声なき旅人の嗚咽
ピンクのポロシャツにベージュのショートパンツ。
非常階段を軽やかに上がってゆく翔太の後ろ姿を見ていると優子は胸が痛くなった。
優子の足元からあやふやなモヤが浮かんでは消えていく。モヤは優子の細い足首に絡みつき、まとわりついては、つい今しがた昇ってきたスチール製の階段をかき消していった。
空は強烈な群青色で粒胡椒を挽いてまぶした様にデタラメな配列の星々が時折荒々しい棘の如く煌めいた。
「着いたよ」
翔太は屋上の真ん中辺りに立って微笑んでいた。
風が立ち翔太の前髪を撫でてゆく。
天窓がいくつかあり階下から運ばれた明かりがプラネタリウムさながらに夜空を照らしていた。
「素敵な場所」
「たまに此処で休んでいるんだ」
「知っているわ」
「どうして」翔太は首を傾げた。
「見ていたから」
「まさか」
「ウフフ」
翔太は周りを見渡して二人が立っている場所より高い所など、他にない事を改めて確かめた。
「私がどうして来たか。翔太君、聞かないのね」
「気にはしていたんだ」
「翔太君は」
「何」
「いつもそうやって一歩引いてる」
翔太は目を伏せた。
ショートパンツのポケットに手を突っ込んでケータイをつかんだ。
メールを見てないなんて嘘だ。したたかな女子の作戦…
汗ばむ感情を察したのは蝙蝠がまた一羽二羽と舞い始めたから。
「これ」
優子はプリーツスカートの織り込まれたひだの隙間からハンカチを差し出した。
女の子はどうしていつも其処から何かを取り出せるのか翔太は不思議だった。けれど今はそれより気になる事があった。
「あ」
「返そうと思ってたんだ。こないだ私の部屋に遊びに来た時忘れていったでしょう」
忘れていったのはそれだけじゃない…
「男物のハンカチよこれ。トラサルディかな。詳しくないんだそういうの」
「俺もよく知らないよ」
「そうよね。刺繍がしてあるの。Sonokoって。Sonokoって誰」
翔太は優子からハンカチを受け取った。いつの間にか優子は目の前に居た。
「女の子って好きな人には名前で呼ばれるのが好き。だから自分の名前を好きな人に覚えてもらいたいのね」
翔太は黙っていた。
「重苦しいかな。こういうの」
「時として。でも嫌いじゃないよ」
気取ったつもりが、少し舌がもつれた。
「私ね、ずっと翔太君の事見ていたかった。どんなに無視されてもね」
「無視なんかしてないよ」
「中学の時はいろんな話をしたよね。同じ部活でさ。勉強の事や他愛ないお喋りも沢山したよね」
「うん」
「あの事があるまでは」
「どうして良いかわからなかったんだ」
翔太は努めてさらりと答えた。
「私もよ。翔太君」
翔太は黙って次の言葉を待った。
「今まで一緒に暮らしてきた親が本当の親じゃないってかなりショックな事だと思った」
やはりそうきたか…
「良いよ。もうそんなの」
「良くない。翔太君は私を遠ざけた。その事に私しばらく気付かなかった。翔太君の気持ちになろうとしたのに私ったらその事だけに没頭してしまったの」
「違うよ」
「違わないわ。私、翔太君を支えられなかった」
「誰にも無理な事だったんだ」
「ほら、そうやって」
「強がってたわけじゃないよ」
「わかってる。翔太君、弱虫だもん」
優子は舌をちょっとだけ出した。
「何が言いたいの」
「そうやって人に頼ろうとしない。私は頼って欲しかったな。ほんのちょっぴりでも悲しみや辛さを分かち合いたかった」
「俺は」
ぐずる赤子をそっと抱き寄せよう、そんな思いと眼差しで今度は優子が翔太の言葉を待った。
「一人で生きていくと誓ったんだ」
そして思った。嘘ばっかり、と。
また夜空が荒々しく光った。
瞬く光の棘は血管の様に真っ黒な雲の中から様々な方向に飛び火しながら、きしむ地面に突き刺さった。
火をつけたばかりの線香花火。
取り留めもない夏の記憶。
声なき旅人の嗚咽。