夜明けの現場検証
ザッと黒い雨が降り始めた。
上空高く立ち昇った大量の黒煙が雨雲を引き起こしたのだ。
消防の到着が遅れた原因は桜西ニュータウンを中心とした道路上に爆発炎上した何十台もの大型車両が横たわり、緊急車両の進路を塞いでいたからだった。車両の消火と移動に無駄とも言える時間を費やした。
消防隊が火災現場に着いたのは日付が変わる頃だった。
深夜から未明にかけて消火活動は続き、焼跡内部の一酸化炭素濃度が低くなるのを待って、消防による現場検証が始まったのは夜明けとなった。
桜西消防署警防課消防士長、西園寺正義は総重量約10キロの防火服と装備を身に着けていた。
防火衣は摂氏800~1200度の熱に30秒間耐え得る素材で出来ていた。とは言え、検定の基準はたった30秒である。
この大火で隊員達が無事だったのは何よりだった。
ヘルメットを脱いだ西園寺の全身は煤だらけで熱に燻された顔は真っ赤だった。
首筋を濡れタオルでゴシゴシ拭くとポンプ車から離れ建物正面に向かった。
中から防火服の連中に混じって特殊な耐熱服に身を包んだ隊員達が出て来るところだった。
西園寺は足元に転がる変形したバイクのヘルメットを蹴飛ばした。
かつてエントランスだった場所に白塗りの大型バイクが一台横倒しになっていた。タイヤは溶け、ボディーは真っ黒に焦げているが警察が使用する物である事は間違いなかった。
「おい、何でこんな所に白バイがひっくり返ってるんだ」
「警察が来ない事には何とも」
「どけろ。邪魔だ」
「は、はい」
西園寺は建物の中を見回し、吹き抜けになった高い天井を見上げた。
「あれは天窓か」
「そうです」
「酷い有り様だな。よく崩れなかったもんだ」
「建物自体はかなり頑丈だった様です」
「スプリンクラーは作動しなかったのか」
「原因は不明ですがその様です」
「生存者はまだ発見できんのか。出火当時何人くらい居たんだ。この地獄の釜の中に」
「判りません」
「だいたいで良いんだよ。百人か、もっとか」
「それが」隊員はモジモジした。
「何だ、現場初めてか。仏さんの数にビビっちまったか」
「誰も居ないんです」
「そりゃあな。生きてるのは誰も居ないだろう」
「違います。遺体らしき物が一つもありません」
「はあ?全員避難したってのか」
「いえ。出火当時外部に繋がる扉はほぼ全て内側から施錠状態でした」
「施錠されてたのか。どういう事だ」
「閉じ込めです」
「だからどうしてだ」
「セキュリティーシステムの不具合かと思われます。停電と何らかの関係があるのかも知れません」
「クソ。何でもかんでもコンピューターなんぞに頼るからだ。屋上は見たのか。地下はどうだ」
「屋上はまだ。しかし避難者が飛び降りた形跡はありません。地下は機械室、電気室、それに受水槽が」
「隈なく探せ。客がいた筈だ。受水桶の水を抜いて調べろ」
「客だけではなく、突っ込んだ車両の運転手も見当たりません。通常なら運転席かその周辺に投げ出されているかなんですが」
「馬鹿言うな。誰が此処まで運転したってんだ。自動運転か、ドローンじゃあるまいし。リモートコントロールなら細工した痕跡があるだろう。それともお化けかよ?お前ら本当に消防士か」
「は、はい。今のところ」
「何か妙なガスにでもヤラレてんじゃねえのか。救急が来たら診てもらえ」
「自分達にも何が何やら」
「もういい」
西園寺は酸素マスクを装着して焦土と瓦礫の山と化した奥へと進入した。
テロ犯罪なら何らかの神経剤が使用された可能性も否めない。しかし…
「死体なき密室集団殺人だと。ふざけるな。それなら警察の仕事だ。俺は帰るぞ、馬鹿野郎」
毒づきながら検索を開始した。
しばらくすると無傷のケータイ電話を見つけた。それは篠原こず恵の物だったが、西園寺には知る由もない。消火活動をしていた隊員の遺失物だとすぐさま思った。
辺りは真っ黒焦げ。それなのに火災当時のケータイが無傷で済む訳がない。
「現場にまでこんな物を持ち込みやがって。徹底的に見つけ出して厳罰だ。SNSだかNHKだか知らねえが、遊び半分で仕事すんじゃねえっての」
滴り落ちる水滴の雨。
剥き出しになった配管。溶けた便器。どうやら其処はトイレだった。
今度は子ども用の黄色い通学帽を見つけて拾い上げた。
「まったくよお。現場保存の鉄則はどうなってやがるんだ」
その時、水浸しの床がグニャリと動いて西園寺はふらついた。何か柔らかい物を踏んだらしい。
「見ろ。やっぱりあったじゃねえか」
行方不明者だととっさに思った。
フラッシュを当てると足首に真っ白い手が巻きついていた。
胴体はない。ただ、手だけだった。
「ヒッ…、は、離しやがれ」
女のようにか細いその手は恐るべき力で西園寺の巨体を引っ張った。
「うわ!た、頼む。成仏してくれ」
西園寺は床の中に引きずり込まれた。
西園寺が拾ったケータイが、散らばった鏡の残骸の上に転がった。
無数の鏡の破片の中で、無数のあどけない目がギョロリと動いた。




