貶める時の、あれかな~?
どっかで見た覚えがあるわぁ。
世の中ってのは無常である。
(ハァ、面倒くせぇ)
勘弁してくれませんかね。
いじめってかっこ悪い。それが標語でしょ。
ノーモアいじめ。やめよういじめ。
「ハッハッハ、魔術用の魔法人形は満員で時間がかかりそうだ。よーし、ここはオレが直に君の魔術を受けてやろう! オレは中央に行くから、準備ができたら合図をするんだぞ」
「……んん? え? ちょっとせんせい? ぼく、だいぶお話しが見えてこないんですけど」
あぁ、行っちゃったよ。
中央に向かって走ってますな。
俺よりも元気いっぱいだね。
「ハッハッハ」
高笑いが闘技場に響いて、やまびこみたいだ。
う~ん。いったい何を考えているのかな。あのイケメンは。
アホ? アホの人なの? いくらアホでも、それは死んじゃうよ?
周りは誰も忠告すらしないし……えっと、あの人っていつもこうなの?
モニカだけだよ? ちょっと驚いた顔しているの。
「……ハッハッハ、いいぞぉー準備完了だ! どんな魔術でもオレが受け止めてやる。どんとこーい!」
「トウマ君、いつでもやっちゃっていいわよ。あの人はちょっとやそっとじゃ死なないから、大丈夫。もしも死にそうになっても、わたしが治しちゃいますからね」
「フォッフォッフォ、あやつは頭こそ弱いが、あの生命力だけはうらやましいものじゃ」
ふーん。そうなんだ。
へー、ララノアさんって回復魔術が使えるんですね。
爺さんも、うらやむほどの生命力か~。
……なんかムカついてきたなぁ。
いいだろう。ぶっぱなしてやろうじゃないの。
死んだらテヘペロでごまかしてやる。
「ガラファルトせんせーい。ぼく、おもいっきりいっちゃってもいいですか~?」
「ハッハッハ、いいぞぉう。君の全力を、先生の厚い胸でおもいっきり受け止めてやる」
いちいち高笑いすんなよ、うるさいなぁ。
俺たちの会話が円形闘技場の空に響き渡る。
四方に分かれて訓練をしていた全員が「何事?」という感じで、俺たちに注目している。
何人かの人間が「……ああ、またか」という感じで、納得した表情をしていた。
よーし、そういうことなら三歳児の本気を見せてやろうじゃないか。
いくらなんでも上級魔術はやめたほうがいいかな。
あれは問答無用で死ぬかもしれんし。
中級の魔術教本も、その内容は初級と同じ組み立てだった。
中級魔術にはじまり上級魔術への入門編といった感じだ。
まだ使えるかどうかわからないが、やっぱり上級はやめておこう。
「いきますよー」
「ハッハッハ、どんとこーい」
火水土風のどれにしようかなぁ。
火は人や闘技場に燃えうつるかもしれないし、水はみんなをまきこむかもな。
土は下手を打つとつぶれる系だろうし……やっぱり風でいくか。
風系なら慣れている。きっと範囲をしぼれるだろう。
「……いっきまーす」
「ハッハッハ、ちょっと先生は待ちくたびれたぞー」
俺は念のため周りの奴らから、いくぶん距離をとる。
もしも全方位にいったら死んじゃうもんな。
細心の注意を払わないといけない。
「空に舞う風の乙女よ、汝の息吹は魅惑の剣舞なり。我が敵に狂乱の抱擁を与えよ――フィルウインド!」
ゴオオオオオオオオオオオオッ!!
「ハッハッはぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁッ……おぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁ!?」
ガラファルト先生の四方から、つむじ風が発生。
完璧に逃げ場を消していくかたちで四つの風が一つにまとまり、彼を上空へと巻き上げつつ、風の刃でザクザクする。
見たままを言うなら、そんな感じだった。
ヒューーーーーーーーガッ、バキッ!! ゴロゴロゴロゴロッ……ボテッ。
空に巻き上げられたガラファルトは、なんとか意識を保ちきったようだ。
あんなの空中で気絶してもおかしくないのに……そこだけはスゲェな。
空中にいる間はバタバタと両腕を鳥のように羽ばたかせ、見た目はアホだけど……すげぇアホだけど、頑張って全身で着地。
両手両足を地面にたたきつけ、それでも勢いを殺しきれずに肩を強打。
大型乾燥機にぶち込まれた衣服のように、グルングルン転がりまわって、ようやく回転が止まる。
「あ~」
…………さすがにあれは死んだかな~。
…………いや、生きてるか…………。
あの爺さんがうらやむほどの生命力は、伊達ではない。
全身を荒縄で拘束されたオットセイのように、まるっきり動けない様子でシクシクと泣いているが、アレを食らっても生きているのは素直にすごいと思う。
『……………………………………………………』
全員が無言だった。
誰も声を発することなく、ガラファルト先生の哀れな泣き声だけが、円形闘技場の空に響いている。
……先生ごめんね。
死ななかったのは本当にすごいことだけど、先生も怖かったよね。
俺は先生に酷いトラウマを与えてしまったかもしれない。
「ララノアさん、先生を早く治してあげてください。放っておくと死んじゃいます」
「ハッ、ハハハイ! 治しますッ、ラララッ治しますッッ!」
俺が声をかけると、ララノアは悪霊にでも遭遇したかのような反応をかえす。
心底に怯えきったようすで、生まれたての小鹿みたいに両足が震えている。
彼女はヨタヨタと頼りない足取りながら、なんとかガラファルト先生のところへ向かっていく。
これで先生の心の傷はともかく、いちばん大切な命だけは助かるはずだ。
あまり先生の泣いている姿を見るのは忍びないので、俺は視線をそらして最初に座っていた位置に戻る。
「ひぃぃぃぃぃ! あくまぁッ!」
「きゃああああああああああッ!」
「お母さんごめんなさい、悪いことしてごめんなさい、お母さん許してよ、ぼくを助けてよおかあさんっっっ」
振り返ると、俺の周囲は阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
出合ったばかりの頼もしい仲間たちは、泡を食ったように右往左往。
全員が股座からジョロジョロとおもらしをしている。
「ぎぃぃいぃぃいいいぃいぃっぃいぃいぃ!!」
腹を切り裂かれた食肉動物のような声がする。
視線を向けると、何故かハラルドの爺さんが白目をむいてぶったおれていた。
ガクガクと壊れた目覚まし時計の針ように震えながら、しきりにブクブクと泡を吹いている。
これはガラファルト先生よりも、爺さんのほうがヤバいんじゃないだろうか。
もう危篤寸前だ。
誰でもいいから医者を呼べ。
俺は念のために足りない知識で心臓マッサージを行い、壊れかけた針の修理を試みる。
努力のかいあって、どうにか爺さんは一命をとりとめた。
残りの寿命は、あと何年ぐらいだろう?
俺のせいになるからできれば長生きしてほしいのだが、無理な高望みはやめよう。
ハラルド爺さんの口の泡は、モニカが布でぬぐい続けてくれた。
阿鼻叫喚の地獄絵図は、そろそろ落ち着きを取り戻しはじめている。
まわりの状態が混乱の極みくらいに落ちつき、俺にできることはなくなった。
まるで悟りの境地に達した坊さんのごとく、俺は静かに沙汰を待つことにする。
土を踏む足音に顔を上げると、モニカが俺の前に立っていた。
彼女は眉を下げて、ちょっと困り顔で俺を見つめている。
どこか怒ったようにもみえる表情で、こんな彼女の顔は初めて見る。
「も~っ」
モニカは口をとがらせながら、俺に向かって手を伸ばす。
俺は反射的に目をつぶり、パチッと両手で頬を叩くように、モニカの手に優しく包み込まれる。
まっすぐに俺を見つめる濃紺の瞳が、目の前にあった。
「トウマちゃん、メっでしょ!」
シェリルが俺にしたような、優しい怒りかた。
自然と、自分の口が開くのを感じる。
「ごめんなさい、モニカお姉ちゃん」
「もうこんなことしちゃ、メェよ?」
「うん、もうしません」
「――いこう。ママのところに、いっしょにかえろーね」
「うん」
どうしてこの子は、こんな優しくしてくれるのだろう。
みんなが逃げた。
普通なら逃げてもおかしくないことなのに。
この小さな女の子の考えていることが、俺にはわからなかった。
二人で一緒に家への帰り道をたどりながら、俺は思わぬ難問に頭を悩ませ続けた。