許されざる言葉
その日、息を切らして翔太は帰ってきた。
「ただいま!」
「おかえり」
キッチンから母、花緒莉の明るい返事がした。
好物の肉ジャガの匂いがした。
ドタバタと二階に上がり押入れの中を探したが見つからなかった。
「母さん、あれどこ?」二階から大声で尋ねた。
「なに?翔太?」
「いいや」
今度は一階まで一気に駆け下り床の間のクローゼットを探し回った。
「あったあった」中学の時に母に買って貰ったエナメルのスポーツバッグ。
メーカーが気に入らないとわがままを言って新しいのを買ってもらった。
あの時初めて父親に本気で叱られたっけ。
「バッグを買って貰えない子だっているんだぞ。たかがメーカーが違ったくらいで生意気を言うな。試合で良い成績を残してから言え」
とりなしてくれたのは母だった。
「いいのよ。しまっておきましょう。またいつか使う日が来ますからね」
スポーツバッグを取り出すとファンシーケースの底に茶色い毛むくじゃらの何かがあった。
クリーニングをしたのだろうか。それは透明のビニール袋に包まれていた。
翔太はそれを引っ張り出した。
薄汚れた熊のぬいぐるみだった。赤黒いシミにまみれ、所々毛が剥ぎ取れていた。
「なんだこりゃ」
翔太はキッチンに行き母の後ろ姿に話し掛けた。
「母さん」
「んーなに?」
「これ、何。俺さあ、こんなんで遊んだ記憶ないんだけど。ヤバイかな。ボケ始まっちゃってる?」
「翔太、ちょっと味見してみ…て…」
花緒莉は絶句して差し出した小皿を床に落とした。
「クマさんのぬいぐるみ」
翔太は笑った。
「きったねえの。ボロボロでさ」
翔太はぬいぐるみをクルクルと振り回した。
「翔太!何処からそれを…」
母の目の色が変わった。
「離しなさい、それ」
「母さん?」
「よこしなさい翔太!こっちに」
「な、何だよ」
「早くッ!返して!」
「バカみたい」
母の異常な態度に驚きながら、翔太はそう吐き捨てた。
花緒莉は熊のぬいぐるみを翔太から力一杯むしり取った。
「今日はもうご飯はないわ!お金あげるからお弁当買って来なさい!」
母の怒りが鎮まる気配はなかった。
その理由は翔太にはまったくわからなかった。
「母さん…」
「あっちへ行け!」
身に覚えのない母の怒り。
翔太は悔し涙がこぼれてきた。
「わけわかんないよ!」
「酷いわ」優子は翔太を見つめ返した。
「翔太君、傷ついたのね」
屋上。
翔太は天窓と空調のクーリングタワーとの間をそわそわと往復していた。
「ぬいぐるみを見つけたんだ」
翔太は立ち止まった。
「それは母さんの本当の子が大切にしていた物なんだ。母さんの為を思って父さんが隠してしまったんだよ」
「交通事故で死んでしまったのね。翔太君がご両親の所に来るずっと前」
「それは、俺のせいじゃない」
「わかってる。翔太君。誰のせいでもないわ。誰のせいでも」
「母さんは長い間病気だったんだ」
「戦っていたのよ」
「俺は母さんを許したいと思った」
「許してあげて」
「出来ない」
「翔太君」
「出来なかったんだ。どうしても」
真っ黒な雲が渦を巻いた。
騒ぐ風の音が二人の頭上を何度も飛び越えてゆく。
蝙蝠は風に引きずり回され避雷針にぶち当たって屋上のコンクリートに落下した。
翼として進化した前肢と気味の悪い皮膜をヒクヒクとはためかせて。
つぶらな真っ黒な瞳は、今の翔太の目と似ている。