第十五話 変わらぬ日常
妹ができてから、そろそろ半年が経過する。
新しい家族が増えて、俺が瞬く間にリアラに忠誠を誓ってから、もう半年がたつのか。
感慨深いものだ。
いまだペロリスト界の頂点は、ぶ厚い雲にさえぎられている。
たとえ一人で登る頂でも、日々精進である。
両親が育児に奮闘するなか、俺は当然のように蚊帳の外だった。
俺が近づくとリアラがマジ泣きするので、妹接近禁止令が敷かれていた。
どうやらリアラは、俺におびえているらしい。
いまさら後悔しようと遅いがな。
その日が来るまで、せいぜいおびえるがいい。
兄となった俺は忍耐強いのだ。
あの日の誓いが果たされるまで、岩の上にも三年の決意。
この覚悟を成しえたとき、俺はペロリスト界の重鎮となる。
その名声は天にも届くだろう。
いつものように店先に立て看板を出しながら、俺は甘美な想像に忍び笑いをもらす。
道を行き交う人々が、急に遠回りで店の前を避けて通るのが気になったが、それも些細な事である。
朝方に見かける獣人のお姉さんや奥様たちが、少し離れた場所でひそひそ話をしている。
「あの子でしょ。いま噂になっている子って……本当に駄目そう」
「そうなのよねぇ、あたし白様が心配で」
白マニアの方々か……聞こえてますよ?
なんだ駄目そうって、余計なお世話だ。
(またやってしまったか)
どうにも俺は邪心がもれやすいみたいだ。
考えが顔に出ると、いろいろと不便だな。気をつけねばなるまい。
遠くの母屋から、リアラの鳴き声が聞こえていた。
ついに俺も三歳になった。
誕生日プレゼントは、前もって両親にお願いしておいた。
頼んだプレゼントの内容は、中級の魔術教本。
三歳になったことを機に、そろそろ基本的な言葉や文字の学習から重点を置き変えようと思う。
冒険者になるために必要な、実践的な知識や経験を積んでいく頃合いだ。
知識だけでいえば、パパンの書斎にある書物は大いに役に立った。
商人に関係する書物だけでなく、この世界にある薬草やキノコの知識。
ロマニア地方に出没するモンスターの知識や分布など、いろいろとためになる内容の書物も多かった。
しかし知識だけでは心もとないので、実際の経験を蓄えていきたい。
生兵法は大怪我の基というからな。
俺が三歳の誕生日に欲しいものをお願いしたときに、将来は冒険者になりたいと伝えたおかげか、パパンが全面的に支援してくれることになった。
どうやらパパンのほうでも、俺が商人に致命的に向いていないことを、早々に見抜いていたふしがある。
客もどきの肛門を貫いた時点でわかることだな。
この三年で俺が魔術以外に学んだことは、いくつかの種族の言語だ。
ほとんどマスターしたといえるのは、この世界の人間が使っている「人語」と「獣人語」のふたつだけだ。
パパンの店に出るようになって、はじめて見かけた獣人族だが幸いなことに獣人族の店員が数名ほど雇われていた。
あれは俺がパパンの店のお手伝いにも慣れたころだったか。
「すみません、オルヴィレオさんにガルギさん。いま手は空いてますか? 二人に教えてほしいことがあるんですけど、いいでしょうか」
俺は従業員用の休憩室にいた二人に声をかけていた。
真上で太陽がさんさんと輝く頃合い。
パパンの店の従業員たちは、交代で昼の休憩をとっている。
彼らは屋台で手早く食事を終えて、いましがた二人そろって戻ってきたのだ。
「おや、坊ちゃんじゃないですか。あっしらに教えてほしいこと? そりゃあ、なんですかい」
二人の男性のうちの一人が振り返る。
ライオンに似た獣人で名前はオルヴィレオ。
イケメンな雰囲気で、意外と細かい作業をてきぱきやる。
部屋の中には簡素な長机が二つ並んで、椅子が十脚程度。
奥にある長机に、彼らは向かい合って座っていた。
机の上には取っ手のついた陶器の大瓶に、陶器のカップが置かれている。
「教えるって、おらもだか」
「はい、二人にお願いがあります」
「そうか」
ちびちびとカップにそそがれた液体を飲んでいたガルギが、カップを置いて俺に目を向ける。
ガルギは熊っぽい見た目の大男だ。
大らかな性格で気の優しい力持ち。
怒らせたら一番ヤバいタイプだろう。
あの大瓶の中身は水に酸味のある果実を切り分けて入れた果実水で、パパンが健康のために飲んでいるのを、よく見かける。
実際に疲れが取れるらしいのだが、酸味が強いせいで子供の舌には合わない。
たしか土レモンとかいう一風変わった植物だ。
土の中から掘り起こすらしいのだが、サツマイモかよ。
「おらは休憩中だから構わねえけんども、オルもいいだか」
「ああ、構わねぇが、あっしらが坊ちゃんに教えられることですかい。商人の知識なら親父さんに聞いたほうが早いですし」
オルヴィレオが不思議そうに首を捻る。
二人とも獣人の血が濃いのか、だいぶ見た目がそのまんまで怖い。
そして毛深いうえに声が渋い。
見た目で差別する気はないが、今のうちから獣人と接することに慣れておきたい。
「ご協力ありがとうございます。僕、獣人語の会話を覚えたいんです。手が空いているときでいいので、僕と会話をしてくれませんか?」
「あっしらの言葉で会話を? ええ、それぐらいならお付き合いしますが」
「お、おらも付き合うだ。でも会話するだけでいいだか?」
「はい、獣人語で会話ができれば、獣人のみなさんとも仲良くなれると思います。僕の自習もはかどりますから、ぜひ教えてほしいです」
俺の言葉に二人は顔を見合わせて、ガルギは快くうなずいた。
オルヴィレオにいたっては、いきなり目頭を押さえて震えている。
なんだ? いったいどうした?
「……ッ、いえね。あっしらの言葉を学んでくれるなんて、坊ちゃんはなんていい子なんだと感激しやして」
「うん、おらも嬉しかっただ」
いや、大げさだから。
やりづらいし、鼻水たらして泣くのはやめてくれ。
「だって獣人のみなさんも、家族です」
「坊ぢゃん」
「いい子だ。本当にいい子だ」
このふたり、見た目は怖いが気のいい獣人なんだろうな。
オルヴィレオは感激屋だし、ガルギはかみしめるように「いい子」を連呼している。
パパンのお店の従業員は、みんな俺のことを怖がっているんだぞ。
少し言葉を交わしただけで、こうも評価が変わるとは思わなかった。
こちらとしては実地で獣人語の会話をマスターするのに都合がよかったので、二人に声をかけたのだ。
感激なんかされると、逆に居づらいわ。
あのとき、居心地の悪さを表情に出さないように頑張った自分を褒めてやりたい。
もっと俺の心が真っ黒であれば、気まずい思いをしないですんだのだろうか。
それから二人と時間があうときは、積極的に獣人語の会話に付き合ってもらった。
俺は少し調子にのって、一度だけ耳や尻尾を触らせてくれないかと頼んでみたが、何故かそれは嫌がられた。
「勘弁してくだせぇ」
「人間の子供は加減がないだ」
別に耳や尻尾を見ても、触るだけで変なことはしないぞ。
力いっぱい握って、引き抜いたりしないから安心していいのに。
獣人とは遠慮深い種族だな。
オルヴィレオとガルギのおかげで、俺は無事に獣人語を習得することができた。
あとから知ったことだが、二人には給金とは別に特別手当が上乗せされたらしい。
さすが商人というべきか。
パパンは従業員の事を、よく見ているんだなと感心する。
獣人語をマスターしてからは、他の種族の言語の読み書きに注力した。
会話はカタコトだが、文字の読み書きくらいなら可能である。
エルフ語にドワーフ語。
あとは珍しいものになると、ユニコーン語という言語まであったな。
もっと他にもあるかもしれないが書斎にあった書物で、異種族の言語関連はそのくらいだった。
これでも十分すぎるか。
できれば会話も覚えたい。
獣人語のように他種族の助力を期待できないだろうか。
まだ行動範囲が狭いせいか、王都ローレルで人間と獣人以外は滅多に見かけない。
頼みの綱であるリアラは、赤ん坊として生まれてからというもの寝てばかりだ。
受肉した影響か、よく寝る子である。
なにより近づくのすら禁止されている時点で、あんまりサポートは期待できない。
三歳になっても相変わらず俺はモニカに抱き枕にされたり、リアラに精神感応で罵倒されたりしている。
中級の魔術教本を読み込んではいるが、日常に変化が足りないのが悩みの種だった。