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千夏・心肺停止

「良かったよ」克哉は千夏の耳元に囁いた。

「私も」

「愛してる」

「愛してるわ。克哉」

口づけを交わして千夏はそっと身を起こした。

「どうした」

「ううん、ちょっと眩暈がするの」

「大丈夫かい」

「平気よ。飲み過ぎね。シャワー浴びてくるわ」

克哉は千夏の腕をとった。

「いいよ、そのままで」

「え？」

「千夏、今すごく良い匂いがしてる。だからそのままで寝よう」

千夏はフッと微笑んだ。

「そうね。あなたもよ」

千夏は再び、克哉の傍らに横たわった。

仰向けになった克哉の腕に頭を載せて、胸に手を置いた。

激しかった呼吸が徐々に落ち着いて、克哉の胸がやっと穏やかに上下し始めた。

「あなたの汗の匂いが好き」

「どんな匂い」

「海の匂い」

ハハハ、と克哉は笑った。

「何処の海だろう」

「意地悪ね」

「ごめんごめん」

「私ね、考えたの」

「うん、何を」

「そろそろ病院に行こうかなって」

克哉は身じろぎした。

二人には子どもがいない。

結婚して始めの三年間は避妊を続けた。双方合意の上だった。

その三年間だけは二人で旅行に行ったり、習い事をしたりして好きな事をして過ごそうと約束したのだ。二人は若かったし、二人だけの想い出をもっともっと作りたいと思った。

そしてその通りに楽しんだ。

その後は子作りに励んだ。

すぐに出来るかと思われたが、そうはならなかった。色んな事を試したけれど、妊娠の兆候は一度も現れなかった。

始めの頃はさして気にも留めなかった。

子は授かりもの。気長に待とうと思った。

そうこうするうちに一年が経ち、二年が過ぎ、気がつくと結婚三年目を迎えていた。

千夏がふと眺めていたテレビの特集番組から不妊治療という言葉が妙に心に引っかかった。

もしかしたら…

悩んだ末に夫に何気なく相談を持ちかけた。

それが三ヶ月前。

「そうだね。今度よく調べてみるよ。少し時間をくれるかい」

当たり障りのない返事をして、克哉はその場をやり過ごした。

「今日もお友達に子どもの話しを散々聞かされちゃって」

「自慢話かい」

「ううん、そういうあざといんじゃないんだけど」

「うん」克哉は身体の向きを変えた。

もっと妻の顔をよく見ようと思った。

その表情から本音を読み取らなければならない。二人にとって重大な事だからだ。

二人のうちのどちらかに生殖能力に問題があるとしたら…。

克哉にはまだ現実を受け止める覚悟が出来ていなかった。

「おもに苦労してるとか、大変だとかその手の話しよ。でも何だか羨ましくて」

「羨ましい？」

「ええ。勝ち組とか負け組ってのとはちょっと違うの。純粋に自分の子どもを抱きしめてみたくなったの。怒ったり泣いたりしながら一緒に生きてくのって、その時は大変だけどそのあとはとても気持ちが良いような気がして」

「母性本能をくすぐられたか」

克哉はおどけた振りをした。

「そうかもね」

けれど千夏の目は至って冷静だった。

克哉はひとつ深呼吸をして、千夏の瞳を見つめた。

「うん。そうだね。医院を探してみよう。評判がよくて優秀な先生のいる所をね」

「本当に？」

「うん。どうして」

「ごめんなさい。私、あなたがあまり乗り気じゃないと思っていたの」

「いや、千夏が本気なら俺もその方が良いと思うよ。いつまでも若いわけじゃないし」

「ありがとう。克哉」

「じゃあそうしよう。検査を受けて何かわかれば、打つ手もあるさ。悩んでいても前に進まないからね」

「よかったわ。ホッとした」

「ホッとしたら腹が減ってきた」

克哉は笑った。

「お蕎麦でも食べる？」

「いいねえ」

千夏は起き上がり、克哉のパジャマを軽く羽織った。

「いいねえ！」

「ばかね。ウフフ」

その時、窓がビリビリと震えたかと思うと轟音と共に地響きがした。

二人は飛び上がって驚いた。

「何」

「何だ」

「地震」

克哉は立ってベランダの方へ歩み寄った。カーテンを開けて外に眼を凝らす。

「どうしたの」

裸のまま二人は寄り添うように夜のしじまに浮かぶ街を遠くに見た。

「火事」

するとまた続けざまに轟音と地響きが数回起きた。

克哉は千夏を抱き寄せた。

「何処だ」

「あそこ」

空がオレンジ色に燃えていた。

「何なんだ」

「ミサイル」

「そんなわけない。テレビを付けろ」

千夏は動かない。

「どうしたんだ」

「カラオケ屋の方だわ…」

「カラオケ屋って、お前行ってた所か」

「そう…私、飲んで寝ちゃって…、起きたら頭が割れそうに痛くて。薬を貰ったんだけど全然治らなくて…」

「それで帰って来たのか」

「私…先に…。大変、皆んなまだ居るわ」

轟音がまた轟いて巨大な火柱が天に突き刺さった。

大蛇の様な黒煙が明るく照らし出されていた。

千夏はよろめいた。よろめきながらサイドテーブルまで何とかたどり着きケータイに手を伸ばした。

連絡を…。連絡？いったい何の連絡だ…

身体が思う様に動かない…

目の前が暗幕を張った様に暗くなった。

千夏の手はケータイに届く前に虚空を掻きむしっていた。

「おい千夏」

克哉は抱き留めるのが精一杯だった。千夏は克哉の腕の中に倒れ込んだ。

意識が薄れてゆくのが自分でもわかった。

「千夏どうしたんだ、おい千夏」

望月千夏は夫に抱かれて心肺停止状態に陥った。

爆発はまだ続いていた。